車椅子の視線から「随想」
( 〜1997年12月)
◇ 次女が一人旅を終えてロスから帰る 1997年12月29日
1997年7月〜12月
走り続けて息も絶え絶えの感じのような日本経済の来年はどうなるだろう。理念が見えないで権力の亡者のようにばかり見える政治家にこの国の行く末をどう期待したらいいのだろう。少子高齢化が進んで家族のぬくもりがだんだん消えて行く日本の将来は一体どうなるのだろう。誰もが「そんなことは、俺の知ったことか」と言って自分のことだけを考えて生きていく人が増えていく社会の明日は楽しい社会になるだろうか?
「そんなに悲観的になるなよ」「そうだ来年に期待しよう」「希望を持てばなんとかなるさ」
今日で1997年ともお別れだ。
[目次に戻る]
◇ 次女が一人旅を終えてロスから帰る 1997年12月29日 水曜日 晴
次女が2週間ほどの一人旅を終えてロスから帰ってきた。ホームステイをしていた所だから友人知人も多そうだとそれほど心配はしていなかったが、やはり顔を見るとほっとする。いろいろ話しも聞きたかったが取りあえず一つだけ聞いた。「アメリカのサンフランシスコなどの西海岸は障害者に配慮した街のよだけど、車椅子の人など見かけたかい?」「うんバスなんかでも見かけたよ」「一人でバスに乗っているのかい?」「いや付き添いの人がいっしょだったよ」「乗り降りが大変だろう?」「運転手さんが手伝っていたよ」
日本では、車椅子の乗車を嫌うバスの運転手がまだ多いと聞いている。だから利用はいつもタクシーになってしまう。タクシーの運転手さんにも当たり外れがあるけれども親切な人が多い。バスの利用が少ないのは乗客にも気を使うからだ。「この忙しいときに車椅子で出歩くなんて」そんな視線をつい感じてしまうのだ。
「ノーマライゼーション」がアメリカには根づいているようだ。
[目次に戻る]
◇ モスクワで100年ぶりの寒波 1997年12月16日 火曜日 晴
師走も15日を過ぎて東京もだいぶ寒くなってきた。だが、今朝のNHKニュースを聞いてびっくりしてしまった。モスクワでは100年ぶりの寒波だという。何しろ最高気温が零下25度にしかならず、最低気温に至っては零下38度という気の遠くなるような寒さで、死者がでているという。
この100年ぶりの寒波も「エルニーニョ」現象の影響のようだ。
経済発展のために、人間がさんざん地球環境に冷たい仕打ちをしてきたが、今その報復をうけているのだろうか? それにしても、そういう報復はいつも弱いものが真っ先に受けるのは実に口惜しい。
[目次に戻る]
「障害者の日」が今年もやってきた。だが、朝のNHKニュースを見ていたがそれに関する情報は全く放送されなかった。代わりに皇太子妃の誕生日のニュースが放送されていた。さびしい気がした。ただ「雅子」さんが会見の中で「不幸な境遇にある人にも思いをいたしたいと思います」と言っていたのが、「障害者の日」と誕生日が同じであることから、障害者にも触れているのだなと感じられて救いがあった。出勤してから職場で「今日は何の日か知ってる?」と質問してみたが、誰も知らなかった。家に帰ってから娘にも聞いたが知らなかった。
こういう状況から考えると、「ノーマライゼーション」が広く人々の心に普及するのは日本では遙か遠いことのように思われた。
[目次に戻る]
1997年 7月〜 1997年12月 9日
◇ 今日本は、「少子高齢社会」といわれている。高齢化が進むと、障害を持つ人も確実に増えてくる。
障害者も、高齢者も、健常者と同じように行動したいのだ。「外に出たい」「外で働きたい」と思っている人がいっぱいいるのだ。それを健常者も忘れないでほしい。外にでたいという気持ちは、同じ人間として当然のことだと思う。そういうささやかな願いを少しでも実現するためには、「バリアフリーの環境」の実現が欠かせない。
私は幸い多くの人の応援で職場に復帰することができたが、それでも職場までは毎日娘に車椅子で送ってもらっている。今住んでいるマンションも、エレベーターの広さやボタンの位置の問題、入り口の段差の問題、玄関の開閉、トイレや風呂の段差の問題などがあり、娘の介護がなければ一人ではとうてい暮らしていけない。通勤に使っている歩道も1年前から工事中ででこぼこだらけで、狭い。街にもビルにもあまりにも「バリア」が多すぎる。
高齢者も若者も、障害者もそうでないものも、すべて人間として普通の生活を送るため、ともに暮らしともに生きてゆける社会こそがノーマルな社会と言えるとすれば、日本は、それにはほど遠いのが現状だ。そうした社会の実現には、人々の心がそれを当然のことと受け止めるようになることが必要だろう。
そのためには、どうすればいいか?
