車椅子の視線から「随想」
(1999年1月〜6月)
13日(日)14日(月)の一泊二日で信州の鹿教湯温泉に行って来ました。
2月程前にこの「車椅子の視線から・・・脳出血から2度生還して・・・」のHPの
「リンクの部屋」「リンクのページ」「まちへでよう / 旅にでよう」のページで
「かんぽの宿・鹿教湯」を妻が見つけて予約してあったものです。
梅雨だというのに良く晴れて夏のようです。
急ぐ旅でもないので9時半過ぎに妻の運転でのんびりと出発しました。
今、うちの車はホンダのオデェッセイです。遠くへドライブするには座席が高いので視界が楽ですね。
花園インターから関越自動車道に入り、藤岡で長野自動車道に分岐します。
昔、碓氷峠を車で超えるのはカーブとトンネルが多くて大変でしたが、新しい高速道路は実に快適です。
妙義山の奇景を見ながらなだらかな登り道で、トンネルも6つと少なくなりました。
ただ、トンネルが一部でまだ対面交通になっているのは不安ですね。
行きにこの対面交通のトンネルで故障車がいて渋滞がはじまるところに出くわしました。
幸い対向車が無かったので前の車にならって対向車線へ少し出て追い抜きましたが、
交通量が多いと大変だと思いました。
東部湯ノ丸ICで長野自動車道を降りて鹿教湯温泉に向かいました。
千曲川を渡り松本へ抜ける街道ですが、車が比較的少なくのんびりとした道です。
予定より早く二時頃「かんぽの宿・鹿教湯」に到着しました。
手続きを済ませて三時までロビーで待つことにし、テーブルを見ると“つりがねそう”でしょうか?
この辺に咲いているのかも知れません。花瓶に静かに咲いています。
(翌朝、花が“すぐり”にかわっていました。)
部屋は三階でエレベーターで行きます。洋室で洗面所(トイレ)と浴室が車椅子のまま入れる
ようになっています。
妻は二階の大浴場にいきましたが、部屋のフロも入りやすくてなかなか
良かったです。
夕食は二階の食堂です。みな美味しかったですが、鮎(あゆ)、蕗(ふき)、牛肉のミニステーキ、刺身
が地酒の生酒に良くあいました。私は一杯しか貰えなかったのが残念でしたね。
翌日宿を9時半頃でて、鹿教湯温泉病院に寄ってみました。
工事中で駐車場が遠いので大変でした。病院は古い病棟に増築した名残でしょうか?
段差に車椅子でも渡れるようなスロープが付いています。
(工事中の鹿教湯温泉病院前で)
リハビリテーションをやる利用者でどの訓練室をのぞいてみてもいっぱいでした。
PT(理学療法士)、OT(作業療法士)の訓練待ちをする人も多く、小さな温泉郷の人口の大半が病院に
集まっているような錯覚を覚えました。
帰路、横川のSAに寄りました。
障害者用の自動車が一台駐車できる駐車場がありましたが、先客が既に駐車していました。
この障害者用の駐車場は一台ではやや広く、二台では狭すぎる中途半端なスペースです。
車椅子の場合ここのスロープを使わなければトイレにも、食堂にもいけないので、ぜひ二台以上の
スペースを取るように改修してほしいです。
今度の旅行でもSAの食堂などで車椅子連れの人を何回も見かけました
高速道路ができて障害者の移動が随分便利になりました。SAに障害者用のトイレが必ずあるのが
その理由の一つです。障害者も健常者と同じように旅行したいのです。
施設整備の際、障害者のためのちょっとした工夫を是非お願いしたいと思います。
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◇ “窓から新宿の高層ビルが見える” 1999年 6月 8日 火曜日
スカッと晴れています。風はさわやかで湿気も少なく気持ちの良い日です。
春日通りのこのビルから、晴れた日には新宿の高層ビルがよく見えます。
冬の季節は高層ビルの横に富士山が見えるのですが残念ながら今日は富士山は見えません。
富士山は冬の季節以外では見える日が少ないです。
公害が減ってきているとはいえ自然は正直ですね。
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夕べNHKドラマ館・名作シリーズ「男たちの旅路・車輪の一歩」を見た。
山田太一脚本の20年前の作品である。今は亡き鶴田浩二や、斉藤とも子、お母さんには
赤木春恵がでていた。
車椅子の女性(斉藤とも子)がお母さん(赤木春恵)とアパートに住んでいている。
お母さんは生活費を稼ぐために昼間は勤めにでているので、車椅子の女性は
昼間は一人でアパートの部屋に閉じこもっている。
たまにはお母さんに近くの公園へ連れていってもらうが
それも年に数回にすぎない。
何故かといえば石段を上らなければアパートの部屋にいけないからだ。
その女性が文通で同じ車椅子生活の男性と知り合いになる。
男性には車椅子の男性の友人が数人いるが、彼らも職場をくびになったりアパートを追い出さ
れたりして行くところがなく、アパート探しをするが、どこの不動産やへ行っても車椅子と
聞いただけで断られる。
途方に暮れて人通りのたくさんあるビルの前に休んでいる6人を通行の迷惑になるからと
警備員(清水健太郎、岸本加世子)が追い払う。
その警備員の清水と、岸本のアパートに6人が訪ねていき泊めてもらう。(実は二人に取り憑いて
困らせてやろうと思ったと後で言った。)
