車椅子の視線から「随想」
◇ インターネットが爆発的に普及 1999年 11月 15日 |
◇ 生きがいについて 1999年 10月 9日 |
◇ おやじとおふくろ 1999年 8月 7日 |
◇ “夫婦別居生活”3年目の総括(2)1999年 7月 18日 |
今日思いがけず嬉しい電話があった。
福井県に住んでいるKさん(婦人)からの4年ぶりの電話である。
私が5年前に2度目の脳出血に襲われた時に、3つの病院にお世話になったが、
その時3つ目のリハビリテーション病院でKさんは病棟が一緒だった。
脳血管障害でリハビリ訓練のために入院していたKさんは、
病棟でも指折りの訓練に積極的な患者で他の患者への面倒見も良かった。
退院後郷里の福井に夫婦で帰っていたが毎年年賀状の交換は続いていた。
そのKさんが
「テレビ見たわよ〜!リハビリに通っている病院にもビデオ持っていって みんなにも見せたわよ〜」
と弾んだ声で電話の向こうでしゃべっていた。
「放送の後何回か電話したんだけど通じなくて・・・年賀状を引っぱり出してよく見たら
1桁番号が違っていたよ。アッハッハ!」
「群馬に引っ越したTさんにも電話したら見たっていって言ってたわよ〜」
相変わらず元気なKさんの声を4年ぶりに聞くことができて嬉しかった。
テレビに出たのも思いがけないことだったが、さすがはNHKの全国放送
いろんなところでいろんな人が見てメールや電話ではげましてくれる。
おかげで、私も病気の後遺症と生涯楽しくやって行ける自信が湧いてきた。嬉しいことである。
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◇ インターネットが爆発的に普及 1999年 11月 15日
この頃嬉しいことがある。
脳出血や脳梗塞などの脳血管障害の経験者が次々とホーム・ページを開いていることである。
二年前、私がホーム・ページを開いた頃には、まだこの病気の個人のホーム・ページは殆ど見あたらなかった。
リハビリテーションについても、検索エンジンで探したが参考になるホーム・ページはなかった。
それが今はどうだろう。個人のホーム・ページが結構立ち上がってきた。
自分や家族の経験をもとに、いろいろな人がホーム・ページで情報を発信している。
私も脳出血の外にリハビリテーションの経験をもとに「パソコンとリハビリテーション」
というページを作っている。
自分の過去4年弱の実績からいっても、パソコンやインターネットが
私の後遺症のリハビリテーションに役だったことは間違いない。
9月に放送されたNHKの「生活ホットモーニング」(男たちの復帰)の番組も、
インターネットの交流が主題であった。(井上さん、大学さん、足立さん、と私がでた)
障害があって自由に出歩けない私たちにとって“インターネットの交流”はまさに福音である。
閉ざされた世界にいる私たちに情報をくれ、自分の考えを発信できるインターネット、加えて、
本人や家族に生きがいをも与えてくれる科学や技術の進歩に感謝したい。
Windows 95が発売されてまだ4年である。それがパソコンの普及につながり、
そして昨年頃からインターネットが爆発的に普及しはじめた。
わずか2年位しか経っていないのに今ではインターネットがニュースにならない日がないほどである。
インターネットが爆発的に広がってきたのは、業界や政府が“米国に続け”と力を入れたことなど、
いろいろな理由があるだろう。
だが、何といってもパソコンが使いやすくそして安くなったことが上げられる。
(※ Windows 95が出てから、MS-DOSの時代に較べて格段と使いやすくなりしかも比較的安いパソコンがでてきた)
そのことが子供から高齢者までをインターネットに引き付けることになったのは間違いない。。
まだまだ米国に比較して通信費がばか高いなどのネックも多いが、
インターネットが軍や研究者などの一握りの人に独占されていた時代は終わったのである。
インターネットが市民のものになった。嬉しいことである。
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先週の新聞に○○住宅と○○林業の一戸建て住宅の宣伝が大きく載っていた。
不況不況といわれながら住宅も、一戸建、マンション共に建築が進んでいるようだ。
ただ、宣伝の住宅のイラストを見ると2社とも玄関が2,3段石段を上がったところにある。
昔ながらの住宅のイラストのままだった。
最近の住宅は障害者や高齢者に配慮したバリアフリーのものが多いと聞いていたので
この宣伝は意外だった。何故せめてスロープが描けなかったのだろう?
