脳卒中の発症と後遺症
・・・私の場合・・・
脳卒中は、脳梗塞、脳出血、くも膜下出血といった、脳内で急激に発症する病気(脳血管障害)の総称ですが、ここでは、わたしにこれまでに実際に起こった4回の症例を簡単に紹介します。 

 目 次
 1 高血圧性脳症のとき 
 2 一回目の脳出血のと
 3 二回目の脳出血のとき
 4 脳梗塞(ラクナ梗塞)のとき



私の場合はこうでした!!



1 高血圧性脳症の時

@発症 
1973年(31歳)のとき勤め先で発症:出勤して間もなく、突然左手の腕時計のあたりに「ピリピリー」と、きた。驚いて腕時計をはずして右手でさすってみたが治らない。おかしい!と思い自分で診療所に行こうと立ち上がろうとしたが、足にも力が入らず立ち上がれなかった。同僚に異変を告げると、同じ職場に勤務していた医師を呼んでくれた。その医師はちょっと診察して「直ぐに病院に行った方がいい」といい、救急車を呼ぶように指示してくれ救急車で都立広尾病院に入院した。
 左手足は痺れていたが、意識はしっかりしているし、頭痛も全然しなかった。
 当時まだ都立病院にはCT(コンピューター断層撮影装置)がなかった時代?なので、どんな検査をして診断したのだろうか? 脳外科の医師は病名を「高血圧性脳症」だと告げた。

A後遺症 約二週間入院し、さしたる後遺症も残らず退院した。しかし、冬の寒さにはからきし弱くなった。



2 一回目の脳出血の時

@発症 

 
1985年(43歳)のとき勤め先(東京都監察医務院)で発症:昼休みに厚生室で囲碁の対局中に突然脳に異変が起きる。盤の前にあぐらをかいて対局していたが起きていられなくなる。今まで経験したことのない気持ちの悪い体験だった。急激な貧血に襲われたような気持ちで、強いて例えれば、何十階もある高層ビルのエレベーターを超特急で急降下したような感じに一番近いかもしれない。何が起きたのか自分でもわからないのは不安だったが、起きていられないので、対局相手に「ちょっと気持ちが悪いので横になるよ」と、声をかけてその場で横になった。相手も別に不審がらずに隣の対局を見ている。しばらく横になっていたが改善する気配がない。それどころかだんだん気持ち悪くなってきた。ついに我慢できなくなって、「誰か救急車を呼んでくれないか?」近くの人に頼んだ。厚生室の対局は、それまでと変わらないように続いている。私は事務室の机の引き出しに入れていたメモ帳を持ってきてもらった。そんなやりとりをしていても、厚生室では囲碁の対局に夢中で誰も気が付かない。そのうちに、遠くから救急車のサイレンの音が近づいてきた。それを聴いて何故かホッとしたのを覚えている。
 救急隊員に、職場にいた監察医が「脳出血かもしれない!」と話していた。
 私は脳出血が死亡率の高い病気であることを知っていたので「死ぬかもしれないな?」と益々不安になった。そのため、救急車の中では「まな板の上の鯉」のようにじっとしていた。病院に運ばれる間少しでも脳内の出血が少なくなると思ったのである。運ばれた病院は東京都養育院附属病院(現:東京都老人医療センター)で、救急車だと十五分もかからない距離なのに一時間も乗っていたような気がした。病院に着くと、直ぐに脳外科の医師が診察して、次にCT(コンピューター断層撮影装置)で脳の撮影が行われた。結果は、やはり「脳出血」だった。
 脳外科の医師から「脳の右側から出血して左半身(左手左足)にマヒがきています。このままだと後遺症で歩けなくなる場合も考えられるし、左手のマヒが残ることも考えられるので、入院して治療とリハビリテーションが必要です」どのくらい入院が必要かは、今の段階ではまだわからない」と説明がある。

A後遺症

 左半身(左手、左足)にマヒが残る。言語障害は残らなかった。

 当時私は、後遺症も病院で「頑張ってリハビリをやればで元通りの身体になるだろう!」という甘い期待を持っていた。後遺症が残って歩けなくなることや、片方の手が元のように使えなくなることはそのとき全く考えていなかった。時間はかかっても、リハビリで元通りになると単純に思っていた。


 
3 二回目の脳出血の時

@発症

 
1994年(52歳)のとき自宅で発症:勤めていた東京都の4月の人事異動で、部長職の参事に昇任し他局に異動したのが始まり。異動直後の管理職の局内研修の最終日の夜に打ち上げがあり、軽く飲んで帰宅途中に、混雑する新宿駅の階段で転倒し眼鏡で顔を切った。(少し歩幅が狭くなっていたように思う)友人に連れられてタクシーで都立の大久保病院に行き 夜間の救急医師に右目の下の皮がベロンとむけたところを局所麻酔をして十五針縫ってもらう。それから数日後に、夜遅く帰宅(片道60キロの遠距離通勤)後、遅い夕食(ビール1杯付き)と入浴後寝室で発症 
 ※
 (ここからは意識を失ったため妻の後日談)私は布団で大きないびきをかいているが意識はない様子。妻が急いで119番で救急車を呼ぶ。救急車の中で繰り返し何回も吐く。 病院に着くと看護婦さんが診察台で着ていたパジャマをハサミで切り裂いてなにやら処置した。CT検査の結果、やはり脳出血であることがわかる。深夜だったので運ばれた病院には脳外科の先生がいない。「今夜の当直は脳外科の医師ではないので、詳しくは明日脳外科の医師が来てから説明します」ということで、そのまま即入院となる。それから三日後に私のかかりつけの東京都立大久保病院(東京都保健医療公社大久保病院)に転院となる。(※意識が無い状態で60キロも離れた東京の病院までよく転院できたものだ)


A後遺症

 
四肢麻痺(左手、右手、左足、右足 のマヒ)左のマヒがより重篤だった。

 言語障害(構音障害など)



4 脳梗塞(ラクナ梗塞)の時

@発症

 
2012年(70歳)のとき自宅で発症
 11月下旬に数日前から次のようなことが少しずつ進む
 ・ 食事のとき右手でも茶碗が重く感じる
 ・ 自主リハビリで歩行器での歩行が厳しくなる。
 ・ 入浴時に手すりにつかまっての歩幅が狭くなる。
 ・ ろれつが少しだけ回らなくなる。

が急激ではないので、私も妻も脳梗塞の発症とは思わなかった。妻が私が介護保険で世話になっているリハビリ看護センターに電話で相談すると病院の脳外科の受診をすすめられる。翌日の月曜日は寒く雨が降っていたので「病院に行くのを明日にしよう」と妻と相談し、火曜日に金さんのかかりつけの済生会栗橋病院の脳外科を受診した。CT検査で脳梗塞見つかるがMRIの検査を勧められ、水曜日MRI検査を受ける。脳外科で医師からMRI検査結果の詳しい説明を受け、脳梗塞(ラクナ梗塞)のため即日入院となる。
 

A後遺症

 左片麻痺(左手、左足) 右手、右足 のマヒはやや軽かった。

 言語障害(構音障害) 流涎(よだれ)が増える。