エッセイ(車椅子の視線から)

 ・・・ 2007年 7月〜2007年12月 ・・・



 


柿の話            
花久の里”で見たもの 
長寿犬「ルー」と和さん 
幼児のマナーは親が教えよう 
木造平屋のバリアフリーの図書館  
旅行とホームページの更新 
猛暑と旅行計画          
中越沖地震の報道に思う    

自由人になって         
わが家のトイレは開け放し





○ 柿の話  12月2日(日)晴

この秋、金さん&和さんは毎日のように柿を食べている。朝や昼に食べるだけでなく時には夜にも食べる。金さんは子供の頃から柿が好きだったが、和さんはそれほど好きではなかったらしい。それがここに来てにわかに柿好きに変身したのはどうも金さんの影響があるようだ。金さんが毎日柿を食べるので、柿の木から取ってきて用意したり一緒に食べているうちに和さんまで好きになったらしい。
わが家に三本ある甘柿の木を植えたのはそれほど昔ではない。子供の頃から柿好きだった金さんが一人娘の和さんと結婚し、共働きだったので子供が生まれてから、ここ和さんの故郷に住むようになってからである。一本目は十数年前におばあちゃん(和さんの実母)が買ってきて植えてくれた。残りの二本は数年前に和さんが買って植えたものである。「桃・栗三年柿八年」と言われるように、柿は植えてから花が咲き実がなって食べられるまでに八年もかかる。しかし、柿にはビタミンCが多く含まれているので、農家では柿の木のある家が多かったように思う。それが最近では庭や畑にある柿の木に実が一杯なっているのに取らないで、カラスなどの野鳥の餌にするか落ちるままに捨て置かれているものが多いのは何故だろう。
金さんが思うに、それは日本人の生活がだんだん洋風になりお菓子などの種類が増えると共に、テレビ、雑誌などでの宣伝が盛んになって、いつでも近くで何でも買えるコンビニ(convenience store)がわが国で広まったのと無縁ではないようである。家で取れる柿などを食べるよりお金を出して買った物しか食べない子供が年々増えているのは、食料自給率が50%を切っている日本の悲しい現実である。
わが家では、家で食べるお米は100%、野菜も和さんの菜園で相当取れるので、その分食料品を買わない。それに和さんが、三本の柿の木に加えて、栗やユズなどの柑橘類も植えてくれた。これからは、もっと家の回りでなり果物を育て、花を楽しんだ後は果実を楽しめるそういう豊かな生活を送りたいものである。(写真は残り少なくなったわが家の甘柿)

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○“花久の里”で見たもの  11月25日(日)晴

表で落ち葉を掃いていた和さんがリビングに戻ってきて
「暖かくて風もないからこれから川里の青木邸の跡地に行ってみない! 今は薔薇の時期じゃないけどコーヒーが飲めるらしいよ」と、
金さんを誘った。
川里の青木邸は親子二代にわたり衆議院議員を務め、薔薇の花をこよなく愛したという青木氏の実家であったが、遺族が町に寄贈したものである。
金さんはあまり乗り気ではなかったが、軽くお昼を済ませてから和さんの運転で出かけた。加須市、騎西町を通って約40分程で目的の場所に着いた。金さんが想像していたものとはかけ離れた空間が広がっていたのでビックリした。
そこで金さん&和さんが見聞したものは、新しい発見だった。
青木邸の跡地は、「花と音楽の館かわさと“花久の里”」と呼ばれており、「NPO法人花と文化のふるさと委員会」により運営されていることは驚きだった。
金さん&和さんの住む、「大利根町童謡のふる里図書館」も、平成9年に町出身の小林氏から寄贈を受けた屋敷跡を、水塚(みつか)、四阿(あずまや)、構え堀(かまえぼり)などのある公園(開琴亭(かいきんてい)公園)として整備し、その中に建設された図書館である。そのことを考えると、個人では維持管理が難しくなり荒れたままになっていた地元の旧家が、町に寄贈され地元の公園になり、そこに建設された町の図書館が多くの人に利用されて喜ばれているのは実に喜ばしい。
ただ、大利根町の「大利根町童謡のふる里図書館」は、町が直接運営しているが、ここ鴻巣市川里の「花と音楽の館かわさと“花久の里”」は「NPO法人花と文化のふるさと委員会」が運営しているという。性格が異なるなるので一概にどちらがどうと言えないが、街おこしになる事業は、多くの住民が参加できるようにして運営するのが、より地方自治の実践の方法になると思った。
いずれにせよ、使われなくなった旧家を、いつまでも個人で所有しているのは勿体ない。そういう場合、、市町村などに寄贈して活用してもらうという方法は、これからの時代の個人所有のあり方をも示唆しているように思えた。

