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車椅子の視線から(エッセイ)
目次(2003年 1月 〜2003年 6月)
◇ “エアーズロック” 2003.6.17(火) ◇ 健康な人にも読んで欲しい ! 2003.6. 1(日) ◇ ポピーはどこへ行った! 2003.5.26(月) ◇ 収穫の多かった“いわき”ドライブ旅行 2003.5.17(土) ◇ 小さな夢! 2003.5.8(木) ◇ 投票所もバリアフリーにして欲しい! 2003.4.27(日) ◇ 九年ぶりの電車!・・・さいたま新都心へ・・・ 2003. 4. 9(水) ◇ お花見 2003. 4. 1(火) ◇ 民主主義の歴史の違いか? 2003.3.17(月) ◇ 美味しい不知火(デコポン)! 2003.3.12(水) ◇ 先日の中学生からメールが届いた 2003.2.13(木) ◇ 中学生からのメール 2003.2. 6(木) ◇ テレビの思い出 2003.2. 3(月) ◇ スローライフで楽しく行こう! 2003.1. 5(日) ◇ 焼き芋ははじめてですか? 2003.1. 2(木) |
ながれているのは♪まち♪さん の
「無限の宇宙(そら)」
(無断転載・二次加工禁止)
◇ “エアーズロック” 2003.6.17(火)
友人の香西さんから嬉しいメールをもらいました。
メールにはエアーズロックの写真が添付されていました。
彼女は金さんが東京都に初めて勤めた職場で一緒だった女性です。
その後、その職場で一緒だった人たちと懇親会で何度かお会いしていたのですが、
金さんが二回目の脳出血の後は欠席していたのでお会いできませんでした。
それが、復職して衛生局研修センターに勤めている頃、ある日突然に
研修センターに現れたのです。あの時は驚きました。
尋ねると、病院の帰りに息子さんが寄ってくれたのだそうです。
久しぶりだったのと、お互い大病の後だったので、話が弾みました。
彼女もインターネットのメールを利用しているというので、
それ以来メールの交換をしています。
金子さん、今日は
梅雨空にあじさいの花がとても美しく映える今日この頃です。
お元気ですか。
思い出しますと、5年前、思いもかけない病気になり、
海外旅行などとんでもない、歩くことも大変な時期、金子さんの
勤務先が入院先に近いと言うことを知りました。
それから、いつか金子さんを訪ねて驚かすことを楽しみに
病院生活を始めました。
その伏線には、治療も大変な時、愚息が金子さんの
”車椅子の視線から”のタイトル、エッセイなどを印刷して
持ってきた事にあります。
この時はびっくりしましたね。ほろろです。
そんなことも色々過ぎ、5年の記念にと息子の勧めで
エアーズロックに行くことにしました。
ひたすら続く荒涼とした大地の中、忽然と現れる巨岩、
何にもじゃまされる物もなく、太陽の光を受け止める岩肌
この一枚岩は地上に現れているのは一部分で
ほとんどはまだ地中にあるそうです。すごいねーー。地球は。
太陽の動きで7変化する岩壁に魅了されました。
お医者さん、看護師さん、金子さん、友達皆さん、家族に
感謝です。 又メール致します。 香西
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◇ 健康な人にも読んで欲しい ! 2003.6. 1(日)
今、イー・ショッピング・ブックス(インターネット書店)内の「文芸社コーナー」で、
「闘病記−ひとりひとりの大切な記録ーフェア」が開催されています。
金さんの著書『脳出血から二度生還して』も、文芸社の推薦により出展されています。
“闘病”は、病気との闘いであり辛く苦しいものですが、
“自分”という人間を、改めて問い直す大事なときでもあります。
今、自分は何をやればいいのか?
今の自分に、何が出来るのか?
重い病気になったときや、病気の後遺症のために障害が残ったときにこそ、
その人の人間性が表れるのではないか? と金さんは思います。
同時に、病気の時にこそ、本当に頼りになれる人が誰なのか! がわかるのではないでしょうか!
単なるお涙ちょうだいの闘病記ではない、重い後遺症が残っても前向きに生きていこうとする
自分自身の生きざまを描いた著書が、多くの人に読んでもらえると嬉しいです。
イー・ショッピング・ブックス(インターネット書店)内の「文芸社コーナー」の宣伝文より あなたやあなたの大切な人が、ある日難病に冒されたら、もしも余命の宣告をされたらどうしますか。そんな悲しく辛い現実に果敢に立ち向かった方々の作品を集めました。 生きること、愛することを改めて考えさせられる14作品です。 |
↓14作品はこちらでご覧になれます。
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◇ ポピーはどこへ行った! 2003.5.26(月)
5月22日の木曜日 晴れていたので、利根川の河川敷に咲いているポピーを見に行こうと妻を誘った。
昨年、カスリーン公園から見える河川敷のポピーの花畑が実に素晴らしかった。
昨年行ったのは“童謡のふるさとハイキング”の当日だったので、今年は下見をしておく意味もある。
ところが、利根川に行ってみてがっかりした。
ポピーの花畑があったところに雑草が生い茂っている。
昨年こぼれ落ちた種から芽を出したのか、雑草の中にポピーが何本か咲いて、寂しそうに風に揺れていた。
「今年はどうだろう!」と、期待が大きかっただけに裏切られたようで落胆も大きかった。
そういえば、カスリーン公園のある堤防の手前で春から大規模な工事が行われている。
工事のために桜の木も切られて、楽しみにしていたカスリーン公園での桜の花見もできなくなった。
日本には「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、
治水関連事業のためなら桜を切るのもやむを得ないのだろうか? さびしいことである。
大利根町の河川敷ででポピーが見られないのなら、加須市の河川敷にある花畑に行ってみようと
利根川上流にある加須市の菜の花畑・コスモス畑のある河川敷に向かった。十分程で付いた。
堤防から見ると、時季はずれの菜の花が満開である。
金さん夫婦の他に見に来ている人は誰もいない。車で菜の花畑に降りていきデジタルカメラで写真を撮った。
きっと、週末はもっと混むのだろう。秋のコスモスも良いけれど菜の花も捨てたものではない。
来て良かったと思った。
ポピーの花畑はどこ!
