1998年
天皇誕生日の今日、主人は週の半ばなので自宅に帰らず東京のマンションに1人で居ると言う。夕方次女が勤めから帰るまで私が行く事にした。
12月だというのに穏やかで暖かい。長女夫婦を誘ってインド料理を食べに行った。私にとっては久しぶりにゆったりとした時間がながれた。出勤した次女からは、私たちにもクリスマスのプレゼントが置かれていた。
私は夕食の準備をし、次女にメッセージを残して帰路についた。
「Dear. M. クリスマスプレゼントどうも有り難う。お母さんの好きなワインでしょう。ラッピングが勿体ないのでお正月まで飾って置くことにします。
メッセージカードだけ読みました。お父さんと見せあって読みました。
ジーンとして涙がこぼれました。子供達がだんだん大人になって行くのを感じて嬉しくなりました。お父さんが病気して失ったものがいろいろあったけど、反面多くの事を学びましたよね。
人生にはいろいろな事が起こります。1日として同じ日は有りません。「今」を大切にしていきましょう。ありがとう!!」
「課外授業
ようこそ先輩」NHKの番組である。
各界で活躍している先輩が先生となり、後輩の小学生と課外授業を通して何かを学ぶというものである。
私は、子供たちの生き生きした顔が嬉しくて時間の許す限り見てしまう。
時間割にある授業と違って未知のものへの興味がそうさせるのだろう。
みんなでテーマを決めて個人であるいはグループでアイデアを出し合い失敗しながら作り上げて行く。
自信のなかった子も、仲間に支えられて堂々と発表するまでになる。
ある先輩先生が言っていたことが印象に残った。
「今はビデオやCDでいつでも好きな映画をみたり音楽を聞く事が出来るようになった。それはそれで大変便利で良い事だけれども、踊ったり、演奏したりすることは、一度として同じには出来ない。ビデオやCDのようには行かない。日々精進です。」
人生も毎日違う毎日である。
朝のぎゅう・ぎゅうで身動きできない通勤電車でのこと。
≪ガク≫急ブレーキがかかった。
「イタツ!!」思わず声が出た。「ゴメンナサイ!!」同時に二人の女性の声、
「??二人に踏まれたのかしら?」道理で痛かった。しかし、爽やかだった。
良く電車や駅で喧嘩をしている男の人を見掛けるが、踏んだ・踏まれたの類のようだ。血の気の多い若者だけでなく分別のある中年族までいる。一言謝ったり、故意に踏んづけた訳ではないのだから許す心のゆとりがあっても良さそうだ。世の中そんな事より本当に怒るべき事と言うのは他にあるはずだ。
その点、女性のほうがこころが広いのか、冷静なのか、ストレスがないのか・・?
母のリハビリに付き合って号令を掛けながら立ち上がり訓練の手助けした。
口ばかり達者で一向に身体が付いて来ない。午前中の訓練が終わり、後はランチタイム。
廊下で顔見知りの老夫婦に会った。おばあちゃんのほうが心臓が悪く救急車で運び込まれて九死に一生を得、時々診察に来ているとの事。
今は老夫婦二人で生活しているが、近くに住む長男が面倒を見てくれるそうだ。
「今日も送ってくれると言ったが、夜勤あけなのでタクシーで来ました」
「若い者ばかりに負担は掛けられないですよ」
と70歳をとうに過ぎていると見受けられるお二人は穏やかな顔で話している。その翁・媼のような風貌に畏敬の念を抱くと共に迫り来る自分の老後を考え合わせるととても他人ごとではない。介護保険法が制定されたがその実行となるといろいろ問題も生じて来るだろう。物や金だけで解決出来るものではない。
何と言っても介護をする方も介護を受ける方もお金に換算出来ない人間のこころが必要なのだから。
入院当初4〜6ヶ月位と説明を受けた母の入院も6ヶ月が過ぎた。
ギブスを外して4ヶ月、リハビリに励んでいるが遅々として一向に歩ける気配がない。
84歳という年齢を考えると仕方がないのかな?とも思うのだが、同年代の人でもゆっくりではあるが杖で歩けるようになって退院して行く。この違いは何だろう?