イラストを見る限り「この住宅は車椅子生活の障害者や高齢者はお断り」と
無言で言っているようだった。
いくら人間が高いところが好きな動物とはいえ、
そういう本能に訴えてバリアフリーを無視するのはどうだろう?
イラストの作者も、住宅メーカーの関係者も必ず高齢者になるし、
中には障害者になる人もいるかも知れない。
「福祉のまちづくり」への取り組みが全国の自治体で進んでいるという。
一番身近な住宅への取り組みが、メーカーではまだこの程度なのにさびしい想いがした。
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1999年10月10日は、きっと忘れられない日になるだろう。
だるまさん夫妻を石川県から迎えて
「金さんの掲示板」の仲間17人(10人+付き添い7人)が
川口市の“好日庵”に集った。
みっちょマンさん、hinaさんも遠くから参加してくれた。
昨年7月「金さんの掲示板」を設置してから
掲示板にも延べ23000人を超える来訪者がきてくれたが、
ハックさんに昨年12月に会っただけで、まだ誰にも会っていなかった。
だるまさん夫妻が結婚30周年の記念に関東(東京)へ旅行するというメールをもらい、
その機会にオフ会をやれればと思い立ってハックさんと好日庵さんに相談すると
喜んで世話人をやってくれるという。 嬉しかった。
自分は動けないので2人にすべて任せることにした。
てるみさんが世話人に加わり盤石の体制が整い、
準備が着々と進んでいるという嬉しいメールをハックさんからもらった。
10月2日“好日庵”で、てるみさんと好日庵さんと3人で現場打ち合わせをしてきたいう。
「好日庵さんもてるみさんも二人は大変な人材ですね!期待してください。」
とハックさんのメールにあった。
だるまさん夫妻はの車を運転する息子さんの都合で、9日の夜石川県の自宅を出発
10日の早朝に川口に着き一休みして午後のオフ会に参加するという。
東京見物はオフ会の後、夜に車窓からやり
そのまま自宅に帰るというかなりな強行スケジュールのようであった。
10月10日午後1時少し前に“好日庵”に着くと既に大半の人が来ていた。
初めて会う人が殆どだがメールや掲示板での交流でそんな気はしない。
自己紹介して一人一人握手すると熱いものがこみ上げてきた。
わき上がるようなこの感動は今まで味わったことがなかった。
会は全員の自己紹介、好日庵さんのご主人が用意する美味しい料理とワイン、プレゼント交換など
お互いの楽しい会話を交えて盛り上がった。
感激と感動で涙ぐむ人、声を詰まらせる人も何人もいた。
何とすがすがしい涙だろうと思った。
きっと好日庵さんが手配してくれたのだろう。
途中からプロの声楽家木村 弓さんが、集まりの主旨を聞いてご好意で参加してくれた。
初めて見るライアという珍しい楽器の演奏にあわせて、
心を揺さぶるような声の歌が何曲も“好日庵”に響き渡った。
だるまさん夫妻の結婚30周年の記念に、てるみさんが浅草の山崎屋さんに頼んで
素敵な記念のオリジナルの提灯を用意してくれた。
結婚30周年の金さん夫妻にもと
同じく素敵な記念のオリジナルの提灯を用意してくれたのは嬉しかった。
みよこさんのご主人のピアノも素敵だった。
午後8時頃名残は尽きなかったが散会になった。
きっとみんな心に何かを刻んだ事と思う。
だるまさん遠くからありがとうございました。
石川から関東へという何年ぶりかの遠出で自信もついたことでしょう。
高坂サービスエリアでテレビを見た人から声をかけられたお話も
伺えました。良かったですね。
奥さん、息子さんもご苦労様でした。
みっちょマンさんお父さんとの楽しい旅行思い出がたくさん残りましたね。
東京で求めたというピンクの杖も素敵ですよ。長旅でまた自信がついて良かったです。
hinaさんようやくお会いできましたね。
