◇ 渡瀬遊水池 9月28日 (火)
今年は台風が例年に比べて多い。しかも大型で台風の進路にあたった地方では大きな災害が報じられている。
私の住むここ関東も昭和22年のカスリン台風で利根川と渡良瀬川の決壊により大きな被害を受けた。当時私は3歳だったが、利根川が決壊し濁流となった水が渦を巻いて押し寄せてきて家の床上まで浸水したときの恐ろしさを、断片的であるが覚えている。
9月28日は久しぶりにお天気に恵まれたので主人とドライブに出かけた。
家から10キロほどの所にある渡瀬遊水池に行ってみようと言うことになった。
近くてもなかなか行く機会がなく二人とも初めてである。
渡良瀬遊水池は谷中湖といって群馬、埼玉、栃木、茨城の県境に位置している。
渡良瀬遊水池の堤から見渡すと青い空がどこまでも続き、遠くに山並みが見える。
堰堤を主人の車椅子を押しながらのんびり歩いた。
赤とんぼが飛び交いサイクリングする人や犬と散歩する人など
それぞれの楽しみ方をしていた。
ここは10月23日から始まる秋の国体のセーリング会場にもなっているそうだ。
※参考
渡良瀬遊水池には農民の悲惨な鉱毒反対運動の沿革がかくされている。
栃木県足尾町で銅が産出するのは江戸時代から知られていたが、渡良瀬川の上流にあたる足尾町で1880年代年までに大鉱脈が発見され足尾は東アジア一の銅の産地となった。
銅は当時の日本の輸出品となったが、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は亜硫酸ガス)と鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)により付近の環境は公害の大きな被害を受け苦しんでいた。
鉱毒による被害は、はじめ渡良瀬川の魚が大量に死ぬという形で現れた。次いで渡良瀬川から取水する田んぼや、洪水によって足尾から流れでた土砂が堆積した田んぼで、稲が立ち枯れるという被害が続出したという。これに怒った農民らが数度に渡り鉱毒反対運動に蜂起した。このときの農民運動の中心人物として田中正造(1841―1913)が有名である。
足尾銅山の鉱毒による被害が大きくなり、農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、政府は栃木県下都賀郡谷中村の全域を買収してこの地に鉱毒を沈殿する遊水池を作る計画を立てたのが渡良瀬遊水池のはじまりだという。
谷中村は全域が強制買収され1906年に廃村となった。政府はこの地を堤防で囲い、遊水池とした。ただし、この場所には通常は水はなく、大雨のときに水がためられるしくみであった。この地に調整池を作る計画があったが第二次世界大戦で中断されていた。
1963年から1998年にかけて全域を堤防で囲う工事が行われほぼ現在の形となった。その後、1990年に第一貯水池である渡良瀬貯水池(谷中湖)が造成されたという。
※渡良瀬遊水池公式ホームページ
◇ ようやく余裕 8月26日(水)
退職して二年目になる今年はもっとゆとりのある生活が出来るはずだった。
夫と二人のんびり過ごす終の棲家を作ろうと、昨年春に物置にしていた古い家の取り壊しを開始してから二年になる。
農地特有のいろいろ難しい条件から建築の許可が下りるまで時間がかかり、建築の着工が遅れてやっと6月の初めに
バリアフリーの小さな家が完成した。
まだ住み始めたばかりであるが、住心地は上々で
この夏の暑さも苦にならず極楽・極楽!
荷物の整理も一段落しやっと机に向かう余裕も出てきた。
窓から見える畑や田んぼはすっかり秋の気配を帯び、色づいた稲穂が
重そうに頭を垂れ刈り取りまでの時間を静かに待っている。
秋野菜の種まきやサツマイモの収穫など畑仕事も忙しくなるけど、
私の一番好きな秋。
読書や旅行や友人達との会食もいいなあ。
◇ お盆の支度 8月10日(火)
我が家にはお墓が2カ所ある。
一つは代々の跡取り夫婦が入り、もう一つには幼くして亡くなった子供たちが入ったそうだ。
土葬だった昔はやむを得ないのかもしれないが、封建的な家制度の象徴のような気がする。
毎年、お盆を迎える準備として青竹を切って線香立てを作っている。
お墓2カ所分の線香立ての数は50本を超え暑いさなかには重労働である。
そのためもあり数年前に屋敷内にある本墓は改墓し石造りの線香立てにしたので、
それ以降26本作れば良くなったので大分楽になった。
それでも私が勤めていた頃はなかなか時間がとれず、迎え盆の日にやっと出来た時もあった。 今年は早々に掃除と線香立ての取り替えを済ませた。
忙しい現代、だんだん古来からの風習は薄れていくがそれも無理はない。
苔むした墓石に先人の確かに生きていた証が刻まれている。
子や孫の時代がもっと暮らしよい社会であって欲しいと願いつつ、
田や畑を耕し静かに自分の役目を果たして消えていったのだろう。
誰もいないお墓にしばし佇んで遙か昔の風景に思いを馳せている。
※ 跡取り:家のあとを継ぐ人。あとつぎ。
※ 迎え盆の日:8月13日
※ 写真右は外墓
◇ 子育て真っ最中(?) 8月 9日(月)
田んぼの見回りをした帰りまだよく歩けない子猫が「ミヤー ミヤー」と草むらで鳴いているのを見つけた。
カンカン照りの暑い日だった。
私の姿を見つけるとヨチヨチと必死に歩いてきた。
可愛いのと可哀想なのと一緒になり、思わず家に連れ帰って牛乳を与えると
よほど喉が渇いていたのかピチャピチャと飲み干した。
わが家には、すでに猫が2匹、犬が3匹いるので夫や息子は「もうこれ以上飼えないぞ」と
言うが、あのまま見過ごしてくることは出来なかった。
日に日に大きく元気になる子猫を見て、夫も息子ももう我が家のペットの一員として認めているようだ。