「普通は、もう歩けても良いんだけどね。貴方まかせの処があって自分で立とうと言う気が無いんだよね」
とリハビリの先生。
顔を見る度励ましたり、煽てたり、やる気が起きるように仕向けるのだが、効果がない。
母の場合、大正デモクラシーの豊かな時代に生まれ育って、「自立」と言うものが欠けているのかも知れない。戦中戦後大変な時代もあったが自分で生き抜いてきたと言うより回りの人々に助けられて生きて来られた幸せ傾向がある。
しかし、リハビリに関しては、「自立」以外には効果が上がらないだろう。
町の文化展に行って来た。会場の入り口には懸崖作りの菊の出品がされている。
会場には、写真・書・絵画・生け花等いろいろな作品が展示されていた。力強い筆はこびや繊細な墨のぼか し具合などすばらしい作品ばかりである。出品者は小学生から年配の方まで幅ひろい。日常、忙しい合間に 精神を統一して精進する姿が想像できる。
「ああ〜いいなあ〜」
午後、主人と日本橋三越に“内山芳彦洋画展”を見に行って来た。
内山芳彦先生は主人の中学時代の恩師の息子さんで、恩師から直々案内状が送られてきた。もともと絵画の好きな主人は、鑑賞の楽しみと共にもしかしたら恩師が故郷の長野から上京されているかもしれないと期待して出掛けた。あいにく、その日恩師は会場に来ておらず、お会いできなかった。「70歳を過ぎているので 「新幹線が出来て便利になったが、階段がしんどい、もう、あまり来られないなあ〜」と言ってました」と芳彦先生。恩師も在京の教え子達に会える事を楽しみにしていたようだ。恩師に会えず残念だったが、芳彦先生の清新さを感じさせる100号の大作にしばし見とれた。
人生ってわらないものだとつくづく思った。
希望に燃えた若い先生が体操の指導中に不慮の事故にあい手足の自由を失う・・着任後僅か二ヶ月のことである。一瞬にして奪われた手足の自由・・その時の絶望は容易に想像できる。
おそらく、星野さんは、この事故がなければ、生徒たちと思う存分走り・跳び・笑う活発な、違う人生を過ごしたに違いない。
星野冨弘さんがこの怪我の療養のなかで描き綴った詩画を展示している美術館に行ってきた。その詩画は素朴な草花のなかに「生ている今」を見つめ、観る者に勇気と忘れかけた人間の優しさを思い出させてくれる。
今、自然がいっぱいの故郷に戻って療養の傍ら詩画を書く日々を過ごしているそうであるが、星野さんにとって子供の頃から見慣れた故郷の山や川や草花があるから、新しい人生への発見や「明日」への挑戦が沸いてくるのだろうと思った。
(枕丁花)
真っ赤に色付いた柿をみて思い出したことがある。
25年も前になるが最初に主人が高血圧性脳症(一過性脳虚血症?)で入院したときのことである。
9月のはじめ頃なのにどうしても柿が食べたいといってだだをこねる。
まだはしりの時期だったので、当時でも一個400円だったか600円だったか相当高かった。デパートの果物うりばを回ってやっとみつけたその柿を食べて主人は一言「うまくない!」と言った。
今、庭の柿の木から、もいだばかりの柿をむくと、真っ黒に「ゴマ」が入って甘くシャリ、シャリと歯ざわりもさわやかである。
「これ美味しいね。覚えてる?あのときのこと。」と私「わがまま言ったんだよね。あの時は」主人も覚えているらしい。
今朝は早くから花火の音があちこちから聞こえ、小学校や中学校の運動会のようである。久しぶりにすがすがしく晴れて絶好の運動会日和である。この頃は運動会も縁がなくなって(3人の子供で十何年も運動会に行ったことになる)ホットした面もあるが、子供たちの徒競走に一喜一憂したり、父兄の参加種目の「借り物競争」では一年に一度のこと、気ばかり焦って走り出して3歩ほどで転んだ記憶が苦々しくも懐かしく思い出されたりして、やっぱりい寂しい気がする。
