車椅子の視線から「随想」
(1998年1月〜6月)
◇ NHKドラマ館「みちしるべ」を見て 1998年06月14日
◇ 「生活者の視点に立ったまちづくり」を!! 1998年06月12日
◇ 「通信白書」インターネットで全文公開 1998年05月30日
◇ 看護婦さんから読後の感想が届いた 1998年05月29日
◇ 「子供は親を選べない」・・「子」と「親」と・・1998年03月28日
◇ 頑張れ中高年!! 山一の自主廃業の日迫る 1998年03月09日
◇ 長野パラリンピックと「ノーマライゼーション」 1998年03月04日
◇ 「東京都福祉のまちづくり推進計画」 1998年01月22日
◇ 雪雪雪 車椅子が通行できるうちに早退 !! 1998年01月08日
1998年6月
◇ 「平成10年版厚生白書の概要」を読む 1998年06月18日 木曜日 晴
「平成10年版厚生白書」の概要が厚生省のホーム・ページに掲載されている。今年の厚生白書の編集には女性が参画しているもようで「少子社会を考える−子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を−」が中心に取り上げられて「少子化の要因とそれを巡る社会状況」「少子化の要因等への対応」などの文章に、女性の目で見たきめ細かさがうかがえる。概要を読んでみたがいつもの年の白書とは違うように感じられ全文を読んでみたいと思った。
少子高齢社会に対する対策は社会全体の問題であると同時に、個人個人の問題でもある。絶海の孤島で一生を過ごすような人(殆どいないと思うが?)を除いて、誰もがこの問題に無関係ではいられないからである。現在若い人たちにとっても、やがて必ずやってくる老年時代がどのような社会になる気にかけておいた方がいいだろうと思う。21世紀の日本は、この問題の対応次第で大きく様変わりする事になるだろう。もしかしたら「そんなことは俺の知ったことか」という人が日本人の大半を占めることになっているかもしれない。
5月末に「通信白書」が全文郵政省のホーム・ページに掲載されて話題になったが、厚生白書は今年も概要だけがホーム・ページに掲載されている。この点は残念でならない。全文掲載出来ないさしたる理由があるとは思えないだけに、期待が裏切られた気持ちである。
「平成10年版厚生白書」の目次は次のとおりである。そのうち一部を紹介しておくので、厚生白書に興味のある人は、「厚生省」のホーム・ページで概要の全体は見てほしい。
各省庁で発表するあらゆる「白書」類が、全文ホーム・ページに掲載され、多くの人がそれを自由に見られるる日の一日も早く来ることを願わずにはいられない。
平成10年版厚生白書の概要
第1部 少子社会を考える−子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を−
序 章 少子社会を考える
第1章 人口減少社会の到来と少子化への対応
第2章 自立した個人の生き方を尊重し、お互いを支え合える家族
第3章 自立した個人が連帯し支え合える地域
第4章 多様な生き方と調和する職場や学校
終 章 子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を
第2部 主な厚生行政の動き
第2部は、平成9年度の厚生行政の動きを中心に、第1部で記述した以外の内容を記載している。
第1章 社会保障の構造改革
第2章 健康と安全を守る取組み
第3章 厚生科学・情報化の推進と国際協力等への取組み
第4章 新たな厚生行政の枠組みに向けて
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第1部 少子社会を考える−子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を−
【序章 少子社会を考える】
○ 20世紀後半、日本は豊かさを目指して走り続けてきたが、その間、出生率は下がり続けた。日本は、結婚や子育てに「夢」を持てない社会になっているのではないだろうか。
○ 21世紀の第2四半世紀(人口2割減少、高齢化率3割)を見通し、そこに向けてどのような社会をつくろうとするのかが、今、問われている。大切なのは、人口が減少し続ける21世紀の日本に、「男女が共に暮らし、子どもを産み育てることに夢を持てる社会」をどのようにつくっていくか、ではないだろうか。
○ 少子化の要因への政策的対応の中核は、固定的な男女の役割分業や雇用慣行の是正と、育児と仕事の両立に向けた子育て支援。これらは着実に推進されることが必要。
○ 少子化の要因を生んでいる社会状況を更に掘り下げて考えてみれば、出生率の低下は、20世紀後半の経済成長の過程で進行した雇用者化、居住空間の郊外化などがいわば行き着くところまで行き着き、多くの国民の生活や社会の形が画一的・固定的になり過ぎた結果、結婚や子育ての魅力がなくなり、その負担感が増してきたところに、根本原因があるのではないだろうか。
○ とすれば、出生率の回復を目指し「男女が共に暮らし、子どもを産み育てることに夢を持てる社会」をつくる取組みとは、いろいろな役割を持つ自立した個人が、相互に結びつき、支え合い、「家庭、地域、職場、学校」といった生活に深く関わる場に多様な形で関わっていけるような社会をつくる
ことではないか。言い換えれば、現在、社会の至るところにみられ始めた多様化・流動化の動きを活かし、個人の自立を基本にした「多様性と連帯の社会」をつくることが求められるのではないだろうか。
○ 以下、少子化が進行した20世紀後半特に最後の四半世紀を振り返るとともに、「子どもを産み育てることに夢を持てる社会」を形づくる自立した個人の生き方を尊重し、お互いを支え合える家族、自立した個人が連帯し支え合える地域、多様性のある生き方と調和する職場や学校の姿を展望してみることをねらいとした。
本白書では、人口問題審議会の報告を踏まえ、少子社会について更なる問題提起を試みた。今後の国民的論議を期待。
第2章 自立した個人の生き方を尊重し、お互いを支え合える家族 ・・略・・
第3章 自立した個人が連帯し支え合える地域 ・・略・・
第4章 多様な生き方と調和する職場や学校 ・・略・・
【終章 子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を】
○ 家族内の個人が自立し、それぞれの生き方を尊重する中で、お互いを支え合えるようになれば、家族は潤いの感じられるものとなり、子育てに喜びを感じることのできるものになるだろう。
○ 職場優先の企業風土の是正と多様な働き方の適切な評価により、男性も女性も家庭や地域での生活と両立する働き方ができるようになるだろう。
○ 生活圏にあったまちづくりにより、地域社会に新たな共同性(共同体としての意識と支え合い)が生まれると、地域による子育て支援力が増し、親たちの子育ての負担が軽減され、喜びが増していくだろう。
○ 職場における新規学卒採用の偏重と年功序列型賃金制度の見直し、学校教育における多様化・流動化の動きによって、就業や就学と子育てが両立する人生をより柔軟に設計できるようになるだろう。
○ 過度の受験競争が是正され、親子関係がより多面的なものとなり、教育に対する親の不安感も軽減されるだろう。
○ 家族、地域、職場、学校がこのようにそれぞれ変わっていくことで、これらが相まって「男女が共に暮らし、子どもを産み育てることに夢を持てる社会」の形成につながっていくことが期待される。
第2部 主な厚生行政の動き
・・・省略・・・
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◇ NHKドラマ館「みちしるべ」を見て 1998年06月14日 日曜日 小雨
夕べ妻と二人でNHKドラマ館「みちしるべ」を見た。「NHKドラマ館」は過去に好評だったドラマ作品を再放送するもので今年から始まったものである。「みちしるべ」は、寒い冬には南、夏には北へ車で旅をしながら暮らす老夫婦の物語である。このドラマは1983年に放送されプラハ国際テレビ際で金賞をもらったという。私はこのドラマを見るのは初めてであった。
主演の「宮口清太郎」役には、映画監督の鈴木清順氏が俳優として好演している。「清太郎」と妻の「はな」(加藤治子氏の演技がとても良い)は数年前からワゴン車を住まいにして旅を続けている。教師だった清太郎は退職して二人は年金で暮らしている。はなはリュウマチを患ったのが元で歩けない。東京に住む息子の同居の勧めを断って二人は旅を続けている。
毎年二人は秋に九州を訪れ、はなは決まった病院で検査を受けていた。そこの若い看護婦さんとの交流。途中で出会った、母親が再婚するため祖母と暮らすことになる東京から一人で九州に旅をする少年とのほのぼのとした出会いと別れ(普段学校から帰っても、話し相手も叱ってくれる親もいない少年には躾に厳しい清太郎との別れがつらい)。湯治場での老人達との再会。夕暮れ、見晴らしの良い草原で清太郎ははなを抱いてダンスをする。しかし、二人もだんだん生きることへの不安を持つようになる。
ある日清太郎がワゴン車にはなを一人残して近くの海へ釣りに出かける。なかなか釣れない。少し暗くなる頃ようやく小さな鯛を釣った。車に帰ってくると、編みかけの毛糸の球が車の外に転がっている。驚いて清太郎が車に飛び乗るとはなはワゴン車の中で息を引き取っていた。
九州の火葬場に息子と孫娘が東京からかけつけてきた。一緒に東京に戻るようにすすめる息子と別れて清太郎はまた車でどこかへ去っていった。
「生きる」こと「老いる」ことについてしみじみと考えさせられるドラマであった。
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◇ 「生活者の視点に立ったまちづくり」を!! 1998年06月12日 金曜日 曇
「歩道の工事ひとまず終わる」と書いたのは1998年03月31日のことである。工事が終わって確かに通行がしやすくなった。ただし、一カ所を除いてである。その一カ所とは歩道を車道が横切るところである。(車道から見れば車道を歩道が横切るところ)そこに、わざわざ段差がつけてあって車椅子で通行するときに「ガックン」とぶつかる。わずか2cm程度の段差なのだが私にとっては低い絶壁のように見える。車椅子も車輪の大きい後輪はそれでも乗り越えることが出来るのだろうが、最初に車輪の小さい前輪がつかえてしまう。乳母車も同じ事だと思う。(ただし、乗り心地が悪くても赤ちゃんは何もいわないが・・・・・。)
歩行者や自転車に乗っている人にとっては、この段差はなんでもないかもしれない。しかし、例えごく少数の私のような車椅子を使う人にも(いや身体障害者や高齢者にこそ)使いやすい歩道にして欲しかった。本当に残念でならない。
歩道の設計をやったのは一体どういう人なのだろう? もちん、車椅子になんか乗ったことはないのだろうと思う。「生活者の視点に立ったまちづくり」なんてことを、果たして知っているのだろうか?「バリアフリー」と言う言葉はどうだろう?