いそがしい中遠くからの参加そしてオフ会のお手伝いもありがとうございました。
ゆみさん想像通りの明るいお嬢さんでしたね。当日お手伝いもありがとうございました。
芳村さんお会いできて嬉しかったです。優しいご主人もテレビでみて想像したとおりでした。
みよこさん、ご夫妻で参加ありがとうございました。
ご主人のピアノ素敵ですね。今度はゆっくりお聞きしたいです。
木村弓さん素晴らしいライアの演奏と心にしみる歌、ありがとうございました。
あの日の感動は忘れません。
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(てるみさんが描いてくれた馬の絵の色紙に皆が一言書いてくれた)
世話人を快く引き受けてくれた
ハックさん、好日庵さん、てるみさん
お礼の言葉もありません。本当にありがとうございました。
そして、好日庵さんのご主人、会場とお料理ありがとうございました。
皆さんのおかげで思い出のオフ会ができました。
参加した障害のある人も、一歩踏み出せてきっと自分に自信が持てたことでしょう。
(※ 写真は好日庵さんから提供していただきました)
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二度目の脳出血の後遺症で車椅子生活になってから五年が過ぎた。
四肢不全麻痺+言語障害という後遺症は、自分の夢を粉々にうち砕いたと思っていたが
何故か今心は落ち着いている。
新しい生きがいがいつか私の心の中で芽生えてきたようだ。
幸いにして三年前に車椅子で復職することができて以来、
悲しいかな障害者の自分にはやりたくてもやれないことが多すぎた。
一番悲しいのは、言葉が不自由なことである。
自分で言うのもなんだけれど二度目の脳出血になるまでしゃべることは得意であった。
それはきっと高校の弁論部にいた頃、県内だけでなくいろんな大会で
ならした自信が底にあったのだろうと思う。
それが思わぬ言語障害で日常会話も不自由になった。
勤め先でもあまりしゃべらないし
電話も自分からは出ないようにしている。
休職して埼玉の家に一人留守番をしている頃、一度だけ電話に出たことがある。
それは電話での売り込みの電話だった。
一方的にしゃべりまくって、私が電話口で何か言うと「わかる人は居ないんだ!」
と捨てぜりふを残し電話を切られたことは今でも忘れられない。
それ以来、一人の時は留守電にしている。
言語障害で四肢不全麻痺の身体も、この頃では随分改善したのではないかと自分では思っている。
不自由ながら研修の講師もやっているし、生きがいとしてインターネットを活用する
ようになったことで、パソコンを毎日使っているのが大きく影響していると思う。
2年前に開設したホーム・ページの更新がまたリハビリテーションになっている。
これは身体だけでなく心のリハビリテーションにも役だっている。
ホーム・ページの掲示板(BBS)にはだんだんと常連さんも来てくれるようになり、
脳出血、リハビリテーションの関連のHPでは少しは知られるようになってきた。
そして今度のテレビ出演である。
二度目の脳出血以来、果たして「今の自分に何が出来るのだろうか?」と自問自答
してきたが“こんな私でも少しは人の役にもたっているのかもしれない?”と
NHKテレビの「生活ホットモーニング」を見た人からのメールや掲示板への
投稿を読みながら感じた。
言語障害はテレビでも私だけ字幕がでていたように、自分で思うほどは改善していないようだ。
(インタビューの撮影が午後9時過ぎで疲れていたというのは、言い訳にすぎない。)
インターネットのホーム・ページを通じた交流もまた
現在の私の生きがいになっている。
私は、ホーム・ページで車椅子生活のこと、パソコンのことなどを情報として発信し
私のホーム・ページに来てくれた人は、掲示板やメールで