東京のマンションは春日通りに面している。
春日通りは拡張工事が進められていて、その工事中(2年以上)は週末に主人をマンションへ迎えにいく時に、うまい具合に停車スペースが確保出来た。早朝いつものように行ってみると工事が終了していてきれいに整備され、停車するスペースなど何処にもない。「こまったぞ!!」車を一時停車させて、途方に暮れていると、顔見知りのマンション1階の薬局の主人が出てきて、自分の店の前の駐車場に入れて良いと言う。今は自分のところで駐車場として使ってないからお店の開いている時間を除けば「どうぞお使い下さい」と言う。この土1升・金1升と言われる東京のど真ん中でこんな事ってあるのかな?と思わぬ申し出に嬉しくなった。
なんでも、私の車のナンバープレートからその方の出身と今私たちの住んでいる所が近くなのではないかと思っていたそうだ。
そして、懐かしそうにその辺りの様子を話していたが「両親が亡くなってからは、最近あまり行く機会が無くなった」とつぶやいた。
1週間ぶりに母の病室に顔を出す。感激して泣くかと思った母は、いたって平静な態度である。そう言えば他のベッドの人達もシーンとした感じでいつもと違っている。「どうしたの?変わりなかった?」「うん、・・急に変になって今運ばれた」と、向かい側のベッドを指さしている。
母よりずっと後から入院した60歳位の奥さんだが、やはり大腿骨の骨折だった。ギブスをとってから何日も経たないのに歩行器で歩き始め、若さにはかなわないと母をうらやましがらせた。
ところが、その奥さんは胃の調子が悪く食欲がないと言って、何でも食べてしまう母を感心しうらやんでいた。
夕べから急に様態が悪くなって酸素吸入したりして個室に移って行ったそうだ。私も長居しずらくなって洗濯物の入ったビニール袋2つをかかえて病室を後にした。
今朝は息子が早く出かけると聞いていたのでホテルから電話を入れてみる。
呼出音を鳴らし続けたが出る気配がない。寝坊せずに出かけたらしい。
夜マンションにかけてみた。
「グッド イブニング」
次女が出て「どうだった?」
「お母さんも英語習っておけば良かった」
「そうでしょう!」
短大在学中と短大を出てから1年間カリフォルニアに留学していた次女は我が意を得たりと言う風だった。
英語が好きで高校も英語コースに入り夏休みを利用してボストンに1ヶ月ホームステイした程だ。
次女が短大に入った4月に主人が倒れ、経済的にも精神的にもとても留学どころではなかったが、大学4年だった長女が「私に出来ることは何でも協力するから、行かせてあげたら」と申し出てくれたのでカリフォルニアに留学が実現した。若いうちでなければ出来ない事もあるのだから、今となっては良かったと思っている。
明日から、日曜日まで5日間台北へ出張する事になった。
家には、高3の息子だけになるので、お隣にも留守中のことをお願いした。「火の元だけは気をつけてね。何かあったら隣のおじさんに言うのよ・・」くどくど言う私に「ハイ ハイ ハイ・・」うんざり顔で返事している。私が言うのも変だが、息子は掃除、洗濯、料理、一応は無難にこなす。もっとも、料理は自分の好きな物しか作らないが・・今一番気に入ってるのは、ピーマン、もやし、キャベツ、人参の野菜炒めで、塩コショウで味付けしたものである。