二人は6人のために一緒にアパート探しをするが車椅子で入れるアパートは見つからない。
女性と文通をしていた6人のうちの一人が車椅子で女性のアパートに行き
表にでることをすすめる。やがて6人も応援して公園にでかけ楽しく遊ぶ。
次は川の方へ行ってみようということになり、途中線路を車椅子の人だけで渡ろうとして
女性が車椅子の車輪を線路の隙間に落として車椅子の男性たちだけでは助けることが
できないでいるところを危うく健常者に助けられる。
アパートへ岸本や上司の鶴田浩二が訪ね女性やお母さんを説得する。
やがて車椅子の女性は駅の階段の下で「誰か私を上まで上げて下さい」と最初は小声で
だんだん大きい声で頼む。
何人かの健常者が協力して上まで上げてくれる。・・・ドラマはそこで終わる。
20年前に自分が健常者のとき見たときと世相も社会も大きく変わっている。
マンションもたくさんできたし、障害者のための施策をかかげる自治体も増えている。
NHKでも3チャンネルで「共に生きる世界」等の番組を放映するようになった。
だが、車椅子の障害者への社会の取り組み(行政も含めて)は、基本のところでは
わずかに進んだだけである。
今も車椅子で住めるマンションを探すのは容易ではないし、車椅子で電車に乗るのも
容易ではない。街の整備もすこしづつ進んでいるが、整備したところも車椅子には
不便なところが相変わらず多い。車椅子生活になって
表にでないで閉じこもっている人が今の東京に何人いるのだろう?
20年でわずか一歩である。まだまだ道は遙かに遠い。
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中学生の頃だから今から40何年か前「ものの見方について」という朝日新聞の論説委員を
やった笠 信太郎さんの文章を国語の教科書で読んだことがある。
確か「国王であったものが国王の座を追われた人だけが国王でないことを悔やむが、そうで
ない人は誰も自分が国王でないことを悔やみはしない」というような内容だった。
その頃は「そんなものかな」と思っただけだった。
その後自分が長年人生経験を積み職場でも管理職になってやりたい夢が一歩前進した途端に
一度目の脳出血、その後「ネバーギブアップ」と再び仕事に挑戦一週遅れで元気に走り出し
たら二度目の脳出血に襲われた。しかし幸いにも命だけは取り留めることが出来た。
苦労して築き上げた地位を一瞬にして失ったばかりでなく後遺症が残って今度は車椅子生活
になってしまったとはいえ、幸いにも復職することもできた。
この時になって、はじめて笠 信太郎さんの文章の意味が「実感」できたように思う。
だが、私は自分が病気になって車椅子生活になったために、目指した働き場所を失うことに
なったことを後悔してはいない。
逆に家庭も顧みずに働きづめの自分に神様が鉄槌を下したと思っている。
幸い家族にも友人にも恵まれた。
病院のベッドに寝ていたときも、車椅子で復職してからも自分が孤独だと思ったことは一度もない。
だから、いま気持ちはすごくさわやかである。
せっかく二度も生還できたのだから、この上は車椅子生活の自分に出来るどんなささやかな
ことでもいいから何か人の役に立つことをやっていこうと思っている。
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ソニーが3000台発売した25万円もするロボットのペットが
インターネットで発売わずか20分で完売したという。
25万円が安くはない人がいっぱいいるということだろう。
ロボットは餌が要らない。手が掛からないペットである。
都会のマンションで一人暮らしの人などにはかっこうのペットかも知れない。
だが何か空恐ろしいものも感じる。
文明の行き着く先が垣間見えたようで寂しくもなる。
ソニーは追加して発売予定は今のところないそうである。
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◇ バリアフリーは先ず人々の心から! 1999年 6月 1日 火曜日
今私が勤務するビルは東京都に僅か4カ所しかないバリアフリーのビルといわれている。
だが3年間そこに勤務している私の感想はちょっとちがう。
確かにビルは構造的にはバリアフリーに出来てはいる。
正面玄関は自動ドアだし、視覚障害者用の点字ブロックも立派なものが正面玄関のところについている。
エレベーターも広くて車椅子が中で十分回転できるし、3台あるうちの1台は車椅子に乗ったままで行き
先ボタンも自分で押せる位置についているので、一人でも安心してエレベーターに乗ることができる。
また各フロアには車椅子で入れる障害者用のトイレも1室ずつ設置されている。
障害者が研修に自動車を利用する場合には地下に7〜8台駐車できるスペースもある。
これだけ完備している施設はまだそう無いのもうなずける。
だが、だがこれも日中だけである。
夕方6時頃になると自動ドアの正面玄関は閉められてしまう。
その後は手で押して開閉するガラスの重い扉を2カ所開けなければビルに出入りできない。
車椅子利用者がいようがいまいが関係なしである。
その上ガラスの扉の前に「出入り口」という立て看板が車椅子には邪魔なところ(健常者には問題ない)に
毎日立っている。(このビルで保健・福祉の研修が毎日行われているのだ!)