2007年6月にオープンしたばかりという“花久の里”は
トイレもバリアフリーで車椅子でも使いやすいし綺麗だった。ただ一つ残念なのが人気の手打ちうどんが離れの和室でしか食べられないことである。車椅子でも利用できるようにしてもらえると嬉しいのだが・・・。

良いところなので、今度は金さん&和さんで薔薇の花が咲く頃行ってみたいと思う。


※ 花久の里:http://www.kakyunosato.or.jp/
※ 大利根町童謡のふる里図書館「ノイエ」:http://www.lib.otone.saitama.jp/


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○ 長寿犬「ルー」と和さん 2007.11.23(金) 

が家には現在犬が3匹と猫が2匹います。家族の全員が昔から動物好きなのでわが家に犬と猫が一匹もいなくなることはまずありません。愛犬のルーはわが家の犬と猫の中で一番の長命で今年16歳になります。11月になってこのルーに関して嬉しいことがありました。それは15年以上「長寿犬」を飼育してきたことが他の模範になるとして、金さん&和さんが住んでいる大利根町を管轄区域にしている埼玉県加須保健所管内狂犬病予防協議会から表彰されたのです。
一口に長寿犬と言いますが、犬の寿命は平均12〜15歳くらいといわれているので、15年以上の「長寿犬」になるとそれほど多いとはいえないようです。でも、医療の発達、食生活の向上、住環境の改善などにより、犬も人間と同じように長寿化が進んでいることは間違いないようです。
ルーが15年以上も元気にわが家で飼われてきたのは、ひとえに世話をしてくれた妻の和さんの貢献によるものです。金さんは二回目の脳出血(1994年)から車椅子の生活なのでルーの食事や散歩の世話ができません。出来ることと言えば、一緒に遊んでやることぐらいです。和さんが、長い間東京の霞ヶ関まで遠距離通勤をしながら、おばあちゃんの介護をしたり、車椅子生活の金さんの面倒をみてくれただけでなく、3匹の犬と2匹の猫の世話までしてくれたことに、金さんとしても心から感謝したいと思います。この表彰状は、ルーの登録を世帯主である金さんの名前でしているので金さんの名前になっています。“名ばかり世帯主”の金さんを陰で支えている和さんに乾杯!!(笑い)


□ ルーの受難


ルーの場合、何事もなく「長寿犬」になったのではありません。最大の危機が家出(?)して行方不明になり、両前足骨折という大けがをしたときです。
ルーが首輪を抜けていなくなったのは2000年の大晦日の夜でした。その大晦日は、ちょうど20世紀から21世紀に変わる記念すべき夜でしたが、今思い出すとそれは寒い寒い夜でした。
家の者が、ルーが首輪をすり抜けていなくなったのに気がついたのは元旦の朝になってからです。急いで妻と息子が散歩コースを中心にさがしたのですが見つかりません。その後範囲を広げて自転車でさがしてもどうしてもわかりませんでした。
その頃で、もう8〜9年も家にいるルーは過去にも何回かいなくなったことがありますが、いつも直ぐに帰ってきていました。それが、その時はお正月の2日になり3日になっても帰ってきませんでした。「交通事故にあったのだろうか?」嫌な予感がしました。妻と息子も、それも気にかけてさがしたのですがそれらしい事故犬には会わなかったと言います。
その頃まだ勤めていた金さんは4日から仕事が始まるので、3日の夕方和さんに自動車で東京のマンションに送ってもらいました。マンションのベッドの中でもなかなか眠れません。
「大晦日の夜いなくなったのは何か忘れ物をして20世紀へ舞い戻ったのかな?」と思ったりもしました。それでも「今に戻ってくるだろう 待つより仕方ないな」と自分に言い聞かせていました。ただ心配だったのは交通事故でした。家の近くの道路もそのころ自動車の交通量が増えてきて、人だけでなく犬やネコが交通事故にあうことが増えていたからです。それとその年は例年に較べ寒いのも気がかりでした。
5日(金)に仕事が終わってから、いつものように妻にマンションまで迎えに来てもらい、妻の運転で埼玉の家に帰りました。
そして7日(日)お昼が済んで私が昼寝している間に妻と息子が隣町の加須市に買い物に出かけました。それから間もなくです。
「おとうさん ルーが見つかったよ!!」
妻の甲高い声が玄関の方から聞こえます。
続いて息子がルーを抱いて金さんが昼寝をしている部屋にきました。
ルーは声も出さず悲しそうな目で私を見つめるだけです。
妻と息子の話では、家から百メートルも離れていない道路の向こう側の畑でうずくまっているのを助手席にいた息子が白鷺(しらさぎ)を目で追っていて見つけたそうです。
「あそこは確かさがした所だけど?」と妻も息子も口を揃えて不思議がっていました。
白鷺が教えてくれたのでしょうか?
早速、妻と息子が加須市にある動物病院に連れていきました。