毎日「ガクンガクン」と「低い絶壁」を越えるたびに、バリアフリーの街にはまだまだ遠い日本の現状を思い暗い気持ちになる。
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◇ 東京ドームで野球観戦!! 1998年06月04日 木曜日 晴
東京ドームに、車椅子で観戦できる優待席があること 皆さん知っていますか?
あるんです。三塁側の一階席と二階席の間が広い通路になっていて、その通路の一番前の所に6席ずつ2カ所併せて12席あるんです。12席といっても駐車場のように車椅子のマークが書かれていてロープで仕切ってあるだけですが、そこから結構見やすいのです。車椅子での観戦ですから、介護人の席も2人ぶんあります。こちらは車椅子の後ろになるので少し見にくいかもしれません。
料金は一人2500円です。介護人も同じです。席は事前に電話で予約しておくようになっています。直ぐ目の前の内野の一階席が3700円ということですから、少し割引になっているようです。
実は私 東京ドームの中へ入ったのは初めてでした。巨人戦があるときには混雑することは聞いていましたが、この日もやはり混んでいました。ちょうどナイター競馬の場外馬券売場の側を通って入り口に連れていってもらったのですが、人混みの中を行くのが恐いぐらいでした。(車椅子の席の入り口は「関係者入り口」からになります。)
入り口の所で名前を言うと案内嬢が迎えに来てくれて、エレベーターで二階にある席まで誘導してくれました。通路のところも人がいっぱいでしたが、誘導してもらったおかげで席までスムーズに行けました。車椅子の席から近いところに障害者用のトイレもあって、利用しましたが、出入りの時には近くにいる警備員が交通整理をしてくれました。
野球は、残念ながら巨人が3−0で横浜に負けましたが、今日は素晴らしい日になりました。それに昨日まで降っていった雨が今日は晴れたのです。梅雨の中休みというのでしょうね。車椅子で出かけるには絶好の天気でした。
そうそう、忘れるところでした。横浜の「大魔人」佐々木投手のセーブ日本記録達成を見ることができたのです。さわやかな記録の達成でしたね。
もう一つこれは絶対忘れてはいけないことです。「東京ドームで巨人戦を見よう」と企画し席の予約をしてくれて、私を車椅子で連れていってくれたのは、職場の仲間の人たちです。8人の男女がこの日一緒に東京ドームに観戦に行ってくれました。「あなたがたのお陰で少しずつ元気になっていますよ」って 大声で叫びたいような気分でした。
「みんなどうもありがとう!!」
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1998年5月
◇ 「通信白書」インターネットで全文公開 1998年05月30日 土曜日 晴
5月26日に公開された通信白書(通信に関する現状報告」)が、郵政省のホームページに全文掲載されて話題になっている。アクセスする人が多すぎて(通常の十数倍)システムトラブルを起こして26日と27日には一時見られなくなった程である。(現在は見られるように復旧している。)
それほど今回のインターネットでの全文公開はインパクトが大きかったのである。これが、ほかの省庁にも広がって、米国に大きく遅れている我が国の情報公開が、少しでも進むきっかけになることを期待したい。 (通信白書は、従来のように書籍として書店で購入することも勿論できる。その場合は、A4約500ページで、CD-ROMが付いて3,200円ということである。)
米国では、既に様々な公文書がインターネット上に公開されており、世界中どこからでも検索できるようになっているが、日本では、まだ省庁の新聞発表後の情報など一部がインターネットで見られるだけである。
そのため、これまでは「厚生白書」を見たい時など、目次や要旨などはインターネット上で公開されている部分情報を見ることができたが、全文を見たい場合は、書籍を購入するか、図書館などで見なければならなかった。
それが、インターネットで全文が見られるようになれば、画期的なことである。近くに書店や図書館がないところにすんでいる人や、私のような身体障害者の人にもいつでも見られるようになるからである。
今回の郵政省の試みが厚生省や他の省庁にも早く普及することを願っている。
特に「白書」は言ってみれば各省庁の仕事の内容を国民に報せるためのものである。情報公開を妨げる理由は何一つ無い。むしろ、日本中どこにいても白書の全文が見られるようになることのメリットの方が遙かに大きいのではないだろうか?そうすれば、毎年「白書」を発表する目的も今まで以上に達成されるに違いない。
今「情報公開法」制定の作業が進んで議論も活発に行われている。「情報」というのは、古来から権力者の支配の道具に使われてきた。しかし、これからの情報社会ではその役割も大きく変化していく運命にあるようである。情報公開が行政と国民との距離を縮める架け橋になれば良いと思っている。
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◇ 看護婦さんから読後の感想が届いた 1998年05月29日 金曜日 曇
「最後まで家にいられる在宅ケア」を読んだ感想を都立病院のM看護婦さんからもらった。ホーム・ページへの掲載についても快く了解していただいた。
私は、看護を実践していく上で、その人がその人らしく生きていくためにその時必要 なケアをその人にあった方法でケアすることが大切だと考えています。 ですので、在宅ケアの取り組みは、大変重要なことだと思っています。 在宅ケアの場合、より一層生活者としての個別的なニ−ズに対応しなければなりませ ん。言い換えれば、利用者主体、利用者が納得するサ−ビスでなければならないと思い ます。 この巡回型24時間サ−ビスを読んで考えたことは、「患者及び家族への援助をいか にしていくかの取り組みが重要だな」と思いました。言い換えればいかにケア・マネジ メントしていくかを問われているように思います。 臨床の現場において、患者さんから「早く家に帰りたい」という声を聞きます。しか し1人暮らしの方や患者が家に帰るのを受け入れない家族も少なくありません。 社会的資源を上手に活用し、その人のニ−ズにふれるような働きかけをすれば、在宅 介護の効果を知り家族が在宅へと取り組む意欲もわくのではないだろうかと思うのです。 また、今まで自立した生活をしていた人が、入院をしたことで、環境の変化に適応で きず、痴呆症状が出現することがあります。依存心が強くなり、動かなくなることでA DLの低下をきたすこともあります。私は、患者が入院をすると同時に、退院にむけて の看護計画も考慮していきます。患者が生活習慣病と共存して生活をしていくための方 策をその人に一番適するように表せたらと思います。
気になった点をあげると、 第一に、在宅サ−ビスの時間的な関わり 夜間の訪問時間は、コストの面や訪問側の人的配慮からして10分が目安のようです。 この短時間の中でいかに質の高いケアをしていくかを問うていましたが、時間ばかり気 にするのも機械的なケアにならないかと私としましても、疑問に思いました。
第二に、家族への援助 ケア内容として、一番多いのは、「排泄介助:33%」「安否確認:23%」 緊急コ−ルの内容として「病状変化:47.3%」「医療処置:13.4 %」「急 変・死亡:11.6%」と多い。在宅ケアを推進していくためにはこの結果からもわか るように、「介護において、症状への不安はかなり大きいんだな」ということです。 病気に対して、いかに家族の不安を除去し、サポ−トしていくかが介護を継続していく 鍵になると考えます。 自宅で介護したいと思っても、不安に悩まされ、またストレスが増強し、介護倒れにな らぬように介護する家族の側にどのような働きがけをすれば良いのかを今後も吟味して いくことが重要であると考えます。 また、ケア内容として排泄の介助が一番多いのはどんな意味があるのかと考えますと、 まず、実際の排泄のケア内容として、hトイレ介助iオムツ介助j尿便器整理です。こ れらのことを在宅看護で関わっています。高齢者の排泄状況としては、身体機能の低下 から失禁、尿閉、頻尿、便秘、下痢等の障害をおこしやすい。また、尿細管の尿の再吸 収力が低下するために頻尿になる。下痢等の症状が、寝たきり状態をひきおこす恐れが ある等、様々なことが問題につながることがあります。また、排泄コントロ−ルが上手 くいかない場合、オムツをあてることになります。これは、オムツかぶれ、それに続く 褥創が生じる恐れもあります。そして、頻回のオムツ交換をしなければ、感染にもつな がるのです。また、トイレに行かなくなることは、ADLの低下をきたします。
家族の介護の視点からこれらを考えてみると、頻回の排泄介助は、不眠につながり、 疲労が生じる。一人でオムツ交換をすることは、大変な労力がいる。まして、痴呆症状 のある人のオムツ交換をすることは、容易ではない。子供とは違い多量の排泄介助には、 慣れていない。排泄の状態は、その人の健康状況を把握することに大変重要な視点とい うことを理解できていない。排泄ということは、その人のある羞恥心の部分でもある。 等々、介護する人のパ−ソナリティに基づく様々な考えがあるのではないかと思うので す。 この排泄の援助が、家族が一番求めるケアであることをデ−タ−で見れたことは退院 指導をしていく上でも参考になりました。 ただし、介護される患者にとって、介護に対する遠慮、不満、反発などが便秘や失禁 という形で現れることがあることも認識しておく必要があります。 家族だけではなく、介護される側からのニ−ズも組み取り、さりげなくサポ−トでき たらと思うのです。 その人を尊重して、その人の意欲を低下させないように。
第三に今後の社会のニ−ズとして、
介護保険制度導入に伴い、より一層在宅看護のニ−ズが増大していくと思います。ま た、その中でも要介護者の病状の重症な患者やタ−ミナルケアの患者の増加など、援助 する側にとって、今まで以上に専門的なケアが必要になってくるのではないかと考えま す。療養上のケアを主体としながら、診療の補助としての役割としましても、高度な看 護技術も求められます。ですから、在宅ケアをする看護婦は今後適切な判断能力やケア 能力が強く求められると思います。 また、保健・医療・福祉の連携と約4年前よりいわれておりますが、まだまだ体制が 十分でないのは、残念です。 平成10年 5月25日付けの朝日新聞によると、「65歳以上の高齢者がいる世帯 数が千四百万を超え、子供のいる世帯数を初めて上回った」「高齢者がいる世帯の4割 強を、夫婦だけか、一人暮らしの世帯が占めている」と発表されました。 高齢社会において、生活指向の看護をいかにしていくかが問われ、残された機能を最 大限に活かし日常生活の自立ができるような関わりをしていかなければならない。 そして、その人らしい人生を過ごせるように、その人が生き甲斐をもてるように、す こしだけ、手助けができたらと思います。 |