だから帰るときや少し早い時間に出勤する時には車椅子で一人では扉を開けることができないので
娘に応援してもらっている。
私が言いたいのは「福祉」とか「看護」とか「介護」とか言葉ではわかっている人も、
自分が障害者にならない限り「バリアとは何か」もわからないのか?ということである。
3年間バリアフリーのビルに勤務した今の例えようのない寂しさはいったい何だろう?
「バリアフリーは先ず人々の心から!」これは障害者のささやかな願いである。
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結婚して30年経った。 埼玉の家と東京のマンションの二重生活をするようになって三年になる。 車椅子生活になり電車通勤ができなくなったのが二重生活の発端だが、妻とは別居生活になった。 いや、別居生活というのは当たらないかもしれない。 毎週末の二日間は家で妻と一緒に過ごしているからだ。
職場と住まいが五十キロ以上離れているので、復職の第一関門が職場の近くに車椅子生活ができる マンションを見つけることだった。次がマンションに誰が同居して私の面倒(介護)を見てくれるかだった。 家とマンションの二重生活はお金もかかる。これが第三関門だった。
しかし、苦しいときには幸運もある。 三年前、短期間でマンションを探すために、土曜日に妻と長女が茗荷谷にきたときには歩道から車椅子で 入れるマンションがどうしても見つからなかったが、翌週発売されたマンションの情報の中に妻が見つけた。 それも勤務場所から三百メートルもないマンションだった。 新しくて綺麗なマンションではなかったが、歩道から階段なしでエレベーターに行ける。 これが今住んでいるマンションである。
マンションには長女が一緒に住んでくれることになった。 東京にアルバイトで通っていたので自分も好都合だと嬉しいことをいった。
こうして娘と二人でマンション生活をはじめた。 だが娘にはつらいマンション生活だったと思う。 仕事が終わっても自分の自由になる時間が少なかったからだ。 車椅子が通るには歩道もマンションのエレベーターにもバリアがいっぱいで送り迎えが欠かせなかった。 それも毎日である。デイトもショッピングもできない。
車椅子生活だが、マンションの部屋の中では車椅子生活ができなかった。狭いのだ。トイレには段差もある。 結局娘に左手を引いてもらい右手で四点杖を使った。手を引いてもらえば四点杖で歩けるように なっていたのがわずかに救いだった。入浴も介護用品を妻が探してきた。 浴槽の端の腰をおろせるプラスチック製の板、浴槽の縁にセットして使うつかまれる鉄製のもの、 シャワーイス、それでも一人では入れなかった。裸になって手を引かれて浴室にいく。 シャワーイスに座って娘に頭と背中を洗ってもらった。 浴室が狭いので出て外で身体を拭いてもらいパンツをはいていた。 このころである。転倒したのは。 パンツをはくとき身体の重心が崩れて転倒した。娘があわてて支えようとしたがだめだった。 それからは部屋まで戻ってからベッドに腰を下ろしてパンツもはくようになった。
夜中にベッドから一週間に三度も転落したのもこの頃である。 大声で隣室の娘を起こしたが、手が身体の下に入っていて娘にも簡単には起こせない。 ようやくベッドに戻って二人で大笑いした。 翌週から長男のベッドの柵を借りて付け、三〜四ヶ月したら落ちないようになった。
歩道の拡張工事が冬はじまった。 歩道は狭く狭いところへ通りの店の植木鉢が並んでいる。 自転車がくるたびに車椅子は通り過ぎるのを待った。 春になったら工事が終わるものとばかり思っていたが夏になっても終わらなかった。 歩道の工事に合わせるようにマンションの工事がはじまった。 マンションの工事箇所の通行は車椅子には特に大変だった。 車椅子では通れない時もあった。そんなときは工事の人に声をかけると気持ちよく2〜3人で車椅子ごと 持ち上げて通れるところまで運んでくれた。
歩道工事の進捗状況によっては、車道に降りて車道の端を通行しなければならなかった。 途中バラスの上にゴムがひいてある場所があったが、そこはでこぼこで車椅子には実に通りにくかった。 この頃はまだ電動車椅子ではなかったので、娘の力ではきつかった。 1998年3月に歩道工事がひとまず終わり、その年の秋頃平らなコンクリートの上が長方形の茶色いブロックで 一面に飾りのように覆われた。 (何故か日本のまちづくりでは「使いやすさ」より「見栄え」の方が優先されている。悲しいことである。)
歩道工事が使いかってよりも見栄えが優先されていて悲しくなったもう一つのできごとがある。 車道と歩道が交差する所の段差である。2〜3センチの段差だが自転車と違い前輪の小さい車椅子は つっかえてしまう。後ろ向きになって大きい後輪から先に段差を超えるようにすれば、通れるのだが それでは不便だ。 だいたい、なだらかなスロープにしないで段差にしなければならない合理的な理由など何一つない。 これなども車椅子に乗ったことの無い人が設計・監督した証拠といえるだろう。 それ以前に「まちづくり」のコンセプトが日本には根付いていないのだと思う。