息子がいればペットたちもマメに面倒見るし安心なのだが、問題は、入院中の母である。毎日顔を出していても寂びしがるのだから。
敬老の日で公休とも重なり久ぶりに帰ってきていた次女が、入院中の祖母にケーキを持って見舞った。同室の患者さんに「これが、何時も話してる次女で、優しいんだよ・・・」母はあとはうれし泣き。
孫達のなかで一番のおばあちゃんっ子で、おっとりとしていて母もとりわけお気に入りのようだ。
若い娘が居ると病室もそれだけで明るくなる。お茶を飲みながらお喋りが続く。
「この間の夜、お姉ちゃんに電話がかかってきたのよ『
YUさんいますか?』って、夜勤の次の日で寝ぼけてたので『
新しい電話番号を教えますからそちらにかけて下さい』って。長女夫婦の新居の電話番号を教えたそうだ。ところが、その電話は長女の夫からのもので、帰宅してみると長女がいなかったのでマンションのほうに行ってるかもしれないと、かけてきたものだった。長女の夫は、自分の声がまだ我が家の者に[登録]されていない事にショックを受けると共に何処へ行ったかわからぬ新妻を想って途方に暮れたに違いない。「そしたら30分ほどして、『○○ですけど、
YUさん行ってますか?』手を変えて聞いてきたのよ、さっきと同じ声・・さすがの私も焦ったわよ」ちなみに次女は、オペレーター、声を聞き分けるのは本職のはずなのに。
◇ ほっとした話 1998年 1998年 9月13日 日曜日
シーちゃんとクロの親子
末っ子の長男は、動物や観葉植物などが好きである。
狭い部屋に「パキラ」「幸福の木」そのほか名前のわからない鉢々が育てられている。
親猫の「シーちゃん」は、長男が小学生の頃、ゴミ捨て場で「ミャー
ミャー」鳴いていたのを拾ってきたもので、殊のほか可愛がっている。
今朝、家のすぐ近くの県道で自動車に轢かれている猫がいた。シーちゃんに似ている!
息子に声をかけてダンボール箱を持って行ってみると、隣の家のお兄ちゃんが埋めた直後だった。息子は家に帰ってからも部屋にこもってショボンとしている。しばらくして「しーちゃん!」という次女の声がした。シーちゃんはベランダで昼寝をしていたらしく、大きなあくびをして悠々と階段を降りてきた。その後ろから長男のはずむ足音が続いた。
めでたし!めでたし!
まだ3万円も残っているハイウエイカードを無くしてしまった。
車の中は勿論、家の引き出し、手提げバックも逆さにしてみたけど、見つからない。「無くなったものは仕方ない」と思って夫にも話すと「もうさんざん使ったんだろう」という。「3万円以上残ってたわよ!!」と私が答える。「俺もさあ、テレカの出始めに、出張先でテレカの使える公衆電話をわざわざ探してかけてみたんだよ。ところが慣れていないものだから、帰りにカードを取り忘れて置いてきてしまった!あれは悔しかったなあ!」といって笑っている。
新らし物好きの夫のこと、さも有りなんと同情も半分。
長女が結婚して3ヶ月になるが、私は嫁に出したと言う実感のないままで居た。電話で話したり、主人のマンションで会ったり、たまに嫁ぎ先の両親の処へ行った帰りに顔を見せたりするからだ。
ところが、先日、彼女達の住民票を見る機会があった。そこに、姓が変わっているのは当然として、本籍○○○と記載されていた。
私は、結婚しても姓も本籍地も変わらなかったので、本籍○○○とあることに一瞬釘づけになった。そして、30年もまえのことを思い出した。それは、主人の母(姑)が、自分の息子が、私の姓を名乗り、本籍地も移る事に大層気落ちしたということを聞いたことである。私は今、娘が我が家から独立し、新しい家庭を創ったことを実感し、今は亡き姑と同じ気持ちになった。