介護を受ける人にとっては、病院と家はつながっていて決して切り離されてはいない。だから、病院に勤務する看護婦さんが、患者さんが家に帰った後の生活、介護の実態について知ることはとても大事なことだと思う。今後ますます在宅での介護、看護が増えていくと言われているので、特にそのことを強く感じた。
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◇ ホーム・ページが見られない! 1998年05月24日 日曜日 晴
先日(5/14〜5/21)、このホーム・ページを開設しているプロバイダのinfowebで、サーバトラブルが発生し、ホーム・ページへのアクセスができなくなる事態が生じました。このためアクセスされた皆さまにご迷惑をおかけしました。トラブルの顛末は「パソコンの部屋」に掲載しましたのでご覧ください。コンピュータにはトラブルが付き物と言われていますが、プロバイダのサーバトラブルは、それを知らない大勢の人を巻き込むことになりますので、その対応が大切だと改めて痛感しました。
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◇ 現代版「一家離散」の始まりか? 1998年05月17日 日曜日 晴
おばあちゃんが転んで入院した。病院で検査してもらったところ骨折しているという。高齢になると骨粗鬆になる人が多く、転倒するとよく骨折してしまうらしい。「高齢で本人も手術をしたくないようなので、取りあえず骨折した所の骨が他の部位にさわらないように牽引して様子をみましょう」と担当の医師が言っているという。医師に任せて当分はそうすることになった。
おばあちゃんは84歳の高齢でありこの頃出歩くことがめっきり少なくなった。普段も食事を済ますと部屋に帰ってテレビを見ながら寝ていることが多い。長く入院していて、このまま寝たきりになってしまうことが心配である。
私が復職後、通勤に便利なようにと東京にマンションを借りて長女と住むようになってからもうじき2年になる。その長女が結婚して新婚生活を始め、次女が代わってマンションに住んでくれることになった。そして今度のおばあちゃんの入院である。
6人家族でにぎやかだった家が急に寂しくなった。
食事を作っていた妻が「現代の「一家離散」ってこんな風に始まるのかもしれないね!」と言った。そうかもしれない。多くの家で子供は成人して家を出ていく。残された人もだんだん年を取り身体の調子が悪くなると入院するようになる。まだ農業の盛んなこのあたりの家でも最近老人の一人暮らしが増えていると聞く。
「家族」という言葉がだんだん「死語」になっていくような気がしてなんだか寂しくなった。
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◇ 「在宅ケア」を考える一冊の本 1998年05月16日 土曜日 晴
「最後まで家にいられる在宅ケア」
ー東京・千住地域の巡回型24時間在宅ケアの実践ー
(増子忠道・宮崎和和子編 中央法規出版発行) を読んで
簡易型の車椅子に乗るようになってから書店に行くのが前よりも楽しくなった。書店の中での移動が自分で自由にできるからである。
家から車で15分ほどの所に大きな駐車場のある郊外型の書店ができて中も結構広いし本もたくさん置いてある。文房具のコーナーも広い。週末に帰っったときにたまに出かけて、車椅子で見て回るのが実に楽しい。大勢の若い人に混じって中高年の人も来ている。これでコーヒーでも飲めるコーナーがあればもっと素晴らしいところに変身するだろうと思う。
この本をそこで見つけた。
この本は、東京の千住地域で1994年から「巡回型24時間在宅ケア」を1年半の間実践した記録である。実践の中で利用者本人や家族といっしょに喜び感動した貴重な体験をまとめた″驚きと感動″の記録でもある。
誰もが「自分が望むところで生き、望むところで死んでいきたい」と思っている。
そのための課題が「介護する家族がいなくても最後まで家にいられるためにはどうしたらいいか」ということであり、答えは「24時間在宅ケアの体制ができていること」である。ところが日本の現実はこれとかけ離れている。在宅で殆ど寝たきりの状態にありながら介護が不十分な状態の人がまだまだたくさんいる。介護する側も「介護地獄」と呼ばれるような状態で疲れ切っている人も多い。それを解決するための「在宅ケアを支援する体制づくり」もまだいくつかの所で始まったばかりである。
ここ東京の千住地域もその一つである。この貴重な数少ない「点」を「面」に拡げて行くことが急務である。そのための課題がこの本の中にいくつか隠されているようだ。
「最後まで家にいられる」ためには、高齢者や障害者であっても家で安心して暮らしていける体制ができていることが必須の条件になるだろう。人が生きていくための「食べる、排泄する、入浴する、服薬する、就寝する、運動する、着替える、化粧する、テレビや新聞を見る」などという基本的なことができることが先ず前提になる。高齢者や障害者で、それが一人でできない人には手伝ってくれる人が必要になる。ところが、だんだん配偶者も高齢になって介護できなくなったり、一人暮らしになっていたりする人も大勢いる。まれに誰にも相談できずにひっそりと死んでいく「独居老人の死」が新聞にのったりする。
こういう問題は個人だけで解決することは難しい。社会全体の問題として解決を図る問題である。ところが今まで、福祉は福祉、医療は医療、保健は保健、住宅は住宅、文化は文化というようにバラバラに対策が行われてきた。けれども人はそういうバラバラな施策が欲しいのではない。生きていく上でのいろいろなことはそれぞれ個々の「点」ではなく相互に密接に「つながっているから」である。
介護保険法の制定が一つの契機になって、ソフトの施策もハードの施策も少しずつ統合されて総合的な施策になっていくことを強く期待している。
そして、高齢者や障害者が、人が生きていくための基本的なことに加えて「街に出かける、買い物する、友達と話す、音楽や演劇を鑑賞する、何か自己研鑽をする」などのことが各種のバリアーに阻まれることなく自由にできるようになれば、もっともっと「生きがい」も増えて充実した人生が送れるようになるだろうと思う。
この本には、このうち家で生きていくための基本的なケアを看護婦とヘルパーのペアによる巡回サービスで取り組んだ試みが載っている。筆者たちは「24時間在宅ケア」を始める前に、柳原病院が中心になって東京都の第一号指定の「訪問看護ステーション」をつくり、「在宅介護支援センター」の運営、「老人保健施設」の開設などもしているとはいいながら、この「24時間在宅ケア」はまだ推進途上であり手探りの状態であるという。だからこういう在宅ケアの体制を今後あちこちで行うにはまだまだ解決しなければならない課題が多いようだ。
今まで日本では、ケアが必要な人に対しても、トータルな支援の体制が十分でなかった。そして「福祉は福祉、保健は保健、医療は医療」のそれぞれバラバラな支援が行われてきた。しかし介護をされるひとは連携されたサービスを望んでいる。介護保険法の制定によって介護に保険方式が導入されることになり少しは総合化がなされるようになるだろう。介護に携わる人的な資源の問題、かかる経費の問題などまだ多くの課題は残されているが、介護を受ける側にたったきちんとした連携による総合的な介護の体制が整備されることを願っている。
この本を読みながら、平成12年から施行される「介護保険法」のことを思い浮かべて、いろいろと考えさせられることが多かった。
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◇ 「親子の関係」を考える 1998年05月11日 月曜日 晴
マンションで私と暮らして世話をしてくれる「介護の選手」が結婚した長女から次女に交代した。長女に「ご苦労様そして幸せに」とお礼を言っておきたい。
次女の勤め先も東京にあるので通勤には便利になるが彼女の自由な時間が大きく制限されるという負担が増えることになる。その辺を長女も気遣って「できるだけ応援するよ」と言ってくれた。甘えて次女の夜勤の時などの応援をお願いすることにした。
私も50代半ばで車椅子生活になるとは夢にも思っていなかったので、いま子供達が協力してくれることを本当に嬉しく思う。たとえ親である私が身体障害者になったためとはいえ自分の時間をこれだけ犠牲にすることはつらいことだろうと思う。
思えば元気なときには仕事に追われてあまり家庭のことを省みてこなかった。家に帰る時間も毎日遅く普段子供達と話をすることも少なかった。それを見て「これではいかん」という神の意志が私を「脳出血」にしたとしか言いようがない。一度ならず二度目もあったのは、一度目の後も変わらなかった私に「わからずや!」と神もほとほとあきれた果てたからであろう。
しかし、そのおかげで「夫婦」や「親子」という家族の絆が今まで以上に強くなったように思うし、成長しつつある子供達の性格や考え方で今まで知らなかったことが少し解るようになってきた。子供達もまた「裸の父親」と付き合いながら新しい発見をいっぱいしていることと思う。勿論皆それぞれ別の人格を持っているからまだまだお互いに解らないこともたくさん残っている。
「親子の関係」は人により違いがある。だからどういう関係が良いとか悪いとかはなかなか言えないだろう。私は自分と子供達の関係を「苦しみの中にも楽しいことがいっぱいある」結構面白い幸せな関係だと思っている。
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今日は母の日だ。日頃世話になっている私と子供達が妻に感謝する日である。特に私の場合には感謝の気持ちを言葉では言い表せない。自分がしなければならない役割まで全面的に妻にやってもらっているからだ。妻が家庭を支えていると言っても過言ではない。
妻も東京に勤めを持っていて朝早く出勤し帰ってくるのが毎日夜の9時過ぎである。自分の仕事をこなしながら子供達や東京のマンションに住む私の相談にのったり、少し呆けが出始めている老母の面倒を見ている。その上、休みの日には家の中の仕事をした上に田畑の管理もやっている。