子供のうちから高齢者や障害者と共に暮らす習慣をつけていくのが一番良いと思う。幸い少子化で子供が少なくなり空いている学校の教室がいっぱいある。それをまず活用しよう。今までのように、学校の利用は教育関係者だけが考える時代はもう終わった。社会資源を有効に活用するために、遊んでいる施設を有効に活用することから始めよう。
それだったら、お金をそれほどかけなくてもできる。要は、それを決断出来るか否かにかかっているだろう。
◇ 先日「在宅福祉・保健医療サービス指導者研修」でパネルディスカッションがあった。そのパネラーの一人に車椅子を利用する人がいた。「連携による障害者の自立生活支援の取り組みと課題」がパネルディスカッションのテーマだったので、適切な人選であり話の内容も大変勉強になった。
ただ、このときに感じたことがある。会場は「東京都社会福祉・保健医療研修センター」であるが、ここの講堂の舞台に車椅子で自分で上がるためのスロープがついていないのだ。
そのため、健常者の事務職員が数人でパネラーを車椅子に乗ったままを舞台に持ち上げていた。それ自体は、現状では最善の方法と思われるのだが、一つ提案しておきたい。
これからの施設は(特に公共施設は)、あらかじめ、障害のある人も自由に利用できるようなスロープとか、エレベーターの設置をしてほしい。そして、計画の段階から、実際に利用する障害者の意見を聞くようなシステムに改めてほしい。
「こうすればいいだろう」という健常者の思いこみが、必ずしも障害者にとって利用しやすくないことが多いのである。
◇ 車椅子に乗っていると「目線」が健常者より低くなる。するとものをみる視野が随分と違い健常者に見えにくいものも見えてくる。逆に「目線」が低くて見えにくいものを見るためには、苦労してでも「目線」を上げる努力をしなければならなくなる。
◇ 毎日、娘に車椅子を押してもらって工事中の狭い歩道を通勤している。通学の中学生や高校生が歩道いっぱいに広がってやってくる。「すみません、すみません」と娘が中学生や高校生に声をかける。すると道をあけてくれる。
東京の道路はまだ障害者にとって動きやすくできていない。歩道を広げる工事があちこちで少しずつ進んでいるがまだまだ狭い歩道が多い。そしてそれ以上に、歩道を歩く健常者が身体障害者に優しくはない。中にはまるで「じゃまだから障害者は出歩くな」とでも言っているような感じを受ける人達もいる。そんなことを感じながら、毎日車椅子を押してもらい通勤している。
◇ マンションからの出勤に車椅子を使っている。娘に押してもらって10分弱の距離である。その歩道を広くする工事が、始まってもう1年を過ぎて2度目の冬が来るというのに、なかなか終わらない。予算の執行に問題があるのかよく工事が中断している。
工事用の機材や車両が置いてあって、歩道を狭くしているし、歩道を掘り起こした後を鉄板で上を覆っているところが段差になっていて、歩道を急ぐ自転車が歩行者を追い抜こうとして転倒したりする。早く工事が終わって欲しい。
◇ 車椅子に乗っていて一番迷惑に思うのは、くわえたばこの煙である。歩行者がたばこの煙(紫煙)をまき散らしながら前を行くと紫煙の臭いで頭がクラクラしてくる。自分が歩けたときは、前をいく人が紫煙をまき散らすときは、自分の歩行速度を変えたり、歩く道順を変えたりしていたが、車椅子になってからはそれもできない。
「たばこを吸うのは個人の自由」かもしれないが、個人の自由は、他人に迷惑をかけないときに尊重されるのであろう。くわえたばこをする人も、あなたの側で迷惑を受けている人が大勢我慢していることを知って欲しい。