平成10年のはじめに「東京都福祉のまちづくり推進計画」が決まり、次の5つの福祉のまちづくり の基本的視点が発表された後だけに「福祉のまちづくり」の目標と現実のギャップに唖然とする。
※5つの福祉のまちづくりの基本的視点 1) ノーマライゼーションを基本とした福祉のまちづくり 2) 生活者の視点に立った福祉のまちづくり 3) 協働に基づく福祉のまちづくり 4) バリアフリーを推進する福祉のまちづくり 5) 快適性等新たな視点からの福祉のまちづくり
“夫婦別居”の生活3年で「夫婦」「親子」「家族」の絆がかえって高まった。 それは私と妻と三人の子供達とのお互いの意志疎通が前よりも濃くなったことが最大の理由である。 健康で仕事にかまけていたころには、家族でじっくり話し合う時間などなかった。 夫婦の間では毎日言葉を交わさない日はなかったが、それも疲れて深夜に帰宅する日が続くとつい少なく なっていた。 子供との会話はなおさらだった。子供にとってはとても大切に思えることがあっても、私が帰宅する頃には もう寝ていて、朝も早い出勤だから話し合いをする時間がなかった。 止せばいいのに仕事のない休日もゴルフに出かけたりしていたのだ。
それが病気をしてからは違う。特に二度目の脳出血の後は車椅子生活になって外に出られなくなったから、 家族と過ごす時間が何倍にもなった。マンションに娘といるときなど「あれ、こんなだったんだ!」 と、今まで知らなかった一面を覗いてびっくりすることも結構多い。 そのことは娘も同じらしい。今までの恐いおとうさん像が一挙に崩れて車椅子生活をするやさしい(?) おとうさんに変身したからだ。
妻とは毎週末マンションと家の間をドライブする。 平日にも電子メールでの交流が多い。他に用事があれば夜電話を使う。電子メールというのはどこでも パソコンを使いインターネットをするようになってからその便利さが受けて、仕事以外の家族や友人との 欠かせないツールになった。 車椅子生活になるハンデは残ったが、人間的な生き方の上では病気をしたことに感謝したい。 もし病気をしなかったら、そういうことに気づかないまま一生を終わっていたかも知れないのだ。
そのうちにマンション生活も二年目を迎えた。 嬉しいことに長女が結婚することになった。
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田んぼのしろかきを近所のおじさんが来てやってくれている。
今は機械化されて随分と楽になったが、私の子供頃に信州では馬に馬鍬(マグワ)を引かせて
父がその馬鍬を押して田んぼを何度もていねいにならしていた。
泥の跳ねで汚れるのも平気で馬鍬を押していた父の顔が・・・浮かんできた。
遠くで雷がゴロゴロなっている。どうやら雨が降ってきたらしい。庭の松の枝がゆれている。
「ピンポーン」「ピンポーン」と玄関の呼び鈴が鳴った。
しばらくして妻が玄関から大きい箱を抱えて「きたよ!きたよ!」と弾む声で戻ってきた。
結婚した長女がカーネーションを送ってくれたのだ。
つい今し方帰っていった隣町に住む姑が
「嬉しいですね、カーネーションを送ってくれたのよ!」
と話していたので妻も密かに期待していたらしい。
カーネーションにこめられた次女と長女の思いが私にも伝わって不覚にも涙が滲んできた。
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ゴールデンウィークにトランシーバーを妻が買ってきた。
2km離れた所でも電波が届くという。
病院を退院してから私が妻を呼ぶときには、声を出すか呼び鈴を使っている。
大きな声をだして届かないところでも、呼び鈴なら家の中ならだいたい届く。
なぜ呼び鈴にしたかというと、2回目の脳出血で四肢不全麻痺+言語障害になり
病院のICUにいるときに、ナースコールのブザーを押せない私を見て、
婦長さんが妻に“鈴”を教えてくれたそうである。
そのときには妻がデパートで鈴の幾つもついたリングを買ってきて私の腕に通してくれた。
看護婦さんを呼びたいときには腕を少し後かすだけで「リ〜ン、リ〜ン」と鳴った。
トランシーバーは家の外で農作業等をしている妻との連絡に使う。
屋敷が比較的広く千二百坪くらいあるので、
窓を開けて呼び鈴を鳴らしたり大声を出しても聞こえない所にいてもこれなら連絡できる。
ゴールデンウィークに草取りや生け垣の手入れや田植えの下準備にいそがしい妻も
これで安心して外にでられると思って買ったらしい。
試してみると、これは使える。
だが問題がないわけではない。電源を入れていなかったり、ボリュームを絞りすぎていると
