(1997年 秋)
私は三年前から車椅子を使っている。
けれども、
いつの日か再び自分の足で街を歩きたいと思っている。
それが果たして可能なことなのか?
それとも、かなわぬ夢なのか?
もし可能なことなら、
そのためにあとどのくらい頑張ればいいのか?
それは・・・今のところ自分には全くわからない。
でも、目標だけは持ち続けたいと思っている。
その目標に向かって、あせらず、一歩一歩進んでいこうと思う。
「国際障害者の十年」(1983〜1992年)が終了してから早くも5年が過ぎようとしている。そのころから「ノーマライゼーション」という言葉が多く使われるようになり、施策の面でも、障害者、高齢者向けの施策が少しずつ充実してきた。
けれども、私は障害者を取り巻く日本の環境は、根本的にはそれほど大きく変わってはいないように思う。毎日、車椅子の生活をしていてそのことを痛切に感じている。
それはなぜだろうか?
私は、人々の「心」の問題だと思う。日本が経済的に豊かになったといっても、それにともなって人々の心の豊かさがそれに追いついていないからだ。今問題になっている「地球の温暖化」や「介護保険法」の議論をみていてもそれを感じる。
だから、「ノーマライゼーション」という、言葉の意味を理解すればごく当たり前のことが、人々の間になかなかひろがりをもたないのだろう。
今日本は、「少子高齢社会」といわれている。高齢化が進むと、障害を持つ人も確実に増えてくるといわれる。障害者も、高齢者も、健常者と同じように行動したいのだ。「外に出たい」「外で働きたい」と思っている人がいっぱいいることを忘れないでほしい。外にでたいという気持ちは、同じ人間として当然のことだと思う。そういうささやかな願いを少しでも実現するためには、「バリアフリーの環境」の実現が欠かせない。
私は幸い多くの人の応援で職場に復帰することができたが、それでも職場までは毎日娘に車椅子で送ってもらっている。今住んでいるマンションも、エレベーターの広さやボタンの位置の問題、入り口の段差の問題、トイレや風呂の段差の問題などがあり、娘の介護がなければ一人ではとうてい暮らしていけない。通勤に使っている歩道も1年前から工事中ででこぼこだらけだ。
街にもビルにもあまりにも「バリア」が多すぎる。「高齢者も若者も、障害者もそうでない者も、すべて人間として普通の生活を送るため、ともに暮らしともに生きてゆける社会こそがノーマルな社会」と言えるとすれば、日本は、ノーマルな社会にはまだまだほど遠いのが現状だ。そうした社会の実現には、人々の心がそれを当然のことと受け止めるようになることが必要だろう。
そんな当たり前の社会の実現を目指して、私も社会の片隅から小さな声をあげていきたいと思う。
(1997年 秋)