子供達が成人してきてだいぶ分担してくれるようになり前よりは少しは楽になったのかもしれないが、私の眼からはまるで「鉄の女」のように見える。もし私が病気にならなくて妻が病気になっていたら、とてもとてもその真似はできそうもない。感嘆し、感動し、そして感謝している。
ここで生まれここで育った妻にとっても今の境遇に感ずることもあるだろう。不平不満を一言も言わないから私も子供達もつい「それ」を忘れそうになるが反省しなければならないと思う。
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◇ 「疼痛」との長いつきあい 1998年05月06日 水曜日 曇
左手が痛い。手首の所から指の先まで疼痛である。親指と人差し指が特に痛む。中指から小指まではそれほどではないが少し痛い。親指と人差し指は痺れ感が特にひどく何か自分の指ではないようだ。痛みは手のひらまでずーと続いている。しばらくの間この疼痛を忘れていたのだが連休が終わって職場に出てきたらまた痛みが疼いて気になる。右手で左手の人差し指から小指までを握ってみたりさすってみたりするのだが殆ど気休めにしかならない。
おまけに今日は左肩も痛い。いや左だけではない。右肩までやけに痛い。低気圧や前線が近づいていて天気が曇の日にこういう症状がよくでる。普段何かに打ち込んでいるときには忘れている痛みと痺れなのだが何故か気になる疼痛である。
疼痛とは1985年の一回目の脳出血の時から長年つきあってきた。これからも恐らく死ぬまでつきあっていかなければならないだろう。だからそう邪険にもできないのだがなかなか好きになれなくて困っている。
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◇ また都会の喧噪の中へ戻ろう 1998年05月05日 火曜日 晴後曇
今日で連休も終わる。埼玉の土の臭いがする家に帰ってのんびり過ごした1週間があっという間に過ぎた感じだ。このあたりの家々は家の周りを屋敷林で囲まれていた家が多かったが、この頃は屋敷林も随分と少なくなった。近くに工業団地ができ道路も広い舗装道路になって車の通行が比較にならないほど増えてきた。子供達の外で遊ぶ姿も殆ど見ることがない。田畑で働く人の姿も減った。若者から熟年まで多くの人が都会に働きに出ている。都会化がここでも急速に進んでいる。私はここで生まれたわけではないが鳥や蝶の舞う田舎の風景が好きだったので何故か寂しい。
普段勤めに出ているサラリーマンやその子供達もこの時だけは賑やかに加わって、どこの家でも連休中に田植えが終わった。このあたりも又人気の少ない風景に戻ることだろう。私もまた、今日の夕方東京のマンションに送ってもらうことになっている。
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◇ 田植えが終わった 1998年05月02日 土曜日 晴時々曇
この頃の田植えは早い。年々早くなっているような気がする。我が家でも自分たちで植えていた十数年前には5月末でなければ終わらなかったのが、今年は5月の連休前に終わってしまった。これも機械化のお陰である。もっとも我が家には農業用の機械はない。耕作面積が狭く自前で持つのは不経済だから、田植えも稲刈りも近くの人にお願いしている。田植機など農業用の機械は、高い割に使う期間が限られているから、購入した人も減価償却に相当長い年数がかかる。だから自分の家で空いている時間を上手に使ってやってくれるのである。
人頼みだからといって田植えは決して楽ではない。準備や後の手直しや水の管理などどうしても欠かせない作業が多いからである。今その作業はすべて妻がやっている。車椅子で農業はできないから、この時期私はできるだけ妻に負担にならないように静かにしている。この間も「今日はおとうさんが静かにしていてくれたから随分はかどったわ!」といって妻が笑った。のどかな田舎の休日である。
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娘(長女)が結婚することになった。相手の青年は気心の知れた高校時代の同級生だという。交際していることは前から承知していたので素直に喜びたいと思う。妻と共に青年の両親ともお会いして二人の門出を祝福した。
長女は私とマンションに住んで私の車椅子通勤の面倒までみてくれているので、結婚の時期やどこに住むかなど悩んだようだ。幸い青年も良くその辺の事情を知っていて、結婚後の新居を私が住んでいるマンションから10分ほどの所に見つけた。二人の意思で結婚式はやらないという。新婚旅行も少し落ち着いてからどこか行きたいところがあるらしい。このゴールデンウイーク中に引っ越しを済ませて新婚生活を始めることになるようだ。
娘が結婚する日がいつかは来るものと思っていたが、それが現実になるとほっとする気持ちと同時にやはり一抹のさびしさもある。どこの父親も同じ思いであろうか。
長女が結婚した後は、次女が妻と長女と協力して私の面倒を見てくれることになった。次女の仕事はホテルのオペレーターで夜勤もあるので、マンションに私と毎日一緒というわけにもいかないようだ。今次女と妻が交代で私のマンションに泊まる相談をしている。
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二度目の脳出血に襲われてから4月で丸四年経過した。一度目のときと違って後遺症が較べものにならないほど重い。一度目のときには二年目にはもう杖なしで歩行していたが、今度は今もまだ車椅子である。
家の室内では杖で少し歩けるのだが、体幹のバランスが悪いのと左半身の麻痺が右半身の麻痺に較べてきつく歩行スピードがとにかく遅い。トイレの時など間に合うか心配するほどである。そのため家で歩くときも安全を考えてできるだけ手を引いてもらうようにしている。
しかし歩くことを諦めたわけではない。将来歩ける確率がどのくらいあるのかわからないが、諦めずに頑張ってみようと思う。
言語障害の改善は思いのほか進んで、この頃では調子が良いときには演歌も少し歌えるようになった。病院で言語の先生に発声のとき腹式呼吸のこつを教わったがそれはあまりうまくできなかった。そのため、復職してからの発声練習は、もっぱら高校時代に弁論部にいたときやっていた練習法を使った。
あえいうえおあおえお かけきくけこかこけこ させしすせそさそせそ たてちつてとたとてと なねにぬねのなのねの はへひふへほはほへほ まめみむめもまもめも やえいゆえよやよえよ られりるれろらろれろ わえいうえおわおえお |
これを、できるだけ大きい声で復唱することである。これは、病気になる前にも時々やっていたので抵抗なく続けることができた。特に何も見ないでどこでもできるのが魅力だった。
なんとか四年間歩みは遅いけれど順調に進んできた。これからも次の言葉を忘れずにこつこつとやっていこうと思う。
「あきらめなければいつかはできる!」
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◇ 電動車椅子が届いた 1998年04月7日 火曜日 雨一時曇
簡易型の電動車椅子が届いた。昨年国際福祉機器展を妻が見に行ったときに、「ヤマハ」が出品していたものだ。普通の車椅子よりも数キロ重いだけで出かけるときには普通車に積むことができる。乗ってみると調子がいい。運転も割合に易しそうだ。スピードも低速で2.5キロ、高速で4キロと危なくなくて手頃だ。室内などでは手動に切り替えることもできる。バッテリーは充電した状態で4キロの距離が走行できるという。問題は値段だけだ。同じ「ヤマハ」で出している電動の自転車は10万円ちょっとなのに、これは30万円以上する。福祉機器はいろいろ便利に改良が進んでいるが値段は相変わらず高い。高齢者や障害者向けにもう少し安くならなものか?と思う。
私の場合、左手はまったく車椅子をこげないので不自由な右手だけでこいでいる。自分で車椅子をこぐと極端にスピードが遅いのはそのためである。だから外に行くときにはいつも誰かに押してもらっていたが、これなら少しは自分で車椅子を運転して出かけられそうだ。
( JWシリーズ-ヤマハの電動車椅子のホーム・ページはここ)
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◇ 「花の春」をじゃましないで!! 1998年04月1日 水曜日 曇後雨
今日から平成10年度が始まった。年度の初日がどんよりと曇っている。昨日に較べて10度も低くひんやりと寒い。午後からは雨になった。夜になって関東の内陸部でも雪になるらしい。日本経済の新年度を予測しているかのようだ。昨日までの暖かさで満開になった桜もびっくりしているに違いない。
幸い週末はまた暖かくなるという予報が出ている。今年度こそ 日本経済もそして私自身も より元気になりたい という願いを込めて四月を迎えたのだから「花の春」を誰もじゃましないでほしいものだ。
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1998年3月
研修センターの近くに「環三通り」と呼ばれる桜の名所がある。そこの桜が満開になったというので、仕事が終わってからセンターの仲間が車椅子を押して花見に連れていってくれた。今まで春日通りを自動車で通るときにこの通りの何本かの桜が見えていたが、実際にいってみて驚いた。桜並木が実にすばらしい。「環三通り」の両側と中央分離帯に幹周りが数十センチはあろうかという桜が見渡す限り続いている。中央分離帯の所が通行できるようになっていてところどころにベンチも置かれている。車椅子で満開の桜を見ながら進んだ。時間が早いためか花見客はまだ少ない。ぼんぼりが静かに風に揺れている。少し行くと変わった形の瀟洒(しょうしゃ)な建物があった。それは公衆トイレだった。嬉しいことに障害者用のトイレがついている。地元の人が大事にしてきた桜並木に「ノーマライゼーションを基本としたまちづくり」の一端を感じて嬉しかった。
桜はまだまだまだ続いているが、夕方から気温が低くなっていたのでサーと通り過ぎるだけの花見にして切り上げた。仲間はどこかで軽くいっぱいやっていくらしい。私は酒のない花見だったが満足できる花見になった。
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◇ 歩道の工事ひとまず終わる 1998年03月31日ー@ 火曜日 晴