聞こえない。当たり前のことだが重要なことであることも、使ってみてわかった。
田圃や畑では電子メールというわけにはいかないが、これは便利な通信機器だと思った。
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夜勤明けで次女が東京のマンションから家に帰ってきた。
4月28日以来だから再会は丁度一週間になる。
可愛そうに次女は「このGWに休みが無くて家には帰れない」といっていた。
それがお母さんにカーネーションを買って帰ってきた。
きっと毎日お父さんが一緒で介護疲れしているのではないか?と様子を見に来たのだろう。
「お父さんがいなくてさびしくなかったかい?」と聞くと
「ぜ〜んぜん せいせいしたわ!」といって、妻と顔を見合わせて笑っている。
「明日また出勤だから、お茶を飲んだらおばあちゃん病院に行って来る」
といま妻と二人で出かけていった。
家も六人家族でにぎやかだった。
それが、長女が結婚して一人減り、おばあちゃんが入院してもうじき一年になる。
私と次女は東京でマンション暮らしだ。
週末は私も家に毎週帰っているが、2匹の犬と2匹のネコと1匹の
ハムスターがかろうじて家を明るくしている。
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◇ 誕生日に妻にメールを送る 1999年 4月 27日 火曜日
今日で57歳になりました。
こうやって「元気でいられる」「夢も希望も若者に負けないくらいある」
嬉しいことです。
これもおかさんや3人の子供達はもちろんのこと、職場の友人やネットの友人達の
励ましと応援のおかげです。みんには心から感謝しています。
特におかあさんには感謝の言葉もありません。
わがままで・・自己中心で・・嫌な性格(?)のおとうさんに良くつくしてくれました。
子供達が本当に良くおとうさんの面倒をみてくれるのも、おかあさんが不平もいわず
おとうさんの面倒をみているからだと思いますよ。
重ねて感謝感謝です。 ありがとう。
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◇ 時代は驚くほど変わっている 1999年 4月 2日 金曜日
新入社員を迎えてある社のトップが
「情報で武装した世界のビジネスマンと対等に渡り合うためには、
「語学力」と「情報技術」の修得が大事だ。」と言ったという記事が新聞にでていた。
これは何も今年はじめて聞く話ではない。もうずーと前からよく聞いた話である。
ただ今年ほど「うん そうだ!」と相づちが打てる年はなかったような気がする。
不景気の中で規制緩和が進み日本は世界の企業の草刈り場になっている。
どの分野でも、企業が生き残るためには、
企業自身の痛みの伴うリストラと有能な人材をいかに確保するか
という一見相反するような命題に各社とも真剣に取り組むことが求められている。
このように各社の動きがよりグローバルになってきているので、
世界を相手にする社員が外国語音痴では話にならない。
同時にスピード競争に勝つためには、
パソコンをはじめとする情報技術も当然知らなければならないだろう。
わかりやすく言えば英語とパソコンを使いこなせる人間を確保することが
企業が国際競争に勝つための必須の条件といえるようだ。
インターネットの普及が予想以上に進み技術も驚くほど進んでいる。
情報技術の一年の遅れは最早取り戻すのが困難になっている。
このことは、企業だけでなく個人にもいえることである。
情報技術の一年の遅れは果てしない遅れである。
少々の努力で追いつけるような生やさしい距離ではない。
だから少しでも若いうちから外国語とパソコンに慣れ親しんでおくことは、
これからのビジネスマンにとって欠かせなくなっている。
そういう時代が、もう既に来ているのだ。
「時代は驚くほど変わっている」ことを、日本人もしっかりと知る必要があるだろう。
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私が英語を習いはじめて直ぐに嫌いになったのは、
英語の文法に時間をかけすぎるのが好きになれなかったからだ。
それに英語の先生も何故か好きになれなかった。
そんないいわけをしても仕方がない。
中学、高校、大学と10年以上も英語を習ったのに私は未だに英語を話せない。
(胸を張って言えることではないが)
だからこんな失敗もある。2回目の脳出血で倒れる前の年に米国に出張したときのことである。
機内でコーヒーを頼んだのにスチュウワデスがコーラをもってきた。
違う違うと身振り手振り織り交ぜてゴチャゴチャいっていると今度はコーラを缶毎もってきた。
U航空だったから、英語のできないスチュウワデスがいるわけがない。
私の発音が余程悪かったに違いない。