ホーム・ページの感想だけでなく、いろんなことを書いてくれる。
それを読んで私がまた返事を書き交流がはじまるのだ。
私にとって、インターネットがまさに情報の受発信のもとになっている。
女性も男性も、高齢者も若い人も、障害のある人も無い人も
自由に集まれる掲示板(BBS)そんなホーム・ページの掲示板をめざしているが、
幸い少しは目標に近づいているような気がする。
毎週末のホーム・ページの更新、これも生きがいの一つになっている。
「今度はこういうページを作ろう。あのページはこう直した方が良いかも知れない!」
そんなことを考えていると実に楽しい。
社会には外に出たくても出られない障害者がまだまだ大勢いる。
インターネットはそういう人達にとって打ってつけの情報の受発信のツールと言えるだろう。
だが、ちまたでは、まだまだパソコンは難しいと思われている。
そういう人達が少しでもやさしくパソコンが使えるように、私もできるだけ応援したいと思っている。
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久しぶりの長野は私の知っている長野ではなかった。
先ず驚いたのは高速道路だった。
高速道路は山裾を長野市に向かって真っ直ぐに伸びていた。
小諸も上田も街並みが遙か彼方にあった。
トンネルが幾つもあり、中には4000mを超える長いトンネルもあった。
途中の懐かしい街並みを見ることもなく車はいつの間にか長野に着いていた。
長野駅前の「メトロポリタン長野」ホテルに向かう途中で驚いた。
あの善光寺を連想させる「長野駅」が無くなっていた。
文化のかけらもないありきたりのビルがそこにあった。どうやらそれが新しい長野駅らしかった。
古い文化的な建物より近代的なビルを選んだのだろう。
オリンピックがこの街を大きく変えたのは間違いなかった。
「メトロポリタン長野」ホテルもその一つだった。駅前にホテルはあった。
このホテルの場所には昔何があったのだろう。
・・・・・・ 一生懸命思い出そうとしたが 思い出せない。
だが、このホテルにはハンデキャップルームがあった。
車椅子のまま泊まれる宿であった。だから、私たちはこのホテルを選んだのだった。
ホテルで夜高校の同窓生のOさんにお会いした。
学年が違うので在学時代は話す機会がなかったから初対面であった。
それがインターネットの交流でMさんの紹介でメールのやりとりをするうち同窓生だとわかったのである。
Oさんも障害を持っており、ホテルにはタクシーでやってきた。
初対面だったが杖をついてタクシーを降りてきたOさんは直ぐにわかった。
旧知の間柄のように私たちは挨拶を交わし、それから妻と三人で食事をしながら話がはずんだ。
翌日はあいにく雨である。九時過ぎホテルを出て郷里の墓参りに向かった。
郷里は長野から20キロほどの山間の町にある。国道からはずれ細い道をしばらく行くと
懐かしい小さな家並みが続いている。いつもは人通りのない所だが
珍しく雨の中をお年寄りが何人も農協の方に歩いている。
看板を見るとお年寄りの健康診断のようだった。
知っている顔もあったが、何年ぶりの顔であるどの顔も老いが更に進んでいるように見えた。
最初に山裾にある寺に行った。雨が降っているので車椅子を降ろせない。
墓に登る石段の近くに車を停めて、妻が代わって寺と墓に行ってきた。
「久しぶりでわかるかどうか心配したけど直ぐにわかったわ」
と妻が言った。墓に登る石段も最近付けたらしい。
杉の木が切られて墓地が見違えるように明るくなっていた。
寺では住職さんが留守で、先代の住職さんの奥さんが留守番をしていたと妻が言った。
車を出すときに遠く寺の入口でその奥さんが手を振っているのが見えた。
私も車の窓から手を振って答えた。
その後で親戚・知人の所に三軒寄ったがいずれも私は車の中で失礼した。