待ちに待った歩道の工事が年度末で一区切りついて歩道が平らになった。車椅子を押す娘も手放しで喜んでいる。自転車に乗る人や乳母車を押すお母さんやお年寄りも喜んでいると思う。二年に及ぶ工事期間中は本当に大変だった。車椅子に乗って毎日障害物競走をやっているようだった。歩道の利用者は障害者やお年寄りだけでなく健常者も大変だったように思う。工事の担当者も昼間工事がやれないので夜の工事になりこちらはこちらで大変だったに違いない。「ご苦労様」と言っておきたい。
ただ歩道の「工事期間」については生活者の視点から言えばもう少し考えて欲しいと思う。東京のまちなかの歩道で,わずか300mの距離を車椅子で通勤するのに、二年間も工事の影響を受けるというのはあまりにも長すぎるのではないだろうか?「そこに住んでいたのが運が悪かった」と思うより仕方がないとすれば何かが間違っている。これからも歩道の工事はあるだろう。それを利用する身体障害者や高齢者や妊婦も大勢いるだろう。工事計画を作るときは、そういう利用者のことをぜひ念頭に置いて作って欲しいものだ。「生活者の視点に立ったまちづくり」とはそういうところから始まるのだから。
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◇ アマリリスの花が咲いた 1998年03月29日 日曜日 晴
HAさんからいただいたアマリリスの花が咲いた。だいぶ前からつぼみが膨らんできてもう咲くのではないかとこころ待ちしていたが、このところの暖かさを待っていたかのように真っ赤な花を咲かせてくれた。まだつぼみのものもあるがそれももうすぐに咲くだろう。ユリの花に似たこの花には気品を感じて見るたびに心洗われる思いがする。
この花には思い出がある。私がまだ病気で家にいた頃、私を元気づけるためにHAさんが贈ってくれた時にはじめてこの花に出会った。その頃今ひとつ元気がでなかった私もこの花の美しさに元気づけられてリハビリテーションが前よりも進んだような気がした。それ以来この花が好きになったのである。
HAさんはこの冬もアマリリスの球根を贈ってくれた。それを妻が冬の間大事に育ててくれていたのである。真っ赤な花を見て今年はもっと元気になれるようなそんな気がしている。
◇ 「子供は親を選べない」・・「子」と「親」と・・1998年03月28日 土曜日
長女と東京のマンションで一緒に暮らすようになって今年7月で二年になる。私は一人ではまだ暮らしていけない(自立できない)から二人の関係は介護者と被介護者の関係である。
娘は毎朝、出勤前の少しの時間を要領よく使い朝食をつくり洗濯を済ませる。そして8時半になると車椅子を押して私を職場まで送ってくれる。それから自分のバイト先に行き夕方5時半まで仕事をして6時に私を迎えに来る。これが平日の日課だ。
夕方マンションに帰ると夕食の準備、風呂の準備、掃除等の家事が娘を待ちかまえている。月曜日から金曜日までは娘に自分の自由な時間が全くない。これでは肉体的にも精神的にも疲れてしまうだろう。
この道は娘が好きで選んだ道ではなく、そうしなければならない事情は親である私にあった。2度目の脳出血で倒れた後車椅子の生活になった。だから復職に際して通勤が楽なようにと職場の近くにマンションを借りた。二世帯になって私が単身では暮らせないから娘が一緒に住んでくれたのである。
年頃の女性だから、仕事が終わった後の時間に買い物や友達とおしゃべりや、デイトもしたいだろうと思う。自由に過ごさせてやりたい気持ちはよその親たちと私も同じようにある。そんな私の気持ちを思ってか娘は毎日不平も言わずに明るくやってくれている。
この間のことである。「友達に父親と一緒にマンションに住んでいるのよ! と言ったらびっくりされたわ」「いい娘でしょう」といってニコッと笑った。確かに今時の若い娘が父親と二人で一緒に住んでいる例は少ないように私も思う。(まして障害を持つ父親と一緒の例はもっと少ないに違いない。)
妻と相談して毎週末にはマンションから家に帰るようにしているのは、「週末だけでも娘が自由な時間をもてるように」というささやかな思いからである。妻は娘ののことを私以上に考えていて、この間も娘が友人とスキーに行ったときなど自分が代わりにマンションにきてくれるなど娘といろいろ相談してやっているようだ。
とはいっても、この生活をいつまでも続けるわけるわけには行かない。娘に娘のはいろいろ予定もあるだろう。娘の将来を親がしばることだけは絶対にすまいと思っている。だから妻と今後の生活について相談するときも子供達の意見を聞いて「子供達の負担にならないようにするにはどうすればいいか?」をいつも話の前提にしている。しかし、まだ確信のもてる答えは見つかっていない。
いつの時代にも「子供は親を選べない」このことは永遠に変わらないだろう。
それだけに親の責任も重い。親として恥ずかしくない生き方をすることは、子供に対する親の最低限の責任であり義務であると思う。だから、私なりに精一杯の努力をして、いつも前向きに挑戦する自分の「生きざま」をありのまま子供達に見せていきたいと思っている。
しばらく前に、妊娠したときに検査を受けて男女の選別をしたり、障害を持つ子供が産まれる確率が高いときは中絶したりする事の是非についての問題をテレビでみたことがある。親には親の事情があるのだろうとは思う。しかし、それは親による「子供の選択」とは違うのだろうか?と疑問に思った。
「子供は親を選べないのに親は子供を選べるのだろうか?」という素朴な疑問が浮んできて私を憂鬱にする。
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◇ パソコンとリハビリテーション 1998年03月21日 土曜日
この頃殆ど毎日パソコンを使っている。E-mailを読むだけのこともあるし、インターネットで情報を集めることもある。毎週末にはホーム・ページの更新をしている。「少しやりすぎじゃないの?」と妻や娘は心配している。
体調を見ながら使っているつもりだが、それでも「ペースを落とした方がいいな」と自分でも感じはじめて最近少しペースダウンをするようになった。暖かい季節になったら今年こそは車椅子でもう少し表に出てみたいと思う。
☆ そこで、今日は「パソコンとリハビリテーション」について考えてみることにした。
Q パソコンはリハビリテーションに役立っているだろうか?
Aー1 入力にキーボードを使うので指の訓練に役立つている。
1996年に退院後はじめてウインドウズ95パソコンを使い始めた頃はキーボードがうまく打てなくて本当に参った。キーボードを打つときキーボードから指が離れないのである。だから「あ」と打とうとすると「あああああああああああああああ・・・・・」となってしまう。元気なときは何も気にしなかったキーボードを打つのが、実はこんなに難しいものだとこの時はじめて知った。打つタイミングと離すタイミングが微妙に関係していたのである。そのとき「四肢不全麻痺」と診断されていた自分には、パソコンはやっぱり無理かなあ・・・?とも思ったが「ここで諦めては男がすたる」と続けることにした。(内緒の話だが、買ったパソコンを使わないで飾っておくにはもったいない値段だなと思ったことも理由の一つである。)
とにかく、右手をどんどん使って慣れるより仕方がないと思って、毎日少しずつ使うことにした。正直に言って、この時はパソコンを使うことでこれほど右手が良くなるとは自分でも思っていなかった。勿論パソコンだけで右手の機能が回復してきた訳ではないだろう。パソコンを使うことで前向きな意欲が生じ、それがいろいろな面で相互に作用しながら脳と身体に良い影響を与えたのではないかと思う。
この頃ではだいぶ慣れてきて右手の重さも前ほど気にならなくなってきたし、キーボードを打つスピードもちょっぴり速くなったように思う。(自分ではそう思うのだが、健康な人から見ればやはり相当遅い。)
Aー2 パソコンを使うと頭を使うので脳の訓練になる。
パソコンで作業をすると頭を使うことが実に多い。
作業の前、作業中、作業後の点検、いわゆる「Plan」「Do」「See」のすべての場面で頭を使っている。これが脳の活性化の訓練にならないはずがない。訓練が功を奏して、最近ではいろいろな面で意欲が出てきたように自分でも思う。
Aー3 キーボードを打つには両手を使わなければ打てないものがあるので左手の訓練にもなる。
正直の所始めのうちはこれが一番困った。1度目の脳出血の後の片麻痺の時と違って、今回は両麻痺であった。トラブルが起きたときに「Ctrl」「Alt」「Delete」キーを同時に押しなさい。とパソコンの本に書いてある時など一人ではキーボードを押せないのでどうしようもなかった。そんなときは妻の手を借りて二人でキーボードを打ったこともある。そのうちに右手だけでキーボードを操作する方法なども本を読んで少しずつ覚えた。また、左手の訓練も進んで、左手を机の上に固定させて指を使う方法を覚えた。今では、いざという場合には何とか左手の指も使えるようになりどうにか一人で打てるようになってきた。
Aー4 パソコンを使っていると々トラブルに出会う。これは心臓の訓練になるし、「緊急の時にどうするか?」という危機管理の訓練にもなる。
ウインドウズ95パソコンを使っていると時々ハングアップ(フリーズ)する。最初のうちは本当にびっくりした。心臓が飛び出すかと思った。そのうちにトラブルが何度も起きるようになってから、これはウインドウズ95の特徴(?)であると割り切ることにした。パソコンの雑誌にもウインドウズ95のトラブル対処の方法がいろいろ載るようになった。経験を積むことでだんだんと冷静に対応することも出来るようになった。(※そうなるまでには失敗も多い。一度など、妻にパソコンメーカーの「ユーザー相談室」に聞いてもらい(言語障害があり自分で電話で説明できなかった)その指示を私が妻に聞いてキーボードを打った。この時は結局うまくいかなくてノートパソコンをメーカーに妻に持ち込んでもらい再セットアップをしてもらって解決した。)
Aー5 リハビリテーションの項目は長い時間やると飽きてくるが、パソコンは必要なことに使うので飽きがこない。
病院でやる「リハビリテーション」はだいたい一回2〜3時間が限度である。それ以上かりにやることができても飽きてくるだろう。ところがパソコンは好きなことに使っているので飽きがこない。(勿論休みながらやる必要があるが・・・時には夢中になって3,4時間続けて妻に怒られることがある。)
Aー6 情報がメールやインターネットでたくさん入ってくる。情報不足による不安が殆どない。