菜の花畑
ポピー花畑
切られた桜
菜の花畑の帰りに、そこから車で5分くらいのところにある玄蕃farmによった。
玄蕃farm
※加須市のホームページの菜の花畑には次のように載っていた。
4月下旬〜5月中旬にかけて、利根川河川敷の約2haのお花畑いっぱいに咲きほこります。・・中略・・
今年は冬場に続いた悪天候により、菜の花が枯れてしまい、3月中旬に種を蒔きなおしました。このまま順調に成長すれば
開花は5月下旬ごろの見込みです。
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◇ 収穫の多かった“いわき”ドライブ旅行 2003. 5.17(土)
5月11日、12日家族でドライブ旅行を楽しんできました。
お天気はあまり良くありませんでしたが、茨城県日立市にあるバリアフリーの店とんかつ専門店とんに寄ってきました。
かんぽの宿いわきももう一度行きたいところです。
詳しくは「春の“いわき”ドライブ旅行」をごらんください。
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◇ 小さな夢! 2003.5.8(木)
どんな人間にも夢がある。
二回目の脳出血で倒れた後、後遺症の四肢麻痺を少しでも回復させようとパソコンに取り組んでいた自分にも
心の中に夢があった。それは小さな夢である。
幸いにも車椅子で復職できた自分が、
パソコンに触れているのが益々面白くなり、折からのインターネットブームに乗っていろいろ情報を探している
うちに、自分のホームページ『車椅子の視線から』を開設してしまったのが1997年の暮れのことである。
自分のホームページを開設してから、だんだんと心の中に自信のようなものが湧いてきて、それから2年後、
とうとう小さな夢を実現しようと思った。
それは、障害者とその家族のために、ホーム・ページづくりのお手伝いをすることである。
そして、インターネットに『ホームページ学院』というホームページを開校したのは1999年のことであった。
その頃、自分のホームページ『車椅子の視線から』を開設してからまだ二年足らずで、
インターネットのことやホームページのこともそれほど詳しくはなかった。
その上、後遺症の四肢麻痺で車椅子生活をしていたので、パソコンでの文字入力も極端に遅く、
30分で150字〜200字キーボードで入力するのがやっとだった。
そんな身でもボランティア活動などできるだろうか?という一抹の不安もあった。
だが、その不安もやがて時間と共に解消していった。
それは「自分にわかることを、自分に出来る範囲内で」という、無理のないボランティア計画だったのと、
最初の学院生がメールで知り合いになっていたみっちょマンとHackさんだったので、趣旨に協力してくれたのが、
自信を付けて不安を解消するのに貢献したのだと思う。
その後、おかげさまで、卒業生も何人か送り出すことができた。
2002年は、本の出版などで少しお休みさせてもらったが、2003年4月にホームページ学院の新入生募集を再開
したところ、3名の学院生を迎えることができた。
ことしの新入生は、3名とも脳卒中(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞など)の後遺症で障害のある人たちである。
ゆっくりしたペースになるだろうが、新入生と自分が協力してホームページを作り、
3人が喜んでくれる日の来ることが今から楽しみである。
◇ 投票所もバリアフリーにして欲しい! 2003.4.27(日)
町議会議員選挙の投票に行ってきました。
この地区の投票会場は昔から豊野小学校です。
ずっと以前、まだ車椅子生活になる前に、ここの投票所で何回か投票をしたことがあります。
もう十数年になるでしょうか?木造の豊野小学校が改築されるときに広い校庭がとれるこの場所に移ったのです。
その頃はまだ、バリアフリーのことがそれほど問題になっていないために、この小学校もバリアフリーではありません。
投票所として使われた部屋は小学校の体育館に併設されているクラブハウスの部屋です。
ここは、小学生が少なくなったので、地区の人が一緒に使える公民館のような役割を持たせていると聞きました。
入り口に石段が3段あるので車椅子では上れない場所です。
それを知っているので、2000年と2001年の選挙の時には、大利根町役場の1階で
行われた車椅子で入れる場所で、不在者投票で投票を済ませました。
今回、あえて小学校の投票所にいったのは、車椅子で投票する人がいることを
選管の職員や立会人、投票に来た町民の人など多くの人に知ってもらうためです。