戻ってきた妻の話では、やはり両前足骨折だそうです。
検査をするのでしばらく預からせてくれといわれて置いてきたそうです。
翌日の成人の日は大雪でしたが、息子も自動車で会場に向かいました。
妻が動物病院と電話で話をしルーの「入院して手術」が決まりました。

両前足を骨折して歩けなくなり吠えることも出来なくなったルーは、片足ずつ2回に分け動物病院に入院して手術しました。手術の結果左足骨折はうまく付きましたが、右足の骨折は重症でとうとう付きませんでした。それ以来ルーは三本足で歩かなければならなくなっていたのです。

※ 車椅子の視線から「随想」(2001年 1月 〜 6月)
   http://homepage3.nifty.com/kinsan/essay/2001.1-2001.6.htm
   より


ルーは高齢になって以前のように三本足で散歩もできなくなりました。食事もドッグフ−ドは食べなくなったので、和さんがご飯に犬用の煮干しと野菜を刻んだものをスープにしてかけて与えています。ルーはこの食事大喜びで食べています。

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○ 幼児のマナーは親が教えよう   2007年 10月28日 日曜日

先日久しぶりに週末に町の図書館を利用してみた。平日よりもだいぶ混んでいる。驚いたのは、幼児が声を上げながらパタパタと一般図書室の中を走り回っていて、一緒に来た若いお母さんが何も注意しないことである。図書館は公共の施設であり他の利用者に迷惑になる行為は厳に慎むべき場所である。幼児はそれがわからないで騒ぐのだから、そういう時に親が注意して直させるいわゆる「しつけ」を実践する最適の場所がこの町では図書館と言えるだろう。
町の図書館には、絵本、ちしきの本、読み物、幼児向けのコーナー、おはなし室などのある児童室もあるという。
せっかくの場所があるのだから、図書館利用のマナーを親が幼児の時に教えておけば、幼稚園、小学校、中学校と成長して行く過程で、本人が公共の場での行為に役立つと思うがどうだろうか。

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○ 木造平屋のバリアフリーの図書館  2007年 10月21日 日曜日

わたしの住んでいる埼玉県大利根町の、図書館「ノイエ」は大きな瓦屋根の和風の建築物である。
鉄筋コンクリートづくりの図書館が多い中で、埼玉県産の木材で組み上げられた木造の大きな建物は、田園の多いこの町にピッタリだと思う。
この図書館は2004年に開館したものである。
それまで町に図書館がなかったので、長い間の「図書館を持ちたい!」という住民の願いがようやく実現したものだ。
図書館の開館が他の町よりだいぶ遅くなったが、遅れたことによる利点もあげらる。
その一番として、田園の多いこの町に木造平屋のバリアフリーの図書館が開館したことが上げられると思う。

※ 大利根町童謡のふる里図書館「ノイエ」ホームページ
※ お出かけ情報:大利根町の図書館「ノイエ」

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○ 旅行とホームページの更新 2007年 9月21日 金曜日