今年の気象は異常なのか台風の発生が極端に少ないそうだ。
今回の台風は、のろのろで、前線を刺激して各地に大きな被害をもたらしている。テレビ・新聞で見る各地の惨状は、改めて自然の恐ろしさを感じさせる。
今から50年程前、利根川が私の住む町で堤防が決壊し関東一円に大被害をもたらした「カスリーン台風」を思い出す。
利根川、渡良瀬川とあちこちの堤防が決壊し一面泥水の海と化した。
勢いのついた水が渦巻きながら押し寄せて、見る見る床上まで漬かってしまった。二階に昇る階段に掴まりながら(まだ小さくて階段を昇りきることが出来なかった)その恐ろしい光景を見ていたことだけを記憶している。いま、近くの決壊個所はカスリーン公園として整備され、
春は菜の花、秋はコスモスが咲き、格好のサイクリングコースとして親しまれている。
毎年、お盆やお彼岸には、我が家から独立した叔父やお嫁に行った叔母達が来てくれる。父の直ぐ下の弟も定期便のように必ず来てくれる。ところが、今年は来なかった。1週間後れでやって来て仏壇に線香をあげて帰っていったが、「俺も、年をとったよ」と言ったその寂しそうな後ろ姿がなぜか悲しかった。
私の知っている叔父は、活動的で、いつも新しいものに目を向け自信に満ちていた。昔の人にしては体格も立派で、60を過ぎてからヘリコプターに挑戦したり、80過ぎまで車の運転をしたり、早い時期にソーラーシステムを導入したりしていた。
私の母と同い年であるが、あまり前向きでない母とは会話が合わなかったようだ。
あんなに元気だった叔父も今は心臓にペースメーカーを埋め込んでいる。あと何回訪ねてくれるだろうか?彼らの実家を預かる者として
いつまでも暖かくもてなそうと思っている。
リハビリの為に始めた主人のホームページ掲載も半年を過ぎた。
凝り性の主人は、土・日のほとんど(?)をこの更新に費やしている。
また、このところインターネットの普及が急速に進みホームページを見た人からのメールも数多く寄せられて大いに気を良くしているようである。同病の志士であったり、海外に居る友人からだったり、リタイヤした先輩からだったり、と思わぬ訪問に感激している。
「重い後遺症にもかかわらず前向きに生きる貴兄の生き方に共感しメールを送りました。・・・輝いています。」 などど書かれていると、もうやめられないらしい。でも それでいいと私も思っている。リハビリにも相当効果があがっているように見えるからだ。
日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落してから14年目になるという。
あの年は暑い暑い夏だった。主人が丁度仕事の関係(当時東京都監察医務院にいた)で、収容作業と身元確認でまだ混乱している遺体の安置されている現場に行ってきた事を思い出した。大変な惨状だったそうだ。
年月は容赦なく過ぎて行くけれども、ご遺族の方達の想いは、その時点で止まっているのではないだろうか。鎮魂の灯籠のあかりが世の無常を物語っているようで更に悲しい。
連日、熱い戦いが繰り広げられている。
ニュースのダイジェスト版で見るくらいだが、今年も沢山の「怪物くん」がいるらしい。マウンドに立っている姿は、雄雄しく逞しく、とても高校生とは思えない程であるが、インタビューに応える汗まみれの顔はまさしく紅顔の美少年達だ。アルプススタンドの応援団共々太陽のしたで青春を謳歌し、勝っても負けても爽やかで健康そのものである。
一方少年非行が増加していると憂慮されているが、そういう子供達は何処で路に迷ってしまったのだろうか?