この日、多くの人が車椅子では不便な所だとわかったと思います。
できれば、次から簡易のスロープなどを町で用意してもらえれば嬉しいです。
そして、これから作る公共の施設は、ぜひともバリアフリー化して欲しいと思います。
当日、車椅子に乗ったままでの石段の上り下りに、手を貸してくれた町の職員さん、ありがとうございました。
おかげさまで、良い経験ができました。
※ 参考
◇ 四肢マヒ者の参議院選投票 2001.8.1(水)
◇ 「不在者投票」と「代理投票」 2000年 6月25日 (日)
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◇ 九年ぶりの電車!・・・さいたま新都心へ・・・ 2003. 4. 9(水)
栗橋駅で
実に九年ぶりに電車に乗った。
金さんが九年前に二回目の脳出血で倒れ車椅子生活になってから初めてである。
これまでも、自宅と東京のマンションや病院の間を数え切れないほど往復していたが、いつも自動車だった。
春になり暖かくなるにつれて、「電車に乗りたい」という金さんの思いが心に沸々と湧きあがってきた。
平成12年に栗橋駅の駅舎が建て替えられた時に、妻も、「車椅子の視線から」の「妻の部屋」に
「春、暖かくなったら、この新しい駅からもう一度電車に乗せてあげようと思っている。」と書いているが、
今年三月で勤めを辞めて自由人になったので、今年こそ実現させようと思ったという。
夫婦二人の思いが一致して、金さんの「九年ぶりの電車!」が実現することになった。
実はもう一つ隠れた思いがあった。
いつも、まさよんはじめネットの友人に助けてもらっている
「金さんとまさよんのバリアフリー見聞録」に、金さんの電車での小旅行も載せたいという、
虫の良い考えもあった。
四月九日は朝から晴れている。
思い立ったが吉日と、妻と相談してさいたま新都心まで出かけることにした。
九時半過ぎに自動車で栗橋駅西口に着いた。
車を降りると、お天気がいいのに風が吹いているので寒い。
駅前の駐車場に車をとめてきた妻を待ってエレベーターに乗り、駅の改札口に向かう。
栗橋駅が古い木造平屋の駅舎から橋上化されたのが平成12年の暮れである。
ちょうど「交通バリアフリー法」が施行された年に整備されたので、駅舎がバリアフリー化されて見違えるようにきれいな駅になっていた。
東側の栗橋町側だけだった駅の乗降口も、駅が橋上化されて、西側の大利根町の住民にも使いやすくなっている。
三十数年前に、金さんが大利根町の町民になる前から、栗橋駅への西口設置は大利根町町民の悲願だったらしい。
その西口の設置が、交通バリアフリー法の波に乗ってやっと実現しているので、感慨も一塩であった。
電車の車内で
栗橋駅の改札口を入ってから、新しい駅舎にできた障害者用のトイレに寄った。
さいたま新都心駅まで三十分位なのだが、久しぶりの電車なので多少不安もある。
心を落ち着けてからエレベーターでホームに降りた。
車掌さんに車椅子がわかるように、最後部の車両の停車位置で待っていると、程なく電車が来た。
ドアが開くと、妻が手際よく車椅子を押して電車に乗り込んだ。
ホームと電車の段差は思ったほどなく、車椅子の前輪を少し持ち上げるだけで乗ることができたが、
帰りにさいたま新都心駅の職員に聞いてみると、まだ段差がある車両も使っているという。
そういう電車だったらスロープが必要だったので、後で聞いてついていたと思った。
乗ってから車両の中を見渡すと、一番前が片側だけ手すりがついて車椅子マークついている。
妻が車椅子を押してそこまで移動してくれた。
久しぶりの電車のためだろうか?
電車は思っていた以上に揺れた。
車椅子に乗っていても、
電車の手すりにつかまっていないと心細い気がした。
久喜駅を過ぎても片側の座席が空いているので、
車椅子から移って座席に腰掛けてみた。
妻も隣に座った。 車椅子と違い座席は落ち着いて座れた。
蓮田駅あたりを過ぎてだんだん車内が込んできた。
座席に座って見る車内の様子が九年前と何か変わっている。
どこが変わっているか直ぐにわかった。
近くに立っている若い人たちが六人(うち男性二人)、
全員片手に携帯電話を持って黙々と指を動かしている。
メールのチェックだろうか?それにしても異様な光景だ!
ヘッドホンで何かを聴きながら携帯電話で遊んでいる(?)若者も二人いる。
花の春だというのに、窓から外の満開の桜を見ている人は誰もいない。
この九年間で、パソコン、インターネット、携帯電話などIT(インフォメーション・テクノロジー)が急速に進化した。
しかし、こうしたハードの進化だけで、本当に進化したといえるのだろうか?