車椅子で出かける機会が少ないので情報不足で困ることもあったが、インターネットとパソコン通信で関連の情報を見ることが出来るようになり不安は解消した。ある分野に限れば健康な人より多くの情報に接することができるものもある。
Aー7 インターネットにホーム・ページを開設したり、E-mailを使いこなすことで「時代の最先端を行っている!」と言う自己満足が得られる。
ホーム・ページを持とうと決めたのは1997年の夏だったが、タグ(HTML)の勉強や、ホーム・ページの構想、準備に思ったより時間がかかって実際に開設できたのは、その年の12月クリスマスの直前になっていた。FTPでファイルを転送した後でインターネットに接続してネットスケープで自分のホーム・ページを見たときの感動は今でも忘れられない。
一度登録すると更新はそれほど難しくはなかった。「タグ(HTML)を知らなくてもホーム・ページができる!」という宣伝がよく目に付くが、更新を考えると勉強しておいて本当に良かったと思う。毎週末に更新しているが、苦労することは今のところ少ない。(勉強不足で思いどおりにならないことはあるが。)タグを全然知らなくてもホーム・ページは確かに出来るだろうが、更新するのはそれほど楽ではない。
ホーム・ページを見てくれる人のアクセス数が増えていくのが励みになって、毎週末更新している。
今は何とも言えない「自己満足」の気分に浸っている。
Aー8 リハビリテーションで大事なことは「自信がつくこと」ではないかと思うがパソコンを使うことで「自信」が得られる。
「55歳になっても、障害者でもウインドウズ95が使える、インターネットのホーム・ページも開設できた。」ということで、すごく自信がついてきた。
「あきらめなければいつか必ず出来る」
という気持ちをこれからも忘れないようにしていきたいと思っている。
Aー9 知らない人と友達になれるし視野が広くなる。
昔パソコン通信をやっていた時も友人が増えたが、今度の病気の後もインターネットをやるようになってまた新しい友人が増えてきた。特にホーム・ページを開設してからは知らない人から励ましのメールやたまに相談のメールなどももらうようになった。障害が重くなって行動範囲が狭くなり友人が減るのではないか?と心配していたが杞憂だった。インターネットをやるようになって今までよりも交際範囲が広がってきた。前からの友人も、車椅子の私の生き方に共鳴してくれるようになった。
今まで、どちらかというと「都庁」という「井の中の蛙」だったが、遅ればせながら「大海」へ出てみたいものだと思っている。
☆ パソコンは中高年にとっても障害者にとっても、自分を飛躍させるドラエモンの「どこでもドア」として使えるのではないだろうか?
Q パソコンは健康に良くないのでは?
Aー1 長時間パソコンを使っていて電磁波が健康に影響がないか心配が少しある。
電磁波がどれくらい健康に影響があるか良く知らないが、全く影響がないとはいえないのではないだろうか? だからあまり使いすぎないように気を付けていきたい。
Aー2 パソコンを長く使うと目が疲れる。涙が出てくる。
確かに長く使っていると涙が出てくることがある。目薬を使う方法もあるが、休憩を頻繁に取るようにした方が良いと思う。
Aー3 長く使うと肩が凝る
私の場合確かに肩が凝る。右手が宙ぶらりんの状態でないとキーボードが打てないので仕方がないと思っている。体幹がもう少ししっかりしてくれば違ってくるのでは?と期待しているが、とにかく無理をしないことか。
Aー4 パソコンに触れないでいると何だかさびしい。「テクノ依存症」になるのではないか心配である。
「夕方5時以降はパソコンに触れない日」を作っている。「テクノ依存症」はまだ心配ないようだ。
Aー5 パソコンを使いすぎると内向的になるのではと心配である。
いわゆる「おたく」になるのでは?という心配は今のところまったくない。
■ 結論
パソコンは非常に有効(特に障害者には有効)である。だから、使いすぎて病気にならないように健康に留意して使うようにすれば良い。・・・と言うことか。
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◇ 長野パラリンピック終わる 1998年03月15日 日曜日 晴 風強い
長野パラリンピックが14日終わった。閉会式をテレビで見ていて感じたのは選手たちの笑顔だった。みんなにこにこ笑っている。女性も男性も、外国人の選手も日本人の選手も、嬉しそうに笑っている。なんて明るいのだろう。気持ちよい感動を覚えた。
選手はこの大会に出場するために歯を食いしばって頑張ってきただろう。人に言われないような苦労もいっぱいあったと思う。大会でも口惜しい思いをした人もたくさんいるに違いない。だが閉会式の選手の映像はみんな満足そうだった。見ていてとても気持ちが良かった。
「オリンピックの目的は勝つことではなく参加することだ!」
と言ったクーベルタン男爵の言葉を思い出した。「ふれあいと感動」の大会のテーマは選手たちの明るい笑顔によって締めくくられた。
大会が終わったがぜひ忘れないでほしいことがある。それは「バリアフリー」の問題である。
障害者が多数参加したこの大会で、主催者もボランティアの人たちも観戦者もメディアの人も「車椅子でも使いやすいように」と整備された施設を見ただろう。そして何か感じたはずだ。そこは日本の中の点でしかない。外の所ではまだまだ段差があったり手すりがなかったり障害者を阻むバリアがたくさんある。それこそが日本の現実の姿だ。
「障害者も高齢者も暮らしやすい街」を作っていこうという機運は日本ではようやく始まったばかりだ。動きもそれほど早くはない。この大会がそういう機運を「点から面へ」広める出発点になることを願わずにはいられない。
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◇ 頑張れ中高年!! 山一の自主廃業の日迫る 1998年03月09日 月曜日 晴
山一証券の自主廃業の日(3月31日)が迫ってきた。だが再就職先の決まらない社員に40歳以上の人が多いと聞く。長いこと日本企業は終身雇用が慣行となってきた。だから転職などの経験がなく就職先を見つけるのに苦労している人が多いようだ。加えて景気は凍り付いたままである。環境が悪すぎる。
40歳以上になると家族もいるだろう。家を建てたばかりの人や、子供が結婚する年頃の家庭や、進学を控えている家庭もあるだろう。会社が自主廃業するからといって家庭は廃業するわけにはいかない。何としても職を探して食べていかなければならない。今更「何故うちの会社がつぶれたのか?」と詮索しても、悔やんでも仕方がない。とにかく家庭だけは壊さないようにしてほしい。ここを乗り切れば先も見えてくるだろう。頑張れ中高年!!
ああ 春はいつ来る ?????
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◇ 長野パラリンピックと「ノーマライゼーション」 1998年03月04日 水曜日 晴
パラリンピックが明日3月5日から長野で始まる。参加する各国の選手に大きな声援を送りたい。それと同時に、先のオリンピックの時に感動をたくさん報道してくれたメディアにも「パラリンピックでも、オリンピックの時に負けないような感動をたくさん報道してほしい。」とお願いしておきたい。。
私がこのパラリンピックに特に期待していることがある。それは、この大会が、「ノーマライゼーション」という言葉の意味が長野の人々だけでなく日本中に広がる「スタート」になることである。
身体障害者が世界の国々から多数参加するこの大会の報道は、美しい長野の冬の自然だけでなく、街のつくりや交通手段そしてそこに住む市民の心も世界中に報道されて行くだろう。それは否応なく、この国の身体障害者が普段どのように暮らしているか(=暮らさざるを得ないか)を伝える厳しい映像になるに違いない。
「高齢者も若者も、障害者もそうでない者も、すべて人間として普通の生活を送るため、ともに暮らしともに生きてゆける社会」そういう「ノーマルな社会」とはまだまだほど遠い日本の現状を思う時、それは脚色されなければ一層厳しいものになるだろう。どのような報道になるかもまた、しっかりと見ておきたいと思っている。
「冬季オリンピック」に続いて「パラリンピック」を招致した成果は、時間が経たなければ答えが出ないかもしれない。だが両大会を招致した真の意味がどこにあるか?を我々は忘れてはならないと思う。
もし日本が、このパラリンピックを「ノーマライゼーション」の一層の推進に役立てることができなければ、大会を招致した意味がなかったといっても過言ではないのだから。
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◇ 障害を持つ職員の研修参加に配慮 1998年02月27日 金曜日 晴
研修センターで「汚職等非行防止」の公開研修があったので出席して話を聞いた。司法研修所の現職検事が講師であり実務に裏打ちされた大変分かりやすい話であった。話し方も洗練されており200名を超える参加者も良く理解できたと思う。
この研修に1名の耳の不自由な研修生が出席していた。講堂の一番前の方の席に座り講師の話を手話通訳者が2人交代で通訳していた。
東京都にも障害を持つ職員が増えている。私のような車椅子利用者も働いている。身体障害者の職員数が増えるとともに、目の不自由な人への点字の資料や耳の不自由な人のための手話通訳対応などがだんだんと進んできた。苦しい財政下での暗い話が多い中で、障害を持つ職員が研修へ参加できるような対応が進んでいることを目の当たりにして嬉しかった。
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長野冬季五輪のスキージャンプで団体優勝を決めた瞬間、感激して後ろ向きに倒れ込んだ舟木に向かって岡部が、斎藤が、原田が怒濤のように飛びついていった。テレビニュースでそのシーンを見て思わずジーンときて涙がでてきた。
優勝インタビューで原田が泣いた。ぽろぽろ大粒の涙をこぼしてあの明るい性格の原田が泣いた。声を震わせて泣いていた。
忘れもしない四年前のりレハンメルオリンピック、二本目三人が終わって断然リード団体優勝間違いなしと誰もが思った。最後のジャンパーは原田、原田が普通に飛べばそれで優勝だと思われた。しかし信じられない失敗ジャンプ、原田はそのとき地獄を覗いてきたに違いない。そして心の中ではたまらなく口惜しかっただろう。・・・・・悔し涙を噛みしめた時から四年過ぎていた。