面倒くさいのでそのままコーラを飲んだが英語が益々嫌いになった。
おまけに帰ってからその話をして妻と娘達に大笑いされてしまった。
わが家では次女が一番英語が得意である。
高校の外国語コースをでて短大卒業後アメリカ留学したくらいだから無理もない。
その次女にアメリカの友人からしょっちゅう電話が家にかかってくる。
次女が家にいるときには問題ないが、不在のときは大変だった。
何と答えたらいいのか妻もはじめは困っていたが、
そのうちに「she is not here」で十分通用したようである。
それからは「she is not
here.ok?・・・」を連発して何とか応対して悦にいっている。
次女が後でアメリカの友人から、
君の家には「英語が話せる人が他にもいるね!」といわれたという。
妻は「英語は度胸よ!」といっていばっていた。
その妻が、昨年台湾で開かれた会議に上司と出席する機会があった。
「いっしょに出席しているだけでいい」といわれて出席したものの、
帰ってから「参った!参った!」とぼやいていた。
何でも会議はEnglish
オンリーで英語がしゃべれない人はいなかったらしい。
コーヒーブレイクの時「どこからきたか?」に「Japan」と答えたまでは良かったが
会議が終わってからのレセプションの時に「ぺらぺらぺら・・・」と話しかけられ、
聞かれたことがわからないので返事ができない!助っ人も側にいない!
コーヒーをもって人混みの中をただウロウロしていたようだ。
その光景が目に浮かぶようで今度は次女と大笑いをした。
「今度英語を勉強しよう!」これが妻の感想だった。
この頃は私も少し英語が好きになってきた。これはパソコンと多いに関係がある。
パソコンやインターネットには英語がいやと言うほど使われている。
だから毎日自然と見ていることになる。
もちろん、偏った方面の英語であるかも知れないが
それでも少しは英語が好きになる役にたっているいるようだ。
「今度私も英語を勉強しよう!?」と思っている。
Y さん メールありがとうございます。 私のホーム・ページを見ていただいてとても嬉しく思います。 お母さんの介護をされていたそうですが、大変でしたね。 ご苦労さまでした。 私も脳外科とリハビリテーション科に入院していましたが、 病院に入院していると実にいろいろな境遇の方がいらっしゃいますね。 脳外科やリハビリテーション科に入院しているだけで 将来を考えると夢も消えかかる人がいるのもやむを得ないことかも しれません。でも、本人の気持ち次第で闘病生活も勇気が湧いてくるのも また事実です。 私も3回の入院生活(うち2度は脳出血)でそのことが良くわかりました。 そして、本人の気持ちを前向きにさせるのは Y さんの言われるように 将来に明るい希望がもてる情報です。 入院しているとそういう情報も自分で集めるのは至難の業です。 家族や病院の関係者がその手助けをして欲しいと思います。 私もそんな家族や関係者のために少しでもお役に立てればと ホーム・ページをつくりました。 四肢が不自由でおまけに言語障害のある車椅子生活者です。 「自分の出来ることで何か人のお役に立ちたい」その思いだけで 復職し毎日明るく楽しくやっております。
メールありがとうございました。また元気がでてきたように思います。 明日からまた頑張ります。 ありがとうございました。
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車椅子を電動車椅子(簡易型)にしてから行動が随分楽になった。
勤務場所のある「社会福祉保健医療研修センター」は、東京都でも数少ない
(3カ所しかないという)バリアフリーに配慮した建物なので中での移動は1人でできる。
それまでは通勤の往復には娘が車椅子を押してくれていたが今は後ろからついてくるだけである。
マンションの出入り口のドア、エレベーター、歩道の段差があるので、これはまだ辞められない。
それでも、歩道の段差を越える要領も少しわかってきた。
スピードが速すぎると段差に「ガクッ!」とぶつかって停止してしまう。
遅すぎてもいけない。微妙な低速度の時だけ越えられるのである。
こういう段差がマンションからの通勤経路(約300m)に2カ所ある。
だいたいこの歩道は、2年余の工事で昨年終わったばかりである。
それなのに車道と交差する歩道がこの有様である。
障害者に配慮した形跡は全くみられない。
工事の図面を書いた人もそれを承認した人も勿論車椅子に乗ったことなどないに違いない。
「バリアフリー」とか「ノーマライゼーション」とか「福祉の街づくり」なんてことも知らないのだろう。
ついた予算をただ消化すればそれでもう自分たちの仕事は終わった
と思っているのだから始末が悪い。
街づくりがこういう人たちにゆだねられていると思うと、もう怒りを通り越して情けなくなる。
「街にでたい!」と思っている障害者はたくさんいるだろう!