機械は進化したけれど、代わりに人間にとってそれ以上に大切な何かが後退しているような気がした。
そんなことを考えているうちに、電車はさいたま新都心駅に止まった。
さいたま新都心で
さいたま新都心駅に着いたのが十時四十分頃である。ホームからエレベーターで二階に上ると改札口があった。
改札口を出る前に障害者用のトイレに寄ってみる。
バリアフリー見聞録のことがいつも念頭にあるので、金さんは初めての場所ではなるべくトイレに寄るようにしている。
そこのトイレを見れば、そこがバリアフリーについてどう取り組んでいるか、およそのことがわかるからである。
改札口を出たところの通路(歩行者デッキ)正面(北側)にある総合案内所に寄った。
さいたま新都心の「ガイドマップ」と「レストラン&ショップとアミューズメントガイド」をもらった。
ガイドでは「レストラン&ショップとアミューズメントガイド」なんてしゃれたカタカナ語を使っているが、なんのことはない、
開いてみると「スーパーアリーナ」というかわった建物と「けやきひろば」内にある施設の概要とレストランやお店のことなどを
日本語で説明したリーフレット(小冊子)だった。
最近の日本では、「国際化」をはき違えているのか(?)外国語を日本語に翻訳しないカタカナ語が氾濫している。
カタカナ語は外国語だったものが国語の中に取り入れられてきた外来語とは明らかに違う。
外国語の語感から受け取るイメージをかっこいいと誤解して、日本語に翻訳する努力を怠り安易にカタカナ語を氾濫させるのは、
わが国の文化を衰退させていくようで悲しい。
日本がこれから主体性を持った国であるためにも、安易なカタカナ語の使用は考えものである。
ビル風が歩行者デッキでは強く吹いている。帽子を飛ばされないように頭を押さえながら歩行者デッキを行くと
明治生命のランドアクシスタワー(意味不明!)の二階にある
コーヒーを飲むところが目に入った。
広い空間にガラスのテーブルと椅子が置いてある。
一見無機質な感じの店(?)だが、空いていたので入ってみることにした。
若いウェートレスが二人いた。
コーヒーを注文すると、レギュラーの他に、
まろやかな味と酸味のある味の二種類おいてあるという。
金さんが酸味のある味を、妻がまろやかな味を注文した。
家でのんびりと飲むコーヒーも美味しいが、
たまにこういう所で飲むコーヒーは一段と美味しい。
一口妻の「まろやかな味」も、もらって飲んでみた。
なるほどまろやかな味である。
だが・・・自分には少し酸味のある味の方が合うようだ。
(妻も「美味しい」とコーヒーを飲む。)
コーヒータイムが終わり、時間が十一時を回っていたので再び歩行者デッキに出た。
そして、近くにある「さいたまスーパーアリーナ」と「けやきひろば」には寄らないで南に曲がった。
先に「ラフレさいたま(簡易保険総合健康増進センター)」に行ってみるためである。
「ラフレさいたま」はかんぽの施設であり、宿泊もできるので「将来利用することもあるかも知れない!」と
見ておきたいという妻の提案に同意したのである。
歩行者デッキを、車椅子でゆっくりと合同庁舎1号館、2号館の前を通り「ラフレさいたま」に向かった。
ビル風は相変わらず強い。歩行者デッキには約3メートル幅の屋根がついているが、
これでは雨の日の移動は辛いだろうと思った。
「ラフレさいたま」に行くと中に和食、洋食、中華といろいろな店がある。
もう11時半に近いので込まないうちに食事を済ませることにした。
三階の中華レストラン「彩賓楼(さいひんろう)」の前で、開店に少し時間があるので、入り口に出ているメニューを見ていると、
ちょうどお掃除のおばさんが通りかかって「ここのは美味しいですよ。」と声をかけてくれた。
おばさんがいうのだからここにしようと入ってみる。
コース料理、セット料理などいろいろあったが、「おすすめ週替わりセット」を頼んだ。
妻がAランチの芝エビの衣揚げフルーツマヨネーズソース、
金さんがCランチの牛バラ肉の柔らか醤油煮込みと、海鮮ポールの貝柱あんかけである。
中は11:30分の開店直後に入ったためか、まだお客は少なかった。
視力障害のある人と介護の人のグループ(4,5人)と婦人(60代、70代)の3,4人客が二組と男性の客が一組いただけだった。
料理はどちらも美味しくて、二人とも満足した。
昼食が済んだので、「ラフレさいたま」の中を車椅子で見てから、歩行者デッキをスーパーアリーナの方向へ戻った。
途中で合同庁舎の西側にある「ホテルブリランテ武蔵野」に寄ってみた。
ホテルのフロアへはスロープで降りた。
ホテルでトイレを借りた。
駅のトイレもいいが、ホテルのトイレはどこへ行っても間違いがない。広くてきれいだし使っても気持ちが良い。
ホテルのトイレは妻もお気に入りだ。
さいたま新都心の一階には現在五か所に公衆トイレが設置されているが、歩行者デッキのある二階には
公衆トイレがけやきひろばに一カ所だけである。
必要な人は、合同庁舎やホテルのトイレを利用できるので、それでも良いのかも知れない。
感動の小旅行だった!
疲れないうちに早めに帰ることにして、さいたま新都心駅の改札口で切符をだすと
係員が「そちらでちょっと待ってください。」といった。
「何だろう!」と待っていると
少し経って若い職員が折りたたみのスロープを持って現れた。
「電車にスロープを架けてくれるらしい。」職員と一緒にエレベーターでホームに降りて、
朝の電車とは逆に一番前の車両の停車位置に向かう。
電車がホームに入ってくると、
職員がホームと電車の段差を持ってきたスロープでカバーしてくれた。
こちらで頼んだのではないのに、車椅子の人のために親切にしてくれる!