今度の長野オリンピック、原田には期するものがあったのだろう、テレビの画面にはいつも明るい顔が写っていた。個人戦ノーマルヒルでも一本目大ジャンプをした後「さあ、もう一本行きますよー!」と明るく答える顔が頼もしく写った。それを見て原田は完全に復活しているなと思ったのは私ばかりではないだろう。・・・・・しかしこの時も二本続いての大ジャンプは見られなかった。個人戦のラージヒルは二本目に起死回生のジャンプで舟木の金メダルに次いで何とか銅メダルに食い込んだ。
最後の団体戦、三人目の原田は一本目まさかの79.5m。出場選手中のビリから二番目の失敗ジャンプだった。吹雪で視界が原田の時特に悪かったとはいえ「またかー!」と観客もそして原田自身の心の中にも不安がよぎっただろう。
一本目が終わって日本は予想もしなかった四位。しかし一位との得点差は少ない。
二本目、逆転の期待に応えて岡部が137mの大ジャンプ、「ワー!!」という大歓声がこだました。この瞬間に勝利の女神は再び彼らの頭上に戻ってきた。続く斎藤もK点を越えた。
そして原田・・・今までの悔しさをすべて吹き飛ばすように岡部と同じ137mの大ジャンプ日本が断然トップに躍り出た。「わー!!わー!!」声援は一段と大きく聞こえた。
後は若きエース舟木のジャンプを残すばかりだった。白馬にすがすがしい風が吹いていた。
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夜仕事が終わってから池袋のメトロポリタンプラザ8Fにある「アマポーラ」というスペイン料理の店に行った。昔私が係長の頃同じ係で一緒に働いた仲間が久しぶりに集ったのである。私自身は二度目の脳出血のあと初めて参加する会食であった。一月にどうかという話が持ち上がっていたが三回も降った雪の影響で立春を過ぎたこの日に決まったのである。
病気の後車椅子で初めて出かけるというので、妻と娘達が相談して会場へ送るついでに自分たちも近くで会食をしようということになった。先ず前の土曜日に一緒に住んでいる長女が先遣隊として会場の下見に行った。店の場所、タクシーを降りてから店に行くのに一番近いエレベーターの場所、店の近くの障害者用トイレの場所を調べてメトロポリタンプラザの案内をもらってきていた。おかげで茗荷谷からタクシーでメトロポリタンプラザへ着いてから真っ直ぐ「アマポーラ」のある8階に直行することができた。
8階に上がり障害者用トイレも見ておこうとちょうど店の裏手にある障害者用トイレに入ってみた。広い。ゆったりとしている。こういうトイレが完備していると実に嬉しい。
「アマポーラ」には全部で7人集まった。一緒に働いた頃から十数年たっていたが当時の特徴をみんなが持っていた。いやそれは正確ではない。私だけが大きく変わっていた。あのころは私もまだ30台で若さとパワーがみなぎっていた。今は車椅子に乗っている。
しかし嬉しかった。あれから皆管理職試験に合格して今では全員管理職に昇進して活躍している。活躍する場所は様々であるが皆自信にあふれていた。この調子でこれからも延びていって欲しいものだ。
申し合わせたように二人が私のホーム・ページ「車椅子の視線から・・・脳出血から2度生還して・・・」をプリントアウトして持ってきた。だいぶ厚い。ホーム・ページをまだ見ていない人にと印刷してきたと言う。そんな配慮がまた嬉しかった。
身体障害者になった今、これからみんなの力になれることは何もないかもしれない。しかしそれはそれでいいだろう。ただ身体障害者としての私の生き方だけはみなに見せていきたいと思う。それを見て少しでもファイトがわいてくるようならしめたものだ。「老兵は死なずただ消えゆくのみ」といって舞台から去っていった軍人が昔アメリカにいたが、私はしばらく舞台の袖にいてみんなの活躍を静かに見つめていたいと思っている。
みんなの話が盛り上がりあっという間に9時を過ぎていた。会食を終えて娘達も店の前で待っていた。私はみんなより一足先に帰ることにした。トイレによってエレベーターで1階に降り出入り口の所に行くと冷たい風が吹いていて寒い。そういえば今日の午前中に風花が舞っていた。妻が車をつかまえに表に出ていったが直ぐに戻ってきた。車が待っている。車椅子からタクシーに乗って窓の外を見ると6人仲間が手を振っている。車椅子でのんびりしているうちに追いついたらしかった。
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◇ 開会式を盛り上げた子供達 1998年02月07日 土曜日
長野冬季オリンピックの開会式をテレビで見た。印象的だったのは地元の小学生・中学生がたくさん参加して開会式を若々しく盛り上げたことだった。子供は素晴らしい。君たちには果てしない未来がある。未来は君たちのものだ。思わずそう叫びたくなったら不覚にも涙が出てきて止まらなくなった。
長野は私の故郷である。ここで生まれ高校を卒業するまでここで学んだ。貧乏だったため奨学金の助けを借りて高校、大学を卒業した。当時の信州の農村ではそれでも恵まれていたと思っている。父と母は尋常小学校さえ満足に卒業できなかったので子供には同じ思いをさせまいと必死だったのだろう。経済的な支援ができないぶん大きな心で精神的に支えてくれた。その父母も今は亡く、オリンピックの開会式が行われている会場から20キロほど離れた山の中の墓地に眠っている。
そんな感慨にひたっているとなにやら聞いたことのある軽快な音楽が聞こえてきた。忘れもしない「信濃の国」である。「信濃の国は十州に境連なる国にしてそびゆる山はいや高く流るる川はいや遠し・・・」子供の頃入学式、卒業式、運動会などの学校の行事の時にいつも歌っていた歌である。今日は歌詞がついていなかったが直ぐにわかった。懐かしい歌だった。
信州も都会化の波が押し寄せて子供の頃と比べてすっかり変わってしまった。山だったところが削られて舗装道路になっている。かぶとやくわがたを捕った木も無くなっていた。「自然が随分少なくなったなあ」病気で倒れる前だからもう五年ほどになるだろうか、久しぶりに帰省してそんな感じをもった。
今度帰ったときに、このオリンピックが長野に何を残したかこの眼で見てきたいと思っている。
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◇ 待ち遠しい工事の完成はいつ? 1998年02月04日 水曜日
マンションをでて直ぐの所でビルの建設工事をやっている。歩道の工事と同じようにもう1年以上になる。今朝も出勤するためいつものように車椅子で出かけたら、歩道に工事用の材料が積んであって歩行者がやっと通れる程しか空いていない。「こりゃ通れないわ!」と娘が言うので「工事の人に手伝ってもらえば通れるよ」といって進むように言った。ビルの前の歩道は狭いだけでなく凸凹と痛んでいてその上ところどころ崩れている。歩行者は通れるのだが、車椅子は片側がその崩れた溝に落ちてしまいそうだ。手伝ってもらわないとやはり無理そうである。「すみません、手伝ってもらえませんか?」工事の人に声をかけると、「あ!すみませんご迷惑をおかけします。」と言って気持ちよく車椅子の片側を持ってくれた。車椅子は片側を浮かせて何とかそこを通り過ぎた。「ありがとうございます」とお礼を言ってその先の歩道にでた。しばらく黙って車椅子に乗っていると押していた娘が突然言った。
「お父さん 歩道の工事のことホーム・ページで書こうと思っているんでしょ!」
工事のことは前にも書いた。本当はもう書きたくないのだが、工事が終わらないで通行する人の不便が続いているのでまた書いている。ビルの建設工事がいよいよ追い込みに入ったらしく工事用の車がたくさん並んでいる。そしてここ数日出勤時間と工事用の材料の搬入がちょうど重なっているのだ。「もう泣きたいよう!」娘がこぼすのもわかる。今年は雪が何度も降り、その上積もった雪がなかなか消えないので工事が遅れてしまったのだろうか?工事をやる人も大変だと思う。だからいろいろ不満もあるのだが我慢している。早く歩道の工事も終わって広くて平らな歩道になる日が待ち遠しい。
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この頃ホーム・ページを見てメールをくれる人が多くなった。私が東京都に就職した頃に一緒の職場にいたKさんもその一人である。私の年賀状を見てホーム・ページを見てくれたようだ。家族にもホーム・ページを見てもらったという。
こういうメールは嬉しい。元気が出てくる。そして30年も前の時間が一瞬にして蘇ってくる。まだお互いに若い頃希望に胸を膨らませて仕事に熱中していた時代。その頃の同僚や先輩の顔も同時に浮かんでくる。
思えばあっという間の30年間だったような気もする。それにしてもいろいろなことがあったなあ!とも思う。私はKさんに次のような返事のメールを送った。
「Kさんメール有り難うございました。
また皆さんにもホーム・ページを見ていただいて大変嬉しく思います。おかげさまでこの頃大勢の人からホーム・ページを見ての感想が寄せられるようになりました。その中にはご家族が「脳出血」で入院中のひと、ご自身が「子宮がん」の手術をして自宅で闘病中のひとなどもありました。私のホーム・ページが他の人に少しでも刺激(参考?)になっているのかな?と思うとホーム・ページを作って良かったなとつくづく思います。
人生って本当にいろいろありますね! 私も都庁で順風満帆に進んでいるように見えたのは43歳まででした。後はホーム・ページにも書いておきましたが、2度の「脳出血」で人生ががらりと変わってしまいました。私だけではありません。妻も子供達も予想もしなかった展開に多分驚いていると思います。しかし嬉しかったのは幸運にも「即死」とか「寝たきり」にならなかったことです。医師から入院当初の状況を聞くと、そうなっても不思議でないばかりか、むしろここまで快復して復職出来たことの方が不思議で非常に幸運だったと思わずにはいられません。
勿論、車椅子の生活ですから、これからもいろいろ困難が多いことでしょう。でも考えてみればそれも楽しみの一つです。新しい出会いが生まれることも、今までのつきあいの中身が深くなることも楽しみです。
これからは「身体障害者に何が出来るだろうか?」それを探しながら、のんびりと楽しくやっていこうと思います。
メール本当に有り難うございました。
1998.2.3 」