8月21日から24日まで金さん&和さんで故郷信州に旅行してきた。山に囲まれている信州はさすがにこの頃になると猛暑日はない。出発前に関東では雨の日が多かったので少し心配したが天気も旅行中悪くなかった。
今回の旅行で嬉しかったのがダンさん&カミさんにお会いできたことである。金さんが車椅子の生活になってからホームページを立ち上げて、全国のたくさんの人とインターネットで交流するようになり友人がたくさん出来た。ダンさん&カミさんもその友人である。普段インターネットで交流していると、初めてお会いするにもかかわらず十年来の友人のように思えるから不思議だ。和さんも、「しゃべりすぎたかな?」と反省していたくらいである。
旅行から戻って一週間ぐらいぼんやり過ごして、旅の疲れを取ってからホームページの更新作業を始めた。これがなかなか大変だ。いつもそうだが、最低でも旅行の三倍は日数がかかる。今度も旅行が四日間なのにホームページの更新が約二週間かかった。しかし、好きでやる作業だから肩こりが多少残るけれどあまり疲れない。
これからも、金さん&和さんでいろんな所へ旅行して、友人にもお会いできたら嬉しいと思う。

そうそう、忘れる所だった。和さん、長距離ドライブの運転ご苦労さまでした。


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○ 猛暑と旅行計画 2007年 8月18日 土曜日

今年の夏は実に暑かった。立秋を過ぎてから各地で夏日を越える猛暑日が増えている。
8月16日午後には、とうとう、岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で国内の観測史上で最高気温となる 40・9度を観測した。これは、実に74年ぶりの記録更新だという。
金さんは13年前に二回目の脳出血の後遺症で車椅子の生活になってから、障害者になってもできるだけ前向きに楽しくかつアクティブに生きようと、毎年少しずつ金さん&和さんでの旅行を増やしてきた。しかし、夏の間は体調管理が難しいので旅行するのは避けている。今年は記録的な猛暑だったので、夏に旅行の計画を立てなかったのは正解だったと思う。
いろいろなところへ夫婦で旅行に出かけるのは楽しいが、和さんは車椅子を押しながらの旅行になるので負担が大きい。これからは、介護する和さんのことも考えて、事前に夫婦でよく話し合いながら、楽しい旅行計画を立てていきたいと思う。

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中越沖地震の報道に思う  2007年 7月24日 火曜日

新潟県中越沖地震の被災地の方々には心よりお見舞いを申し上げます。
この地震で被害に遭われ亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

一週間経っても家が全壊又は半壊したために家に戻れずに避難所で不自由な生活を余儀なくされている方々も多いというニュースも見ています。避難所でテレビのインタビューに「このさきどうすれば良いか考えると夜も眠れない」と答えているいる高齢者がいましたが、自分の年齢を考えると将来に希望が持てない被災地の高齢者の方たちの心情がわかるような気がいたします。

悲しいニュースの多い被災地の様子ですが、嬉しいニュースも報じられています。
その一つが、ボランティアとして地元の方と一緒に復興に当たっている他所から駆けつけている人が大勢いるというニュースです。
ボランティアは、個人だけでなく都道府県や市町村からの応援も報じられています。
「前の災害の時に助けていただいたのだからお互い様です」と 明るく答える人や、
「一人暮らしなので助かります」と涙ぐむ高齢者もいました。
社会生活は一人では成り立ちません。いざというときに助け合うのが社会です。被災地の様子をテレビで見ながら、日本の地域社会も満更でもないと思いました。

医療の応援では、いつも日赤のチームが駆けつけて活躍していますが今回の地震でも同じでした。
これは、日赤が日頃から災害に応じられる組織体制で動いている証明になると思います。
また、忘れてはならないのが、自衛隊の活躍です。今回も知事の災害派遣の要請を受けて、被災地の後片付けなどに活躍する姿がテレビで放映されていました。