私もそのひとりである。
東京にたとえ不便なところは多くてもこの夢を捨てるわけにはいかないのだ。
電動車椅子でも越えられないような段差など街づくりにはいらないのだ。
道路を整備するときに「見栄え」よりも「実用性」を重視するようにようにしたいものである。
※ 参考「ヤマハの電動車椅子」のページ
(http://www.yamaha-motor.co.jp/wheelchair/jw0.html)
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乙武さんは好青年ですね。すごく明るい感じで好感がもてました。 「五体満足」とか「五体不満足」とか人間の外形で判断するのが今までの普通のやりかたでしたが、これからはこれを変えていかなければいけないと思います。 だいたい五体満足ってなんですか? 手? 足? ・・・ 多くの中に少しだけ変わったものが入ると目立ちます。大きい人が揃った中に入った小さい人、女性ばかりの中に入った男性、障害のある人ばかりの中に入った障害の無い人・・・これはごく普通の現象です。「人間には障害のある者も障害の無い者もいるんだ」ということをみんなが当たり前に思えるような社会にしていきたいものです。 そのために、私のような車椅子の障害者もできるだけ街にでて多くの人とふれ合いを持つようにしたら良いと思います。普通のことを普通に感じられるようにしていくために、障害者ももっと自由に街に出ていくようにしたいと思います。 世の中には障害のある人もいっぱいいます。 それなのにあまり目立たないのは、障害のある人があまり出歩かないからではないでしょうか? 歩道の段差、観音開きのドア、狭いエレベーター、私のように車椅子を使うものにとっても街には、いろいろなバリアがあり外出の妨げになっています。 「障害者がいつでも自由に出かけられる街こそ普通の街」 であることをみんなが知るようになるのは果たしていつのことでしょうか? 障害者自身も現実を受け入れて前向きに生きるように勤めるべきでしょうね。 現に障害があってもパソコンを使い、ホーム・ページも作れるんです。言葉が多少不自由でも、講師としてマイペースで話せば十二分に「意」が伝わるんですから。
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朝起きて8CHをつけ音だけ聞きながらインターネットをやる。
途中でトースト、コーヒー、卵焼き、りんごの朝食をとる。
歯磨き、トイレの帰りに廊下の手すりのところで立ち上がりの運動をやる。
この運動はトイレに行くたびの日課にしている。
10時15分過ぎから3CHで将棋の対局が始まった。
佐藤康光名人対谷川浩二前名人の対局である。
解説はおなじみの米長元名人、面白い解説が期待された。
谷川は佐藤に去年後半4連敗過去に竜王も取られていてこの一戦は何としても勝ちたいに違いない。
佐藤名人の先手で始まった将棋は、先手穴熊、後手振飛車となり難しい戦いになったが
終盤佐藤名人がじりじり差を広げて圧勝した。予想通り米長元名人の解説は面白かった。
昼食後約2時間ひるねする。
その間に妻がお使いに行って来たらしい。
「おとなしく寝ているのが一番手が掛からない」と喜んでいた。
3時半に起きてコーヒーを妻と一緒に飲む。
家で飲む豆をひいたやや薄めのコーヒーが私は好きだ。
その後またインターネットをやる。
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我が家に二匹目の子犬がやってきた。
高校三年の息子が同級生の家からもらってきたのである。
まだ生まれて間が無く、兄弟三匹で母親の乳を飲んでいたそうである。
母親と別れて泣くのかと思ったがいやにおとなしい。全然泣かない。
子犬の小屋の毛布の上で昼寝をしている。
我が家には既に一匹の雄犬がいる。
その犬の近くに子犬の小屋を置いたのが成功したようだ。
もらってきた子犬も雄であるが、或いは母親と勘違いしているのかも知れない。
前からいる犬の名前は「ルー」今度きた子犬は「アイン」いずれも名付けたのは息子である。
何で「アイン」か聞いたところアインシュタインの「アイン」だという。
夕方になったら湯たんぽを小屋に入れてやっている。
毛布には「チクタク、チクタク」と音を刻む時計まで布に包んでおいてある。
本に書いてあったという。母親の心臓の音に似せるのだそうである。
長男は動物が好きで、猫も二匹飼っている。ハムスターも一匹飼っている。
自分で面倒をみるのだから黙って許した。可愛い子犬である。
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次女とマンションで暮らすようになって8ヶ月ようやく娘が少しだけわかってきた。
次女は「英語を勉強するから」と短大卒業後アメリカにに1年留学した。
帰国してから“英会話”を生かそうとホテルでオペレーターをしている。
自分のお弁当を作るのと一緒に毎日私のお弁当を作ってくれる。
一緒に暮らして私のこともわかってきたのであろうか?