この町のこの辺だけは時間が止まっているようで昔ながらの家並みも人も懐かしかった。
長野に戻り「かんぽの宿」のある妙高に向かった。
トンネルだらけの高速道路を一時間程走り、インターから白樺林を十分ほどで「かんぽの宿」に着いた。
車椅子で入口を入ろうとするとおじいさんが 「良くいらっしゃいました」
とていねいに声をかけてくれたので、宿の関係者かと思ったが
「お客さんらしいよ」 と妻が言ったのでまた吃驚した。
雨で妙高の山は見えなかったが、「かんぽの宿」はハンデキャップルームが広くて使いやすかった。
夜食に頼んだ「かんぽの宿」お奨めの「馬さし」は、色も良く柔らくて美味しかった。
妻から1杯分けてもらった新潟の冷酒もまた美味しかった。季節を選んでまたこようと思った。
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週末埼玉の家での楽しみの一つに「昼寝」がある。
月曜日から金曜日まで勤めている間は、昼寝など勿論できないから
週末の昼寝は結構嬉しい。
お昼が済むと一時ぐらい、それから三時頃まで昼寝をする。
まれにベッドで横になっても一睡もできないときもあるが
たいていはぐっすりよく眠れる。
目覚めてから妻に入れてもらうコーヒーが
また格別である。
日曜日の朝の楽しみは
6時のNHKニュースの後「漢詩」と「四国八十八カ所めぐり」を
ベッドの中で見ることである。
漢詩は江守徹の朗読がいい。
八十八カ所めぐりは毎週「旅人」に映画監督や俳優が出ている。
加藤登紀子のナレーションも好きだ。
今朝は旅人に片岡鶴太郎がでていた。
週末の朝早いのも昼寝ができる理由かも知れない。
嬉しい週末である。
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9月は身体の調子が変わる月である。
夏の暑い季節から秋の気持ちの良い季節へ気候が変わる月に当たるから
真夏のように暑かったり上着なしでは過ごせないような寒い日があったりする。
だから私は病気(二度目の脳出血)をして車椅子生活になってから、
特に9月は気を付けるようにしている。
一番やっかいなのは、勤務先の室温である。
真夏の高温時に事務室の冷房の温度を24度か25度に設定して送風で調節する
ようにしているから、みんなの身体が冷房にすっかり適応してしまったらしい。
電動車椅子で出勤する自分だけが、エネルギーの消耗が特に少ないのか(?)
この冷房温度では寒すぎるのである。
9月になっても設定温度が代わらない、低温のままだ。
みんなは半袖で平気でいるから、自分一人が「寒い!」と言っても通じない。
仕方なく私は長袖のYシャツに背広を着たり、カーデガンを着たりして自衛している。
病歴は長い、我慢することにはすっかり慣れてしまった。
「人はみなそれぞれであり、気温への適応温度も様々である。」
違うことを承知して付き合うのと知らないで付き合うのでは
日常の生活が双方まったく違ってくる。
人間が一人では生きられない社会的な動物である以上、
こういう人間の基礎的なことはみんなが学校で学ぶ機会をもつのが、
当然と思うのだがどうだろうか?
今は、いつ、どこで学ぶ機会があるのだろう。
看護専門学校を卒業生した人も、大学を卒業した人もいる職場であるが、
そこのところがわからない。
だが、しつこいようだが、24度か25度というのはあまりにも低すぎないであろうか?
私は26度まではなんともないのに、25度以下になると
てきめんに身体の節々が痛くなってくる。
せめて、26,7度にしてもらえればと思うのだが・・・・・?
それとも自分は既に冷房病になってしまったので仕方がないのだろうか?
都庁の本庁舎は28度に設定していると聞く。
その温度では結構暑いようだ。それを思うと「寒すぎる!」などと言うのは
贅沢な悩みなのかも知れない?
