私は1994年に二回目の脳出血で倒れたとき二年間休職しました。 入院して懸命にリハビリをやりましたが四肢マヒの改善が思わしくありません。退院が決まっても車椅子が手放せないのです。その時「もしかしたら一生車椅子の生活になるかも知れない!」と焦りましたね。 その当時東京都で管理職をしていた私の一番の関心事が職場復帰でした。しかし、四肢マヒで歩けないだけでなく言語障害の後遺症もあるので電話にも出られない私は不安でいっぱいでした。ですから、退院後に家で復職の知らせを待って一人でいるときは孤独感に襲われていました。「このままで果たして復職できるだろうか?」と不安は募るばかりでした。 幸運だったのは、その後友人に勧められて東京都リハビリテーション病院に入院したことです。この病院に入院してリハビリをしたおかげで、心に残っていた車椅子の生活へのわだかまりが消えました。それからは車椅子の生活になったときの生き方を、前向きに模索するようになったのです。 幸運はそれだけではありませんでした。ちょうどその頃(1995年暮れ)日本でWindows 95パソコンが売り出され病院でも購入していたのです。病院で私の担当だった理学療法士(PT)に実物を見せてもらったとき私の心に閃くモノがありました。 退院(1996年2月)した私は、妻にWindows 95パソコンを買ってもらい一人で特訓を始めました。四肢マヒですから、両手が思うように動きません。困ったのは「Ctrl」キーと「Alt」キー、「Delete」キーの3つを同時に押すことでした。パソコンがフリーズ(凍る、固まる)して困った私は、妻が勤めから帰るのを待って手伝ってもらったこともあります。 他にも人に言えないような苦労がいろいろありましたが、やがてパソコンに慣れて何とか使えるようになりインターネットもできるようになりました。 インターネットを利用してみて「これからはパソコンを使ってコミュニケーションができるかも知れない!」と心の底からゾクゾクするような興奮が湧いてきました。 その頃、検索エンジンで脳出血関連のホームページを探してみましたが専門家のモノばかりで実際に脳出血になったひとのモノが見つかりません。そこで「それなら自分でHPをつくってみよう」と思ったのです。 参考になりそうな本を数冊読んで苦労してホームページを立ち上げると、予感した通りに双方向の情報交換が始まったのです。車椅子の生活になった時「コミュニケーション」をどうするか?が最大の課題だったので、この時は嬉しかったですね! ホームページを立ち上げると、中国地方の看護婦さんが「掲示板を作ろうよ」とメールで勧めてくれました。それがレンタルの掲示板(BBS)を付けた始まりです。 掲示板を付けてから、メールと掲示板で友人の輪が広がっていき嬉しかったですね。 タイトルの『車椅子の視線から』とサブタイトルの『脳出血から二度生還して』が、 見てくれる人の注目を集めたのでしょうか? ホームページを作ってから、ホームページによる情報提供や、メールや掲示板へのていねいな返事が、他の人のためになっているがわかり、ささやかなボランティアになっていることを知りました。そして、車椅子生活の私に「インターネットによるボランティア」という念願だった生きがいを与えてくれたのです。 私にとってまったく予想外のことで嬉しかったのは、『車椅子の視線から』のホームページを立ち上げた頃から、脳卒中の体験者や家族にホームページを作る動きが広まってきたことです。 今では検索エンジンで検索するとそういうホームページがたくさん見つかるようになりました。 年々増えていく脳卒中の体験者や家族のホームページをみると、苦労してパイオニアの役割を果たした甲斐があったと内心喜んでいます。 私は、家族と東京都の友人、先輩、病院の医師、看護師、理学療法士(PT)、作業療法士(OT)などの皆さんのおかげで、1996年復職の夢も実現できました。 2001年3月に東京都を退職して自由人になったので、これからは、自分にできる範囲で社会に恩返しをしていきたいと思います。 今、つくづく思うことは、個人がインターネットを使える時代に脳出血で倒れ車椅子の生活になったのは、私にとって幸運だったということです。 |