さすがに「バリアフリー都市宣言」をしているさいたま新都心駅の職員は違うと感心した。
嬉しいことはそれだけで終わりではなかった。
栗橋駅に着くと、驚いたことにホームに職員が二人スロープを持って待っていてくれた。
車椅子で職員が渡してくれたスロープを使ってホームに降りる。
職員にお礼を言いながら胸のネームプレートをみると、一人は駅長さんだった。
きっとさいたま新都心駅から連絡してくれたのだろう。
「九年ぶりの電車」は、金さん夫婦に大きな感動を残してくれて無事終了した。
自信もついたし、また、さいたま新都心にも行ってみたいし、
そのうちに上野駅やその先まで乗ってみようと思った。
「お花見にいこうか!」
八時頃雨戸を開けている妻に言った。
「天気予報では、今日は晴れているが明日は天気が崩れるというんだ。」
「うん いいよ。」
「幸手の権現堂桜堤はまだ早いかなあ」
「これからは何度でも行けるんだから、咲いていなかったらまた行けばいいわ。」
これで決まった。
九時過ぎにお握りと水と薬をカメラバックに入れて車に乗り込んだ。
車椅子を積んでいる妻を番犬のアインが恨めしそうに見ている。
朝起きてから天気を見て出かけるのを決められるのは自由人の特権である。
金さんは自由人三年目、妻も今日から晴れて自由人の仲間入りである。
取りあえず幸手市にある権現堂桜堤に行ってみることにした。
もし駄目だったら、利根川の堤防にあるカスリーン公園にでもよってくればいい。
自動車で二十分程で桜祭りの看板が見えてきた。
案の定咲いている桜はまだ少ない。
堤のそばで有料駐車場の呼び込みをしている。
障害者用の駐車スペースとトイレがある公民館に行くと
入り口で駐車場の係の人が満車の合図をしている。
いっぱいらしい。 念のため妻に係の人に聞いてもらうと障害者用の駐車スペースが
一台分空いているとそこまで案内してくれた。
その障害者用の駐車スペースに、まさに駐車しようとしている健常者の自動車がいた。
係の人が障害者用の駐車スペースであることを説明すると、直ぐに移動してくれた。
日本ではどこの駐車場でも普通に見られる光景だが、ロスではそういう光景は見られないらしい。
妻に車椅子を押してもらって公民館の障害者用のトイレに寄った。
それから道路を横断して桜並木に上って行くと、桜はまだ2,3分咲きである。
子供連れの人や中高年の人が多いが、カップルでお花見をしている若い人も結構いた。
途中の広場では団体の人たちがバーベキューをしている。
家から割と近い場所にありながら、勤めている間は混んでいる週末しかこれないので長い間来なかった。
こうして桜並木の中を通るのは三十年ぶりである。
桜も結構大きくなった。
あの頃は見物客も少なく、整備されていなかった桜並木も舗装されている。
車椅子で桜並木を歩くにはこのぐらい空いているのがちょうど良い。
写真を撮るのにも楽だ。
あじさいの木もたくさん植えてある。
風が強くて少し寒かったので、お握りは自動車の中で食べたいと妻が言った。
後四、五日で満開になるだろう。
「またお天気の様子を見て来ようよ!」
妻に話すと笑って うなづいた。
このところ連日午後になるとベッドに横になってNHKのBS1の番組を見ている.。
ワールドニュースアワーやアメリカ・ABCニュース「ジス・ウイーク」などの番組を(副音声の日本語訳で)見ていると
国際問題への各国の取り組みの違いがわかるので勉強になる。
先日、イギリスのブレア首相がテレビの討論番組に出ていた時こんなシーンがあった。
首相の説明が終わっても参加者が納得の拍手ではなく、パラ・・パラ・・パラという間の抜けた拍手をしていた。
どうやら、ブーイングのような意味らしい。
その映像と、必死になって国民に説明したブレア首相の表情が映し出されて、実に印象的だった。
それに較べて日本のリーダ−はどうだろう。
小泉首相の記者会見などをニュースで見る限り、国民に説明してわかって貰おうという気持ちが感じられない。
いくら民主主義の歴史が、イギリス、フランス、アメリカと違うとはいえ、
そろそろ日本でも、リーダーが国民にわかるように語ってくれても良いと思う。
三月になってあのデコポン味が無性に懐かしくなった。
デコポンは熊本県の不知火町(しらぬひちょう)で清見オレンジとポンカンの交配で作られ、平成2年に商品化されたのだという。
最初は形が悪いので出荷されなかったが、その味が評価されて日の目を見たという。
デコポンと呼ばれるようになって今は形もむしろ愛着を持たれている。
産地も熊本だけでなく、愛媛や和歌山などで作られているので、不知火(しらぬい)と呼んでいる産地もあるのだという。