今年も、月おくれのお盆がやってくる。朝の涼しいうちにお墓の掃除を済ませることにした。雑草をむしったり青竹を切って作った線香立てを整えたりしていると、一人また一人とお墓の掃除にやってきた。「早いねー」「おはようございます しばらくですね」「おばあちゃん元気?」
声を掛け合いながらせっせと手を動かしている。皆一緒に小学校に通った仲間で子供の頃からよく知っているが、どこから見ても見事な中年になっている。
腰をかがめた後ろ姿が・・横顔が・・一服している頸のあたりが・・
皆それぞれの親とそくっりになっている。血は争えない。(これは古い言い方か、今風にいえば遺伝子のなせる技、ということかも!)
我が家も、8月13日には提灯を持ってご先祖を迎えに行く。提灯を持つのはいつからか長男の役目になった。一年に一度家族揃ってお迎えする。私はずっとこの風習が続くといいと思っている。
親から子へ、子から孫へ、脈脈と伝わって、今があるのだから・・。
カーラジオから、♪これが、私の生きるみち〜♪と流れてきた。
若い人はいいわねー悲壮感がなくて。「これが、私の生きるみちーか!」と自分の今の生活を思いやった。大なり小なりみんな悩みを抱えている。
私たちのような中高年になると、老親のこと、自身の健康のこと、老後のこと、子供のこと・・種は尽きない。
主人が入院していた時お世話になった婦長さんから退職した旨の手紙がとどいた。家庭の事情のようである。いつもはつらつとして、私たちを元気付けてくれた。その後、他の病院に異動し、看護課長として若い看護婦さんたちを指導し先頭にたって患者のために尽くされていると聞いていた。いま、家庭人として、その経験が生かされている事だろう。
私も何年かして、現役を退いたとき何が出来るのだろうか?何が残るのだろうか?
楽天的な私もいつになく考えてしまった。
先日、ジャガイモを届けた知人からサッポロラーメンが送られてきた。
ご主人の故郷が北海道だそうである。お湯を沸かし、ねぎを刻み、早速、息子といただいた。息子は、カップ麺の容器の安全性の問題が話題になってから、大好きだったお手軽おやつのヌードル類を食べなくなった。久しぶりの「本格中華??」に満足そうである。
そういえば、この頃、環境問題にも私よりうるさい。
毎朝寄る母の病室で、「家から救急箱持ってきて」・・何するの?・・「傷の手当するのよ」・・病院なんだから看護婦さんに頼みなさいよ・・「お金持ってきて」・・何買うの?・・「包帯買うのよ」・・だから!!・・だんだん自分の顔が般若の様になるのがわかる。
・ ・もう時間が無いんだから・・解ってはいるけど、心にゆとりがないと優しくなれない。駅に向かう車の中で「あーあ やんなった」と声に出してみた。
(
春先に伏せたジャガイモを堀採ることにした。ぜーんぜん構わずにいたのに結構大きく育っている。子供たちの大好物のフライドポテト、肉ジャガ、カレーの具等々人気物だ。早速「おやつ」にフライドポテトにし食塩を少々振り掛けテーブルにだすとたちまち無くなった。何でも採れたて、出来立ては美味しいものだ。「ハフ!ハフ!」と頬張りながら幸せな気分になった。
知人のお宅にも泥付きの堀たてを届けた。「良くこんな事する暇があるわね」と言われた。確かにあまり暇はないけれどもその時期にちょっとだけ手を掛けてやれば後は大地と太陽が育ててくれる。時期を逸すると育たない。
子育ても同じかも知れない。
(
揃いのハッピを着て15、6人の男・女児の集団である。「天王様」と呼んでいる。
ずーと昔から続いていて、子供たちの楽しみは、お賽銭の分け前は勿論、家家で振る舞われるお菓子やジュース・アイスクリームの様である。