この頃になってようやく心が少しうち解けてきたような気がする。
病気になる前埼玉の家に住んでいるときには子供のことは何でもわかっている気がしていたが
実際は殆どわかっていなかった。読む本も、見るテレビも、交際している友人も全然わかっていなかった。
長女の時もそうだったが次女はもっとわからなかった。
小学生の頃から二階に個室を与えて自分は連日深夜の帰宅で子供のことは妻まかせ、
子供と話をするのは休みの日にたまにあるだけ、そんな生活が続いていたのだから無理もない。
子供は子供で「怖いお父さん!」と思い続けていた。
それが思いも寄らない脳出血で車椅子生活になった自分を、
最初は長女、長女が結婚してからは次女と、東京のマンションに一緒に暮らして面倒をみてくれる。
年頃の娘が自分の時間を犠牲にして面倒を見てくれるのはありがたいというほかない。
これは妻の教育が良かったのであろう。子供は親の姿を見て育つといわれるが全くその通りだと思う。
長男もこの3月に高校を卒業する。
「大学にはいかない。専門学校でCGIを勉強する。」とさっさと推薦をもらって専門学校の入学を決めてしまった。
今は運転免許をとるために教習所に通っている。
自分が高校生の時も進路のことで親に相談したことはなかったし、親からも「こうしろ」と言われたことがない。
自分の進路は自分で決めた。結婚するときも親には事後報告であった。
「自分の進路は自分で決める」
これは当然のことである。誰の行く道でもない。自分自身の行く道である。
自分で決めた道だから当然その責任も自分でとらなければならない。
子供からは意見を訪ねられれば言うようにしているがあまり聞いてこない。
必要なお金だけ用意してくれれば良いというのであろう。
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パソコンの普及と情報化の進展が年賀状でも読みとれる。
10数年前にワープロを買ってパソコン通信(ワープロ通信が正確か?)を始めた頃に
IDを年賀状に書いた時には誰からも反応がなかた。
それがパソコンが普及しはじめて個人のユーザーが増えるとともに少しずつ反応があるようになった。
特にWindows
95が発売されてからのインターネットの爆発的な広がりを見せた
ここ2年ぐらいの年賀状は様変わりした。
中でも今年はパソコンやインターネットのことを話題にする人が増えてきた。
定年後にパソコンを購入してインターネットを始めた人も年賀状をもらった知り合いの人だけでも2人いた。
やりたい希望を年賀状に書いてきた人は多い。
若い人から定年後の人まで十人以上いたのではないか?
しかしまだまだパソコンは使い易いとはとても言えない。
ステレオ、テレビ、テープレコーかダーなどは、買ってくればすぐに使える。
マニアルも最初に見るだけで後はほとんど見ない。ところがパソコンはとてもそうはいかない。
第一に高すぎる、だから買ってからも壊れることを極度に恐れる。
そこでマニアルを読んでから触ろうと思うのだが、これが読んでもちんぷんかんぷんである。
パソコンのメーカーに電話してもつながらない。たまにつながっても何を聞いたらいいかわからない。
説明される言葉も横文字の専門用語でこれまたちんぷんかんぷんである。
面倒だと投げ出してしまう人がいるのは、そんなところに原因があるのではないか?
もっと安くて使い易いパソコンができるのはいつになるだろうか?
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毎年の年賀状のなかから1枚の年賀状を見つける楽しみがある。
それは○○さんの、何色も使って何回も重ね刷りした素晴らしい版画の年賀状である。
十数年前はじめて私が管理職になった職場に○○さんが勤めていた。
それ以来○○さんが現役を引退した今も年賀状のやりといは続いている。それが今年は見られなかった。
家族にご不幸があって喪中という葉書が年末に届いていた。
きれいな白髪でいつも穏やかな○○さんが
「年賀状を印刷するときはね、部屋に長い糸を張って1回色を刷るたびにそこに吊して乾かすのですよ。」
そう話していたことを思い出した。あの素晴らしい年賀状を来年は見たいものである。
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“時間”というのは実に不思議だ。
一日が24時間、1年が365日、そして4年に1度閏年がある。
いつ誰が決めたのだろう?一年経つと誰もが一つ年が増える。
忙しく働く人も、寝ている人もみんな同じだ。
この“時間”という観念は、
人間が考え出したものだろうが人間が生まれる前から“時間”は間違いなくあったに違いない。
目に見えない“時間”というものが流れ、
動物も植物も命あるものはその流れの中で年をとりやがて死んでいく。
しかし、またその頃には違う命が誕生している。
今年も年の初めに兄弟4人の家族で集まり新年会をやった後で、そんなことを考えた。
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