金さんがデコポンを好きになったのは食べやすく美味しいからである。
薄皮ごと食べられるのが特徴で、甘味と酸味のバランスがほどよく香りも良い。
口の中いっぱいにジューシーな味が広がるので幸せになる。
ミカンの王様と言っても過言ではないだろう。
今年も愛媛の池内農園に不知火(デコポン)をメールで注文した。
池内農園の奥さんである池内さんはメル友でもある。
昼間メールで注文するとその日の夜にメールで返事がきた。
>不知火のご注文を頂きまして、ありがとうございます。
>3月8日の午前中に着くようにに発送させていただきます。
>>金額をお知らせしておきます。
>ハウス不知火5キロ家庭用2,500円
>送料800円で合計金額が3,300円になります。
>振替用紙を入れさせていただきます。
>発送時にはメールにてお知らせいたします。
ハウス不知火の贈答用は、5キロ20個入で3.500円だったので、
安い家庭用の20個入2.500円のを嫁いだ娘たちの分と三箱頼んだのである。
池内農園ではデコポンのことを不知火と呼んでいる。
形と味と香りがデコポンのそれであれば、金さんにとって名前はどちらでもいい。
甘い中にほのかな酸味が口の中いっぱいに広がるのがたまらない。
3月8日の土曜日の朝、日通のペリカン便で不知火(デコポン)が届いた。
いらい、毎日あの味を楽しんでいる。
※ 池内農園のホームページ
◇ 先日の中学生からメールが届いた 2003.2.13(木)
金さんの返事に対するお礼とその後のお父さんの様子が書いてあった。
ある日突然、家族が脳卒中(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞など)で倒れてどうしていいかわからない人は多い。
『車椅子の視線から』のホームページを公開しているおかげで、そういう人にちょっとしたアドバイスをしてあげることができる。
メールの返事を書くのに中には丸一日かかることもあるが、少しは人の役に立っていると思うと疲れない。
それどころか自分も元気をもらうので、こちらがお礼が言いたいくらいである。
返事に対する中学生からのお礼のメール
「その日は本当にショックでしたが、この病気にかかっても、
元気に暮らしている方も全国には、たくさんいるということを知って、少し勇気と希望がわいてきました。
これからは家族皆で協力して頑張っていきます!! 本当にありがとうございました。」
その三日後に再び嬉しいメールが届いた。お父さんが口から食事がとれるようになったと書いてあった。
お母さんが食べさせてあげたプリンが美味しかったらしく『プリン、プリン』と何回も言っていたという。
「食事がとれるようになったのでよかったです。 これからの回復が楽しみです。」
とも書いてあった。
脳卒中(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞など)で倒れる人は今も多い。
がん、心臓病とともに、日本人の三大死因といわれているのだから無理もないと思う。
ただ、かつては死因のトップだった脳卒中が、医療の進歩などによりだんだん減少して、
現在ではがん、心臓病についで3位になっているいう。
助かっても金さんのように後遺症が残って車椅子生活になる人る人もいるのだから、
そういう人やご家族のために、これからもお役に立つことができれば嬉しいと思う。
昨日の朝、パソコンを立ち上げてメールをチェックしていると、
何通か来ているメールの中に、中学2年生の女生徒からのメールが混じっていた。
彼女のお父さんが脳出血で倒れ入院して手術を受けたという。
脳出血のことが良くわからないので、これからどうなるか不安のようであった。
これまでも、脳卒中(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞など)の患者さんの配偶者などから
メールはたくさんもらっているが、中学生からのメールは初めてである。
日本でもパソコンやインターネットが急速に普及している。
中学生からのメールを読んで、インターネットで情報を集める時代が
わが国の家庭でも当たり前のことになっていることを実感した。
いま思い出すと、金さんが一回目の脳出血で倒れたとき(1985年)は43歳であった。
長女は中学二年生、次女が小学生、長男はまだ保育園と3人の子供もいた。
いまのように、インターネットで情報を集めることなど考えられない時代だったから、
妻や子供たちは、お父さんが脳出血で倒れ救急車で病院に運ばれたと聞いて
どんな気持ちだったのだろうか?