私の子供の頃は、男児ばかりで女児は入れてもらえなかった。しかも、御輿を肩に担いで家家を回り、それぞれの家の庭で御輿を「揉む」のである。炎天下を当然交代・交代に担いだのだから、その頃は相当数の子供たちが居たことになる。
お賽銭も小銭ばかりで、自家製の「西瓜」や「ビワ」「すもも」といったものが振る舞われた。
いま豊かな時代に移って、子供たちにことのほか喜ばれるのは、塩もみした「きゅうり」だとか。
我が家の「足」として10年間活躍した愛車コロナに感謝します。
まだまだ快調で現役バリバリと言うところですが、非力な私が車椅子の積み下ろしをするのに少々難有りで、思い切ってステーションワゴンに替える事にしました。
今までに何台か乗換えてきましたが、その度に引取られて行く車の後ろ姿を見ると申訳無いような悲しい気持ちになります。
そんなときに思い出す事があります。
それは、私がまだ小さかった頃、飼い犬が貰われて行った事です。戦後の食料難の時代でした。もともと都会で飼われていたその犬は我が家に引取られてきたのですが、田舎とは言えご多分にもれず我が家もひもじい生活だったので長く飼う事が出来ずに、またまた知り合いの家に引取られる事になったのでした。何と言う種類か分かりませんが、茶色の大きな犬で(日本犬ばなれした?)「ペル」と呼ばれていて、とても利口な犬でした。
貰われてしばらくたったある日、その「ペル」がクサリを引きずって我が家に逃げ帰って来たのです。その家の人が連れ戻しに来ましたが、足を踏ん張って必死になって抵抗していました。でもとうとう悲しそうな顔をして連れ戻されていきました。
犬にも自分の意志があって「わが家が居心地良かったのだろうか?」と思うと、40年以上経った今でも何かの拍子に思い出されてちょっとセンチメンタルになってしまいます。
現在の愛犬「ルー」は、「見慣れない車だぞ?」とばかり新しいワゴン車の出入りのつど今だに吠え立てています。
主人と子供が東京のマンションで生活するようになってからもうじき2年になる。
長女の結婚で同居者が次女に替わった。住んでいるマンションの1階に薬局がありそこの薬剤師さんのおばさんとも顔馴染になった。この間、長女が買い物の時その薬剤師さんに会ったらしい。
「きょうだい3人なんですね。背の高い人妹さんでしょう。時々上のお姉さんも見えてますね?」
・・「なんで3人きょうだいだって知ってるの?・・ 上のお姉さん?・・弟はいるけど。」・・
・・「どうもお母さんの事らしいよ。お母さん!!」長女がそういって笑っている。
満更でもない私の側で夫が「ワツハツハツ」と大きな声で笑った。
疲れた、本当に疲れた。昨日の朝、入院している母の所に行くと
「私がスーパーに並んで買った物がそこに有るでしょう…」
「??これは洗濯物だけど…」
「違うよ!私が買ってきたもの…」
夢か現か幻か混乱しているらしい。いろいろ状況を説明してみるが中々納得しない。いくら寝起きとは言え疲れる〜ウ。
今朝は、雨がかなり激しく降っている。おばあちゃん今日はどうかな。病院に行くのが憂鬱になった。
この所私もオーバーヒートぎみ。〜「なんだ坂、こんな坂」気合を入れて覗いて見るか!!
次女が勤め始めて3か月になる。
「お母さんハイこれ」
今時の丸文字で[お家へ]と書かれた封筒を差し出した。給料の一割を入れることが次女の中で暗黙のうちに決まっていたようだ。
「いいの?有り難う」
「お姉ちゃんも入れてたから」
普段チャッカリしているように見える次女もいろいろ考えているのだ。 嫁入り資金に積み立てようか? 満期までに良い人が見つかるかしら・・・??