(私の病歴)
☆ 1973年(31歳)高血圧性脳症で倒れる・・・・・・ 9月
☆ 1985年(43歳)一度目の脳出血で倒れる・・・・10月
☆ 1994年(52歳)二度目の脳出血で倒れる・・・・ 4月
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おやじは無口な人だった。必要なことだけを静かにじゃべるだけだった。
おふくろは何でもやる活発な人だったが私には厳しかった。
だからおふくろには良く叱られた。小学生の低学年の頃、
おふくろの留守に家の戸棚にあった黒砂糖をなめて見つかったときには
右手の人差し指にお灸をすえられたほどだ。この時のお灸の跡は今でもかすかに残っている。
小学生時代、中学生時代と9年間学校を皆勤できたのも、厳しいおふくろがいた
ためと感謝している。おふくろの「教育方針」それは「休まずに学校に行け!」それだけだった。
その後の高校(定時制)4年間も皆勤しとうとう13年間休まずに学校に行った。
身体も丈夫でなければとても出来ることではなかったろう。
丈夫な身体と厳しい躾けおふくろは私の大恩人である。
おやじとおふくろは親戚であったから、おふくろは自分の親が決めた結婚の話しに
あまり乗り気では無かったらしい。無口のおやじを知っていたのであろう。
それを直接二人確かめたわけではないが、私は多分本当だろうと思う。
田舎の小さな山村とはいえ、地主で江戸時代には名主まで勤めていながら没落して
在所を棄てて近くの村で借家住まいのおやじの所へなど親が決めなければ
嫁に来ることはなかっただろう。
おふくろが最初躊躇ったのも無理もない。
おやじもおふくろも尋常小学校を卒業していない。
理由はいろいろあろうが、なんといっても「貧乏」暮らしがどうやら真相らしい。
おやじが子供の頃どうしていたかはついに聞くチャンスが無かったが、
おふくろは自分のことを話してくれた。
なんでも、6,7歳の頃から子守りに行ったというのである。
年頃になると諏訪に女工に行ったそうである。
あの「女工哀史」や「ああ野麦峠」の時代である。
女中奉公をした話しもしてくれた。信州の寒い田舎町で、寒中でも
足袋をはいたことがないという生活は、
私が子供の頃話を聞くだけでも寒気がした事を覚えている。
9年間一度も父兄参観など学校に来たことのないおやじだったが、
高校の入学式だけは、何故か「俺が行く」と言って出席した。
入学式で新入生の宣誓を読んだ私をみておやじはいったいどう思っただろう?
入学式の宣誓には思い出がある。
入学式に行くといきなり職員室に呼ばれ私は吃驚した。
しかし、職員室に呼ばれたのは私一人ではなくもう一人いた。二人揃うと先生が
どちらかに宣誓を読んで貰うのでジャンケンをしろという。
ジャンケンで私が運良く勝ったのである。
おやじとおふくろと一緒にどこかに旅行した記憶はない。
私の成人が両親の老いに間にあわなかったのである。
とうとう一緒に東京見物することも夢に終わった。
貧乏でただ黙々と働く両親と15歳の春まで一緒に暮らした思い出が
いま懐かしく思い出される。今年は何年かぶりに父母の墓地を訪ねようと思う。
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午後5時半、休暇の次女が迎えに来た。
「今日は暑いね〜!」と声をかけると
「やっと少し風が出てきたよ」と次女、続いて
「休みでも5時半までしか休めないんだからつらいよ〜!」
と少し怒り声で私に突っかかってくる。
私は無言のまま
車椅子でマンションに急いだ。
マンションに着いて次女にドアを開けて貰って中に入ると
ムッと熱気が漂っている。どうやら次女も出かけていたらしい。
どこに出かけていても5時半には切り上げて迎えに来なければならないのだから、
次女の言い分ももっともだ。
次女がいなければマンションの部屋にも帰れない自分を
みじめだと思ったことはないが、言われなければ感謝することも
忘れるところであった。
年頃の娘の“足かせ”は、早いところとってやりたいのだが、
年金が貰えるのは自分の場合61歳からである。
それまでまだ4年もある。
いったいどうすればいいのだろうか? ふいに迷いが湧いてきた。