脳出血と言えば死亡率の高い病気だということぐらいしか知らないのだから、
たまらないほど不安だったに違いない。
そんな自分の、一回目の脳出血のことを思い浮かべながら、
中学生からのメールを何度も繰り返して読んだ。
>初めまして。私は○○県に住む、中学2年の女子で、○○と申します。
>実は今月の○日に私の父が職場で倒れ、救急車で病院へ運ばれました。
>診断結果は脳出血でした。
>その日、私は習い事があったので帰宅したのが午後9時過ぎでした。
>普段は父、母、弟と私の4人家族なんですが、その日は私の祖父母と叔父が家にいて
>父が運ばれたことを知らされました。
>母は病院に付き添っていたので、その夜は祖母が家に泊まりました。
>次の日、病院に行って見ると父はベットに横たわっていました。
>左の脳から出血していたらしく、右手足の麻痺、言葉が喋れなくなっていました。
>ただ、喋りかけると、目を開けてこっちを見るのですが、なんにも喋られない父の姿
>には涙するしかありませんでした。
>でも左手を握ると握り返してきました。父は泣いていました。
>私はただ見ているだけけで、なにもしてあげられない自分と、ベットに横たわっている
>父の姿を見て声をあげて泣いているだけしかできませんでした。
>そして今日のCTの結果、手術になり、なんとか無事に終わったらしいです。
・・・ 中略 ・・・
>父が脳出血で倒れた今、母は毎日泊まりきりだし弟はまだ小学生なので
>なにかと寂しい思いをしています。
>それでこの病気についてこちらのHPを知ったのでメールしました。
>これからどうなるのかは、まってくわかりません。
>私も期末テストが近いのですが、勉強なんてとても手につきません。
>この病気について、まだまだなにも知らないことがたくさんあります。
>もし、よろしければお返事もらえるとありがたいです。
このメールをもらって、
金さんは午後まで考えて返事を書いた。
○○さん、メール拝見しました。
お父さんが、脳出血で入院中とのことお見舞い申し上げます。
元気なお父さんが、ある日突然脳出血で倒れ手足に麻痺があって歩けない、
言葉もしゃべれなくなって病院のベッドに横たわっている。
びっくりされたでしょう。
貴女は中学2年生、いま大変な経験をされていると思います。
確かに脳出血は、ガン、心臓病と並んで日本では亡くなる率が高い
3大疾患と言われています。
でも、助かる人の方がその二倍も多いのです。
お父さんは病院に運ばれ手術も終わって助かったのですね。
出血した場所が、手術ができるところで良かったと思います。
後遺症の手足の麻痺と言語障害は、病院で手術の回復を見ながら
リハビリテーションをやることになると思います。
脳出血の後遺症で片マヒになった人でも、
リハビリを頑張って職場復帰した人は金さんの他にもたくさんいます。
金さんが一回目の脳出血で倒れたのが43歳、
長女が○○さんと同じく中学2年生の時でした。
ほかに次女が小学生、長男が保育園だったので、
おばあちゃんと長女が協力して家のことをやってくれました。
お父さんも、リハビリをやってきっと元気になりますよ。
ただ、「リハビリをすれば元通りに良くなる」と誤解している人が多いのですが、
リハビリで完全に元に戻るわけではありません。
手足の麻痺などの後遺症はリハビリである程度回復することも多いのですが、
それでも、回復しないで不自由なところが残ることも多いのです。
後遺症で失われてしまった機能(働き)を、いろいろな形で補うことで
家庭や社会(職場など)への復帰の手助けをするのがリハビリテーションなのです。
○○さん、元気を出してください。
家族の元気で頑張る姿が、お父さんにも伝わって
お父さんも、リハビリを頑張ってくれると思います。
脳出血は、なりたくてなる人は誰もいない。
だが、40代、50代と働き盛りの人が多いのがやりきれない。
金さんが一回目の脳出血で倒れたのも、長女が中学2年生の時だった。
中学生からのメールを読んで、あのときの長女の気持ちが思い出された。
金さんが病院のベッドの中で家族のことを心配していたのと同じように、
長女もまた、金さんや家族のことを心配し悩んでいたのだ。
家の大黒柱が病気で倒れると家族は誰も皆大変な思いをする。
金さんも一回目の脳出血の時は杖をついて復職できたが、9年後に再び脳出血で倒れた。
幸い、この時も命を取り留めることができたが、
今度は後遺症で車椅子生活を余儀なくされている。
それでも、車椅子で復職もできて、5年勤めることができた。
退職後は、田舎でこうして元気に車椅子生活でインターネットライフを楽しんでいる。
これも妻や子供たち家族が支えてくれたからだと感謝している。
昨日一日がかりで中学生に返事を書いて送った。
中学生のお父さんも、リハビリテーションができるようになり、
元気になって家に帰れる日が来ることを願っている。
NHKがテレビの本放送を開始してから今年で50年だという。
今ではほとんどの家で無くてはならないものになっているテレビが、案外その歴史が新しいのにの驚いている。
金さんがテレビを楽しみはじめたのは、長野から東京に出て来てからだった。
昭和37年に上京しているから、多分その翌年か翌々年からだったと思う。
青春時代の長野にいる頃からテレビのことは知っていたし、高校時代には長野県の高校生の弁論大会に優勝して
学校賞にテレビを貰ったこともあった。だが、知ってはいたが、テレビ放送を見た記憶がない。
昼間、目一杯働いて夜は定時制高校に通うという、時間もお金も余裕のない生活をしていたので、
テレビの放送を見たことがなかったのである。
高校卒業後、東京に出てきて木賃アパートの八畳一間を格安で借り、兄と姉の3人で暮らすようになって、