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年賀状にホーム・ページを開設したことを書いてだしたところ、何人かから嬉しい激励のメールが届いた。その中に職場を定年で卒業されている先輩のHさんのメールがあった。Hさんは私が病気になり車椅子で復職していることを知らなかったらしい。電子メールを初めてだすのが私あてのメールという嬉しいものだった。パソコンと元気に取り組むHさんの姿を自分に重ね合わせて、自分も負けては入られないと思った。「Hさん頑張ってください。自分も頑張ります。」と返事のメールを送った。
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◇ 「東京都福祉のまちづくり推進計画」 1998年01月22日 木曜日
平成10年1月8日「東京都福祉のまちづくり推進計画」が初めて決定された。その概要は東京都のホーム・ページに照会されているのでぜひ見てほしい。
計画を読んでみると、計画の基本的視点やイメージ像は、まちづくり進めていく上で参考になると思われたので照会しておきたい。なおこの計画は平成9年度から平成17年度までの9年間の計画ということである。
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■ 福祉のまちづくりの5つの基本的視点
次に5つの視点を踏まえて、福祉のまちづくりの施策化を図る。
1) ノーマライゼーションを基本とした福祉のまちづくり
2) 生活者の視点に立った福祉のまちづくり
3) 協働に基づく福祉のまちづくり
4) バリアフリーを推進する福祉のまちづくり
5) 快適性等新たな視点からの福祉のまちづくり
■ 福祉のまちづくりの目標は「やさしいまち東京」の実現で、その都市像を示すと、
次のようになる。
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| 1) 人間性の尊重されるまち |
| 東京で生活するすべての人の基本的人権が保障され、社会の構成員のひと |
| りとして生きがいをもって生活し、活動できるノーマライゼーションの理念 |
| が定着したまち |
| 2) 自由な移動が保障されるまち |
| 高齢者、障害者等を含むすべての人が、自力で安心して、安全に移動する |
| ことができ、社会参加の実現されるまち |
| 3) 地域生活の重視されるまち |
| 高齢者、障害者等を含むすべての人が、住み慣れた地域で住み続け、働き、|
| 学び、遊べるなど、地域生活が重視されるまち |
| 4) 社会的連帯の強化されたまち |
| 高齢者、障害者等の自立を支援するとともに、若い世代と高齢者が互いに |
| 理解し連帯して、共に支えあいながら、豊かに生きることのできるまち |
| 5) 快適性、豊かさを実感できるまち |
| バリアフリーの機能を包み込みながら、まちの美しさ、ゆとりなど、まち |
| で生活することの楽しさ、喜びといった快適性や豊かさを実感できるまち |
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
「やさしいまち東京」をソフト、ハードの両面から具体的にイメージすると次の
ようになる。
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
| 1) 困っている人に気軽に声をかけ、手をさしのべるやさしい心づかいがあふ |
| れるまち |
| 2) 路上には、放置自転車などがなく、盲導犬に対する理解も進み、視覚障害 |
| 者が安心して社会参加できるまち |
| 3) 建築物、道路、公園、駅等どこにも段差がないまち |
| 4) 駅にエレベーター等が設置され、高齢者、障害者等を含むすべての人が自 |
| 力で移動することができるまち |
| 5) だれにも乗り降りしやすいバスが整備され、高齢者、障害者等の移動が容 |
| 易にできるまち |
| 6) 障害者だけでなく、妊婦、子ども連れの人などだれもが使えるトイレがた |
| くさん設置され、障害者等が安心して外出でき、社会参加が可能となるまち |
| 7) 加齢対応型住宅、車いす使用者向け住宅など多様な住宅が整備され、高齢 |
| 者、障害者等が住み慣れた地域で安心して暮らせるまち |
| 8) レストラン、スーパーマーケット、銀行、郵便局、役所など地域で生活し |
| ていく上で必要な公共的施設がバリアフリー化され、だれもが安全で円滑に |
| 利用できるまち |
| 9) 必要な箇所に誘導用ブロック、音声誘導装置、音響信号機などが設置され、|
| 視覚障害者が自力で目的地まで行くことができるまち |
|10) 視覚障害者、知的発達障害者等が、目的地まで安全に行くことができるよ |
| う、サイン、文字表示などの案内表示が整備されているまち |
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
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この計画が計画通り実現されれば、東京も随分住みやすいまちになるだろうと思う。裏返せば今の東京はこの計画に向かって相当努力をしなければならない状況にあるといえよう。
まちづくりは、ハード面の充実の前にソフト面の充実が大事である。「どのようなまちをつくるか」という基本的な姿勢によってハード面の計画内容が大きく変わってくるからである。だから、「ハードの前にソフトを」なのである。
市町村によっては福祉のまちづくりが既に相当進んでいるところもあるかもしれない。そして交通機関でもJRや都営、私鉄では高齢者や身体障害者のためのエレベーターやエスカレーター等の整備が少しずつ進められている。そうしたまちづくりの「点」や「線」を「面」へ広げて行くことが「福祉のまちづくり」なのである。
「生活するすべての人の基本的人権が保障され、社会の構成員のひとりとして生きがいをもって生活し、活動できるノーマライゼーションの理念が定着したまち」
そんなまちにして行くために、行政だけでなく企業や個人、学校などあらゆるところで「福祉のまちづくり」について学習し理解してほしいものである。
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今年の天気は弱いものいじめだ。関東の平野部に今年3度目の雪が降り、私の家の周辺でも午後3時ですでに20cm以上積もっている。降り続いているからまだまだ積もるだろう。成人の日を期待していた若者にとってもさんざんな日になった。天気予報も大雪警報がでていると伝えている。明日はまた車椅子では外にでられないことは確実だ。
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◇ 東京でも二年ぶりの大雪 1998年01月09日 金曜日 雪後曇
昨日からの雪が東京でも二年ぶりの大雪になり15cmぐらい積もった。窓から歩道を見ると一面雪で人が歩いた後が踏まれて一筋だけ細く路になっている。車椅子での出勤はとても無理だ。8時半に研修センターに電話を入れるが誰もでない。交通機関のマヒでまだ出勤できないのだろう。9時にもう一度するとWさんがでた。出勤できないので仕方なくマンションで様子を見ることにした。火災などの事故でもあると一人では避難することもできないからと心配して娘も一緒に休んでくれた。歩けないということはこういうときは実につらい。意に反してもでて行かれないのだ。
車椅子で自由に建物の出入りができればまだ一人でもマンションに居れるのだが、マンションのつくりはそういう「バリアフリー」環境にはなっていない。まして、今日は大雪だ。残っているのも世話にならなければならない。それでも思う。障害者が一人でも自立できる街に東京もしていきたいものだと。
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◇ 雪雪雪 車椅子が通行できるうちに早退 !! 1998年01月08日 木曜日 曇後雪
どんよりと曇っている。今日は東京でも雪が降って積もると朝の天気予報が伝えていた。長野や新潟では昨日から雪でスキー場ではほっとしているらしい。雪を喜ぶ人がいる一方、雪を恐れる人もいる。同じ雪でも人によって受けとりかた大きく違う。だから天気予報もこの頃はそういう配慮をするようになった。晴れの日が続いても水不足になるほど続けば「今日も晴れて良い天気でしょう」とは一概に言えないのだからそれが正解だろう。天気も人によって受け取り方がまるでちがうことは案外忘れられがちだ。
午後から雪が降り出して歩道に積もり始めた。「これから出張するのでマンションまで送ってあげますよ娘さんを待っていたんじゃ帰れなくなると大変ですよ」とAさんが言ってくれたので、送ってもらうことにした。外にでると雪が横に降っている。車道に降る雪はどんどんとけるのだが歩道の雪は溶けないでシャーベット状になっている。その状態の中で車椅子を押すのは慣れた人でも大変だ。まして歩道は工事中ででこぼこしているからなおさらだ。
マンションまで送ってもらって一人で待っていると一時間ほどで娘が帰ってきた。
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◇ 「シャコバサボテン」の花 1998年01月07日 水曜日 晴
研修センターの事務室の前にある談話コーナーで「シャコバサボテン」が綺麗なピンクの花をいっぱいつけて咲いている。年末年始の休暇の間に咲いたらしい。「誰もいない所で咲いていたのか」とそのけなげさに心打たれた。いつも再雇用職員のMさんが手入れをしていたのを思いだし「Mさんの手入れが良いのでたくさん花をつけましたね」とMさんに声をかけると「いえ全然手入れはしないんですよ、ただ時々声はかけてあげるんですけど」といった。花も時々声をかけてあげると綺麗な花を咲かせるそうだ。そういえば、百姓だった父親に若い頃聞いたことがある。「野菜はなあ、毎日畑に行ってやるだけでその足音を聞いて育つんだぞ」その頃は父親の言葉の意味を良く理解できなかったが、植物だって生きているんだとこの頃になってようやくわかるようになった気がする。
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新しい年が明けた。今年は我慢の年になるだろうが、そんな中でも躍進の年になる希望もある。嵐の過ぎ去った後のからっと晴れた空のような、そんな年になることを期待したい。
久しぶりに六人家族全員の膳がそろった元旦になり、賑やかなお正月になった。
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