悲しいのは、今度の中越沖地震で亡くなられた方々が、すべて高齢者だったというニュースでした。
地震や台風などによる災害の時に、高齢者や障害者などは自力での避難がとても難しいです。そのため自治体によっては、災害に備えて高齢者や障害者などの情報を地図におとしているところもあるようです。勿論それがいざというときに役立つのは日頃の訓練によるでしょう。自治体や地域のコミュニテイは、高齢者や障害者などを含めた訓練もやる必要があるように思います。一方、住民の情報公開に慎重のあまり、災害に備えての高齢者や障害者などの情報を出し渋る自治体もあるようです。その消極的になる理由が、情報公開法や条例の解釈にあると言うのは笑わせます。
そもそも、情報公開法や自治体の情報公開条例が、一体何のために制定されているのか、本旨を理解できない職員がまだいるのは残念という他はありません。

今回の報道で良くわからなかったのが、被災地の水道の復旧工事のニュースでした。
被災地の柏崎市や刈羽村では住民の飲み水である水道が止まって一週間になり、全面復旧が予定されていた25日も大幅に遅れ7月末にずれ込むという住民にとって嬉しくないニュースが報じられていました。
それなのに、同じ中越沖地震で被災した自動車部品メーカーでは、大量の水道水が使えなくなって操業停止していたのが、柏崎市の水道の復旧工事により水道が使えるようになったという、こちらでは嬉しいニュースが流れました。このため自動車部品メーカーでは、23日に一週間ぶりに操業を再開し、大手自動車メーカー各社への部品供給を再開したというニュースも流れました。悲喜(ひき)交交(こもごも)と言えるような二つのニュースを柏崎市民はいったいどんな思いで受け止めたのでしょうか?

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○ 自由人になって 2007年 7月 19日 木曜日

 早いもので、二回目の脳出血で倒れ幾日も生死の境を彷徨いながら、幸運にも生還し車椅子の生活をするようになってから13年が経過した。倒れたときに52歳とまだ若かったので、車椅子で復職できたときは本当に嬉しかった。しかし、後遺症の四肢麻痺で車椅子の生活になったのに加えて言語障害も残っていたので、僕にやれる仕事は大きく制限されたのは仕方がない。
 働きながら、心の中で「この身体で自分はどれだけ役にたっているだろうか?」と逡巡しながら、表面では何事もないような顔をして勤務していたが、内心では「好意に甘えていつまでも迷惑をかける訳にはいかない」と思った。
 6年前の58歳の時に、自由人になろうと決意して三十数年勤めた東京都を勇退し、それ以来田園に囲まれた北埼玉の家でのんびりと自由人の生活を楽しんでいる。相変わらず車椅子の生活をしているので、いろいろ不自由なことも多い。それでも比較的ストレスの少ない生活をおくれるのは、妻と子供たちに恵まれたからと感謝している。
 3年前に建てたバリアフリーの家は暮らしやすいし、金さん&和さんをいつも前向きにさせてくれる。これからもアクティブシニアとして、自分のできることで社会に貢献できれば嬉しいと思う。

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○ わが家のトイレは開け放し 2007年 7月 8日 日曜日

わが家のトイレのドアは普段開け放しである。トイレを使うときも使わないときも開け放しのままだ。
といっても、トイレにドアが無いわけではない。トイレに通じる寝室からと洗面所からの二カ所に、引き戸のドアが付いている。
ドアを開け放してあるのは、車椅子の生活をしている僕の使いかってが良いからである。車椅子の生活には、段差のない平らな床とドアの少ない方が便利だから、トイレだけでなく、僕が出入りする屋内のドアは殆ど開け放してあるので、ワンルームのようだ。
僕も妻も共に、普段トイレを開け放して使っているので、嫁いだ娘が久しぶりに里帰りしたときなど奇異に感ずるらしい。それも無理がない。バリアフリーの家は建ててまだ4年目だから娘たちが家にいた頃、別棟の古い家に住んでいたので、トイレを開け放しで使う習慣がなかったからだ。
僕の訪問リハビリのため、毎週交代でやってくる理学療法士(PT)と作業療法士(ST)、看護師さんたちもこのトイレの開け放しには驚いたようだ。しかし、今は慣れているのか何も言わない。

この便利な生活も、わが国の住宅のトイレが水洗になったことと、わが家がスーパーウォール工法(外からの空気を常に取り入れて室内の汚れた空気を排出する循環システム)にしているので、空気のよどみがなく臭いも屋内に残らないからできることだと思う。そのおかげで、トイレが間に合わないという失敗もないのは嬉しいことである。



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