ようやく月賦でテレビを買ったのが最初である。
当時はやりの四本足が付いているテレビだった。
初めてのテレビには苦い思い出がある。
借りていたアパートは港区の慶応大学のそばにあり、隣がパンの工場だった。
寒い冬のある日、その工場から出火したのである。ちょうど大学の期末試験の真っ最中だった。
普段勉強をあまりしていなかったので、試験の期間中だけ夜遅くまで勉強していたので、気づくのが早かった。
一時か二時頃だったと思う。
「パチ パチ」という音がして窓の外が明るくなった。
人の騒ぐ声も聞こえてきた。
火事らしい! 急いで寝ていた兄と姉を起こした。
兄は、若い頃、年季奉公していた建具の親方のところで火事を経験していたので、落ち着いている。
着替えてテレビを持ち出せと言った。
姉にはミシンを持ち出すようにと言った。どちらも、まだ買ったばかりである。
試験中だから大学で使う本と筆記用具を一式をカバンに入れ、学生服を着た。靴下をはくのが間に合わないと
思ったので、学生服のポケットに入れた。
四本足が付いているテレビをそのまま持ち出そうとすると、「テレビの足を外して持って出ろ!」と兄が言う。
仕方がないので、大急ぎで四本ある足を一本一本回して外した。
その頃にはもう、火の粉がアパートにも入ってきた。
間もなく、消防自動車のサイレンの音が近づいてきた。
姉は買ったばかりのミシンを抱いて先に表に逃げていた。
火の粉は部屋の中まで入ってきたが、消防車の放水も始まっていた。
火元のパン工場に放水する前に、アパートなどの回りに放水している。延焼を防ぐためらしい。
兄が表に放り投げた布団の上を、消防士とホースが無情にも踏み荒らしていた。
テレビの足を三本外したところで、「危ないからもう逃げた方がいい!」と兄が言うので、
三本外して座りの悪くなったテレビを抱いて表に逃げた。
兄弟三人は、持ち出したテレビとミシンを囲んで、アパートから少し離れた路上で燃えさかる炎を見ていた。
二時間くらい経っただろうか? 鎮火したのでアパートに戻れることになった。
困ったのはテレビもミシンも重かったことである。
特に、姉は自分で持ち出したミシンを自分で運び入れることができなかった。
「火事場の馬鹿力」が本当にあることをこの時知った。
遠くで燃えさかる炎を見て、もう燃えてしまったと思ったアパートは無事だった。
火元のパン工場は燃えてしまっていたが、延焼は免れたのである。
結局、部屋に置いて逃げたものは何ともなかったが、表に出した布団だけが使い物にならなくなった。
もちろん、苦労して運び出したテレビとミシンは無事だった。
火事見舞いにお酒が一升配られた記憶がある。
四肢麻痺で車椅子生活をしていると何をするにも動きが遅くスローモーションになる。
介護用のベッドを使っているので、車椅子からベッドへの移動とベッドから車椅子への移動はなんとか一人でできる。
できるのだが、ベッドから車椅子への移動や、車椅子から食堂の椅子への移動、パソコンを使う書斎の椅子への移動なども
スローモーションでずいぶん時間がかかる。
いくら気持ちだけ急いでいても、麻痺のある手足が言うことを聞いてくれないのだから仕方がない。
この頃では、達観してマイペースでやっているので、そのために間に合わなくてもくよくよしなくなった。
例えば一人でいるときの昼寝の時間に、時々誰かが玄関で呼び鈴を押す音に目覚めることがある。
応答するのには、起きてベッドから車椅子に移ってインターホンの場所まで行かなければならない。 はじめは何度かそれを
やってみたがインターホンの応答がなかった。
応答が遅いので帰ってしまったらしい。それ以来、昼寝の時間はインターホンがなっても、そのままにしておくようにしている。
もし、宅配だったら不在連絡の紙がポストにいれてあるし、近所の人のお使いだったら時間をおいてまた来てくれる。
退職して九ヶ月過ぎた一昨年暮れに介護保険の介護認定をしてもらった。
そのおかげで昨年二月から介護保険の居宅介護サービスをしてもらっている。それでも、訪問介護サービスをしてもらうのが
平日の昼食と夕方の早い夕食の時間なので、妻が勤めている平日の朝は忙しい。
遠距離通勤の妻の出勤にあわせて一緒に朝食を食べるようにしているので、あまりゆっくりはできない。
そのため、毎朝の着替えは妻に手伝ってもらている。
着替えてから車椅子で食堂に行き妻と一緒に朝食を食べる。
息子は交代勤務なので、朝食のときいたりいなかったり不規則だ。
たいていは妻と二人で朝食をとる。
年末年始の九連休が今日で終わり、明日から妻の勤めが始まる。 2003年はどんな年になるのだろう!
「あなたはスローモーションライフ、わたしはスローライフ」と妻が笑いながらいう。
今年は、スローライフで行こう!と妻がいうので、春になるのが楽しみである。
今年のお正月は静かなお正月になった。
そのおかげで、お正月とダブルので例年忘れがちな妻の誕生日を子供たちと祝うことができた。
お昼過ぎに長女夫婦、続いて次女夫婦がやってきた。
バースデイケーキを土産に持っている。
仏壇のおばあちゃんにもあげて、家族だけの誕生祝いができた。
その後で、「落ち葉を集めて焼き芋がしたい!」という娘たちの希望で焼き芋をすることになった。
風が少し出ている。
古い農家だったので、わが家の屋敷林は落ち葉がたくさんある。
昔と違い、落ち葉も使うことが少なくなったので、焼き芋にするぐらいの落ち葉はすぐに集められるという。
部屋から見ていると、田んぼに落ち葉を運んでいる。
若者が何人もいるのでやることが早い。
そのうちに煙が上がって焼き芋が始まった。
家族で焼き芋が楽しめる。 なんとのどかな、カントリーライフなのだろう!