◇ 昼休みに身体障害者用トイレで歯磨きをしていて、躓いて緊急用の「呼び出し」ベルについている紐の先のボールに触れてしまった。紐はグルグル回って遠心力で引っ張った状態と同じにになった。事務室のベルが鳴ったのだろう。女性が駆けつけてきて「大丈夫ですか!」と声をかけてドアをドンドンたたいている。私は「大丈夫です。躓いて非常ベルに触れてしまったんです。」と返事をした。女性職員は安心して帰っていった。それからしばらくして今度は男性がかけつけて「どうしました?」と大きな声で呼びかけてきた。私が返事をする前に、事務室から先ほどの女性職員が走ってきて事情を説明している。男性は「防災センター」の職員らしい。私はトイレから出て「どうも申し訳ありません」と謝った。
身体障害者トイレに非常用のベルが付いているのは知っていたが、ベルがどこに通じているか確かめてなかった。事務室と防災センターに通じていることがやっとわかった。
みんなには人騒がせな申し訳ない失敗だったが、思わぬ効用があった。
◇ 今日は秋分の日休日である。朝から雨が降っている。妻と二人で、NHKテレビの映画「花いちもんめ」を見た。
考古学の専門家で大学教授をやり、その後は地元にある考古学の記念館で説明員のようなことをやってきた父親が、「後進に道を譲るために退職を」と言われてから「呆け」の症状がでてきた。
同居している心臓の弱い妻が病院に入院したので、しばらくの間は、嫁いで水商売をやっている娘のところで世話になるが、そこもなが続きせずに、遠く離れた神戸で暮らす長男一家とマンションでの生活が始まる。
だが、ここでも、父親の呆けは更に進んで、下の世話や放浪癖などで、世話をする長男の嫁さんや子供達がほとほと疲れはてる。
それを知って入院していた妻が「もう一度家でお父さんと一緒に暮らそう」と、無理をして退院し、父親を連れに神戸にやって来るが、息子のマンションで心臓発作を起こして死んでしまう。
ついに息子は父親を施設に入所させる。しかし、面会の日長男が会いに行くと、父親がベッドに紐でくくりつけられていた。
「こうするより仕方がないんです」と施設の職員はいう。しかし長男は悲しくなり直ぐに父親を退所させ車を走らせて山陰にある実家に連れていく。神戸から長男の妻と子供達がかけつけてくる。
たった一夜であるが、家族で過ごす幸せな暖かさがそこにあった。ちょうど祭りの夜である。
そこで映画は終わるが、むしろその後どうなるのか気がかりだ。長男の生活の基盤は神戸にある。子供の学校も当然神戸だ。父親の呆けは治っていない。とすれば、山陰の実家でみんな一緒に暮らすわけにはいかない。父親を預ける施設もない。ではどうすればいいのか?
解決策が浮かんでこないのである。
見終わると「あまり長生きしたくないね お父さん!」と妻が言った。
私は脳出血による後遺症で、車椅子の生活をしている。平日は勤め先に近い東京のマンションで娘と暮らしているが、毎週週末は妻が車で迎えに来て家に帰る。私は二日家でのんびり過ごし、娘はその間だけ、自由になる。子供にも妻にも迷惑のかけどうしである。
夕べも風呂に入るのを手伝ってもらったとき、冗談に妻が「いつまで続くぬかるみぞ」と笑って言った。
「まだおとうさんは頭がしっかりしているからいいけどね!」と妻が付け加えた。
病気で身体の自由がきかない身体障害者になることは悲しい。簡単なことでも自分のことが自分で出来ないことが多いからだ。本当は自分でやりたいのだが、それが出来ないことがいっぱいある。自分で出来ないから我慢してしまうこともある。
それでも、最近では随分自分で出来るようになった。入浴も、家では、浴室に手すりをつけるなど改造してから、風呂場までいけばどうにか一人でも入れるようになった。夜中にトイレに行くのも車椅子を使えば一人で行ける。
しかし、人間が呆けてしまうのはもっともっと悲しいことだろうと思う。ひとに大きな迷惑をかけていても、それが自分ではわからないのだ。本人よりも、世話をする周りの人達の方がどんどん疲れていく。
一体、人間とは、そうなっても生きなければならないのだろうか?