ペットのハムスターの名前。
飼い主の息子に飽きられて玄関の踊り場に放置されている。縞リスのような毛並みの何とかと言う種類らしい。朝晩「チューちゃん」と声をかけていたら、呼ぶと顔を見せるようになった。
勤めから帰って声をかけると、チョロチョロと出てきて後ろ足で立ち上がり鼻をヒクヒクさせながらあたかも「お帰りなさい」と言うように丸い目で見上げる。実にかわいい。疲れが癒される。
子供たちが小さかった頃は、子供たちが出迎えてくれたものだが・・
そう言えば、テレビや新聞等で報道していたが、お年寄りの施設で犬や猫等の小動物とふれあう療法があって、それによって、お年寄りの表情が違ってくるということだった。
この6月に長女が結婚した。もっとも、式も披露宴もなく入籍だけを行なったものである。
本人達の希望なのである。しかし、私たち親の世代はなんとも納得しがたいものであったが、両家で合意して了解した。
私は、「黒留袖を着て金屏風のまえに立ちたかったのに・・」と言ったら「妹や弟の時にチャンスがあるわよ。親不孝でごめんネ」と返ってきた。
結婚に対する考え方もいろいろ有ると思うが、親が結婚する訳ではないので本人達の意志に任せた。
娘の結婚に対する思いも男親と女親では大分異なる。ホットする反面寂しいのが父親、寂しい中にホットするのが母親、女は強し!!
娘も決して主導権をとるような子ではないが、高校の同級生同志という関係からか一人で決めてしまう事も有るらしい。「だって何時まで経っても決めないんだもの」「これやっといてネ、あれやっといてネ」命令してしまう事もあるようだ。
小日向の静かな住宅地にささやかな新居を定め、ままごとのような生活を始めた。
大腿骨骨頭部骨折である。程度の差はあるにしてもお年寄りの骨折の殆どがこの部位だという。ひどい状態だと人工骨と取り替えねばならない。おおごとである。
幸い母はギブスをまいて自然に接骨することになった。しかし、場所が場所だけに、ギブスのミイラのようで寝返りが一切出来ない。動くのは、目玉と両手だけである。
これから夏に向かいどうなるのだろうか。
主治医の話だと骨折自体は命に別状はないが、長く寝込む事によっていろいろ弊害が起きてくるとのことだ。環境が変わる事によるボケ症状、内臓機能の低下から様々な余病の発生など、どうすれば良いのだろう。
入院した頃は、母も緊張していたのか日頃の駄シャレも飛び出して比較的元気だったが、三度三度の食事の「おにぎり」(食べやすいように)に飽きて食べなくなった。
ある時、枕元のティシュの山を捨てようとしてびっくりした。「おにぎり」がゴロゴロ出てきた。声を潜めて母が言った「看護婦さんに見つからないようにそっと捨てて」
「食べないと怒られるから・・」
元来、甘いものや、ジュース、アイスクリームなど大好きで間食も自由気侭に摂っていたから、口寂しいだろうと思ってクッキーなどを置いていたのを見て、看護婦さんが「そんなものを食べるから食事がたべられないんでしょう」「糖尿の気があるから甘いものは止めたほうが良い。骨が着き難くなる」と言ったとか言わないとかで、「そっと持って帰って」と言った。
普段、家では日中一人で留守番をしていたから誰に遠慮もなくテレビを見、寝、食べていたのに四人部屋の病室は少々窮屈にちがいない。人一倍人の目を気にするところがあり、あれほど好きだったテレビも「うるさいから」と見なくなったし、「夜中にガサガサすると悪いから」と喉が渇いても朝まで我慢したりするらしい。
確かに、年をとっているので、くどくど同じ事を言ったり、ピントはずれのことを言ったりするが、並々ならぬ我慢を強いられている。しかし、私には、根気良く聞いてやったり、説明してやったりするしか出来ない。
母の入院している病院は、救急病院になっており、整形外科が専門であるが、内科もあって入院患者の殆どは高齢者で、脳卒中の人も多い。まるで、老人病院の様だ。
毎朝、出勤前に寄って来るが、病院独特の臭いの中でほとんどの人が口を開けて寝こけている。病棟に入ると高齢化社会の到来を実感する。
人にとって、長生きが良いとは言い切れない。健康でなくちゃ…