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◇ “夫婦別居生活”3年目の総括(2) 1999年 7月 18日 日曜日
長女が結婚した後は次女が一緒にマンションに住んでくれることになった。
次女は長女とは4つ離れている。
一度目の脳出血の時にはまだ小学校4年生だったから、厳しいおとうさんのイメージ
だけが彼女の心に残っていたらしく、最初は躊躇していた。
だが、一旦同居の方針が決まると後は早かった。
長女がマンションを出るとその日のうちに自分の荷物をまとめて越してきた。
洋服ダンスや鏡台、テレビの位置も自分好みに一人であっという間にかえてしまった。
掃除と整理は得意のようである。
次女は意志も強い。
高校も、アメリカ留学も一度決めると迷わずにそこへ行った。
次女とは子供の頃からあまり話す機会がなかったので、性格もそれほどわかっている
わけではなく、私も、一緒にマンションに住んでうまくいくか心配もあった。
妻も同じ思いだったようだ。
娘の朝の出勤準備は大変である。
私のために、パンを焼いてコーヒーを入れ、リンゴの皮をむかなければならない。
それも毎日である。次女は自分は朝食を軽くとるようにしていたので、ほとんど私のために
時間を使った。食事の後かたづけの間に私はトイレと歯磨きを済ませる。
終わると着替えをして、電気剃刀で髭を剃る。
事前に次女が私の着替えの用意はするような流れができていたが、
「ボタンを止めてくれ!」と途中で私に呼ばれると
「これが済んでからでいいでしょ!」
と声がつい荒くなる。
私は娘が来てくれるまで待つよりなかった。
3〜4ヶ月過ぎた。
次女のシフト表(交代勤務の勤務表)が人員の削減で厳しくなって夜勤の翌日は決まって
機嫌が悪くなった。そして、「辞めたい」と口にするようになった。
不況で合理化のため、どこの会社でも、経費削減・人員削減をしていた。
そのために仕事はどうしてもきつくなるようである。
私は、「辞めるのは簡単だけど、次に就職するのは難しいよ」とだけ言っておいた。
ある夜のこと、「プーン」という不思議な臭いが次女の部屋からした。
「なんか臭うよ!」と声をかけると
「タバコよ」という。
「タバコでも吸わなくちゃやってられないよ!」とも言った。
そこで、私は怒鳴りつけた。
何年ぶりだろう。娘を叱るのは。
成人している娘である。お酒をのむのもタバコを吸うのも本当は自由だ。
だが、私はこの時本気で叱っていた。
タバコを吸っても良いことは何もないこと。
タバコは中毒になっているから止められないだけであること。
以前、若い女性がタバコを2、3本出勤前にコーヒーを飲みながら吸っているのを、
よく見かけた。本人はかっこ良く吸っているつもりかもしれないけれど、得るものは
何もないことを知っているだけに、よけい哀しかった。
私は、娘が同じようになるのではないかと恐れた。
しかし、心配はいらなかった。
それ以来、マンションの部屋でタバコの臭いはしなくなった。
また、娘にタバコのことを聞くこともない。信頼しているからである。
自分も若いときに(歳とってからも)タバコを吸ったことがある。
ただ、誰にも叱られたことはない。
それは叱ってくれる人の前で吸わなかっただけなもかも知れない。
介護されていると介護してくれる人を本気で叱るのは実は勇気が要る。
「あっそう! じゃあ勝ってにしたら!」
とでもいわれたら、その日から食べることもできない。
出て行かれたら追いかけることもできないのである。
それでも、叱るのは親だからであろうか?
そんなことがあって、やがて次女とのマンション暮らしが半年過ぎた。
シフトが厳しい時には長女が応援してくれる体制もでき、次女も明るい笑顔で
お正月を迎えた。
私との会話も増え、お互いの気心も通じてきた。
「辞めたい」という言葉も聞かなくなって、次女とのマンション生活も
楽しくなってきた。
料理も美味いし、やることの手際も良い。
少しきついところもあるが、手際の良さは妻に似たのかも知れない?
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