そうだとすれば、そんなときに家族が安心して任せられる施設(設備とマンパワーの数だけでなく質)の整備が、人間の尊厳にまで掘り下げられた議論と合意のうえで進めねばならないだろう。高齢者や障害者が安心して暮らせる施設、家族が安心して預けられる施設、そういう施設は日本には少ないようだ。代わりに問題の多い施設がマスコミを賑わしている。
「介護保険法」の議論が進んでいるが、法律ができて「保険あって介護なし」にならないようにするためにはどおすればいいのだろう。
◇ 会話に口を出したくてうずうずすることがある。それをじっとこらえて黙っている。そういうことが、何度も何度も繰り返されているうちに、口を出して仲間に入りたい気持ちがだんだん薄れて来るから不思議だ。
◇ 私は車椅子に乗っている身体障害者だ。それに言語障害もある。障害をもっていると、どうして人は「差別」するのだろう。障害があると何か劣っているような、何か欠けているような、そんな相手に見えてしまうらしい。いや、差別しているなどとは感じてもいないで差別している人が殆んどである。
「差別」の問題では、その行動が相手に「差別されている」という感じを与えているのに、肝心の行動する人がそのことに気が付いていない「差別」がなんと多いことか。
学校での「いじめ」も、やっている生徒は「いじめている」と思っていないのに、その行為を「いじめられている」と感じている生徒が多いと聞く。
◇ 「我慢、我慢」の連続だったから、障害者は我慢する事にはなれている。しかし、それが 障害者に対する世の中の理解を変える上で良いことかどうかはわからない。我慢しないで、声を上げていくことのほうが大事だとこの頃は感じている。
◇ 身体障害者になってから、夫婦の会話が健常の時代よりぐっと増えた。親子の会話もそうだ。そういう点は良かったと思う。
◇ 身体障害者になってから、「もの」がよく見えてきた。今まで見えていなかった、人間の本質まで見えてくるような気がする。「感性」が変わってきたのだろうか?
[目次に戻る]
◇ いつも何かにチャレンジしていると老け込む暇がない。
◇ 人と人との出会いはいろいろである。「一期一会」の人もある。再び会う人も多い。
私は出会いはいつも大切にしたいと思っている。だから、そのときそのときに精一杯の気持ちを込めて、出会いをするようにしている。
◇ 病気をして二度死の淵を覗いて帰ってきた。だから今は三度目の人生を生きているともいえる。二度までの人生とはひと味違う三度目の人生を生きようと思う。
◇ 「あなたの病気には頑張るのが一番良くないですよ。決して頑張らないでください。」という嬉しい年賀状を婦長さんからもらった。
◇ 人の一生は、瞬間瞬間の積み重ねだ。だからそのときそのときを大事に生きて行くより仕方がない。
◇ 優れた人材はいくらでもいる。ただそうした人材が、現在自分の能力を十分に発揮できているかどうかはわからない。埋もれている人材を見つけだし彼らがその能力を十分発揮できるような環境づくりをしてやること、それがリーダーの役割であろう。
[目次に戻る]
◇ 「何階まで行きますか?」「六階お願いします」「私三階まで行きますが六階までご一緒しなくて大丈夫ですか?」「ありがとうございます大丈夫です」
一階で娘に分かれて、一人でエレベータに乗ると研修生らしい女性に声をかけられた。
車椅子でエレベーターに一人で乗るには手の届くところにボタンがあるものに限られる。だから乗るエレベータを決めている。それでも親切な研修生に時々声をかけられる。ここは「社会福祉・保健医療研修センター」だから福祉を学ぶ研修生も多い。研修で学ぶことも大事だが、それを日常生活で実践することはもっと大事だ。どんなところでも、いつでも自然に実践できるように一人でも多く育ってほしいと思う。
◇ 今日は障害者の日だ。出勤したら研修センターのエレベーターの中で「ご不自由ですね」と福祉の研修生が声をかけてくれた。
[目次に戻る]