2000年

念願かなう 2000年 12月10日 日曜日

通勤・通学に利用している駅舎の建て替えが行われ、長年住民の悲願だった栗橋駅の西口が開設された。

昭和22年のカスリーン台風後に建てられた古い駅舎は、都心に向かう通勤圏のなかで唯一残っていたもので、

今の季節には空っ風が吹き抜けて侘びしさが一段と感じられる古い木造の駅舎であった。

通称「交通バリアフリー法」が制定されたこともあって、

新駅舎にはエレベーター・エスカレータ・障害者用トイレも設置されている。

また、手書きの時刻表に代わって電光掲示板が行き先とともに時刻を表示している。

 

主人が1回目の脳出血で倒れたあと、左半身の障害を持ちながら

この不便な駅を利用していたことを思い出した。

入院中の外泊のとき 手すりにつかまりながら 1段 1段 やっとの思いで階段を昇り下りしていたことや

復職してからも帰りは何時も一番最後に  人波が途切れてから改札口に現れてホットした事など・・・・・。

しかし、2回目の脳出血でそれも叶わなくなって、

今は東京の勤め先に近い場所にマンションを借りて娘と一緒に住んでいる。

 

春、暖かくなったら、この新しい駅からもう一度電車に乗せてあげようと思っている。

 

※ 交通バリヤフリー法≒高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律

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おふくろの味 2000年 10月 15日 日曜日

一人暮らしをしている次女から 「お米持ってきて」

と珍しく電話があった。

次女は今時の若者らしくあまりご飯を食べない。

主人と同居している長女からは 「お米無くなりそう」 と良く催促される。

 

普段は食べないだろうと

カボチャの煮物とイカと里芋の煮物・精進揚を作って

お米と一緒に届けた。

「カボチャの煮物丁度食べたかったのよ!」 と調子が良い。

翌日 「早速、新米を炊いて煮物で食べたよ。母の味だね!」 とメールがあった。

この頃は食材も味付けも多様化し洋食あり中華ありエスニックありと

普段の食生活もバラエティに富んでいる。

しかも仕事を持った母親も増えて、

ある時はコンビニ弁当だったり冷凍品やレトルトだったりすることも多いこの頃

「オリジナルの母の味」 は難しい。

 

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墓参り 2000年 8月 19日 土曜日

 

ひょんな事から今年も長野の主人の実家の墓参りに行くことになった。

冬季オリンピックの開催後格段に交通の便が良くなり11時前には着いていた。

結婚当初、あるいは小さかった子供達を連れて出かけていた頃は、ほぼ1日かかりで到着したものだ。

今回は息子が一緒に行ってくれる事になり大いに心強い。

息子の密かな目的の1つである故郷の名物「ジンギスカン」で早めの昼食を済ませ菩提寺に向かった。

若い住職さんとはあまり馴染みが無いが、先代の奥様は良く覚えていて下さって

「まあ、まあ遠いところを良くお出でました、感心ですわな〜。」と労ってくれた。

若い住職さんも「どうぞ、こちらへ、ご本尊様をお参り下さい。」と本堂へ案内してくれた。

息子と二人お寺の裏山の石段を登り、主人の父母の眠る墓地にお供え物をし、線香を手向ける。

息子も神妙な顔をして合掌している。

私は今ここにこうしている事が不思議な気がした。

主人と結婚しなければ・・・・・別の人生があってこの場所は無縁だったに違いない。

お墓から遙か下の駐車場に向かって両手で○を作って送ると

車の中で主人がやはり○を返してきた。

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母が着ていた麻のスーツ 2000年 8月 5日 土曜日

 

入院中の母に代わって普段使っていない衣類に風を通そうと母のタンスの引き出しを開けた。

私が小学生の頃母が着ていた麻のスーツが目についた。

クリーニングして仕舞われたスーツは何十年もひっそりと引き出しの中で眠っていたのだ。

それを着た母の小太りのスタイルを思い出しながら私も着てみると、なんとぴったりだった。

鏡に写った自分の姿に若かったあの頃の母がだぶって見えた。

母はすっかり老いてしまったけれども、この麻のスーツは「ぱり!!」として、40数年前のままだ。

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土地の恵み 2000年 7月 15日 土曜日

 

今年は、常連の「なす」や「ピーマン」に加えて、気まぐれに小玉スイカの苗を植えた。

私の世話の具合から果たして実がなるかどうか? 不安だった。

今朝久しぶりに覗いてみると健気に黄色い小さな花を咲かせ大小10個ばかりの実がついている。

店頭に並んでいるような大きさの物も3つ程あるが、はたして食べられる状態なのかどうか判らない。

叩いてみたり重さを確認したり、しばしためらったが思い切って、本当に思い切ってもいだ。

仏壇に供えて一段と大きく「チン・チーン」と鐘をならした。

 

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蛍 2000年 7月 13日 木曜日

 

今日も暑かった。帰宅して籠もった空気を入れ替えようと窓を開けると、

暗闇の中でスイ― スイ―と光っている。「ほたる」だ!

目を凝らすと垣根の向こうにひろがる青田のあちこちでもピカ!ピカ!と光っている。

「ああもう梅雨あけも近いな〜」暫くボーと眺めていた。

子供達が幼い頃、牛乳瓶に何匹も集めて暗くした部屋で喜んでいたことが有った。

もっと昔、私が子供の頃には「蚊帳」の中に放して遊んだ記憶がある。

今思うと「何と風情のあることよ」と思うが、

テレビもゲームも無い時代は格好の遊び道具の一つだったのだ。

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感謝の日 2000年 5月 14日 日曜日

 

最初に長女夫婦から「お母さん有り難う」のレタックス(電子郵便)が届いた。

続いてお花やさんが花束を届けてきた。

次女からは鉢植えのカーネーションにメッセージが添えられていて

「私が結婚して母親になるときは、絶対お母さんのようになりたい。」とあった。

私は少し得意げに夫に見せた。

夫は「お母さんは幸せだよ!ところでFather's dayはいつかな?」

季節はずれの風邪で具合が悪い長男は

「俺は何もしないぞ!」と言いながら

氷枕を抱えて自室に引き上げていった。

早くどこかに就職内定がもらえると良いけど。

子供達が人生の機微を感じられる様になって来たことに感謝。

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それぞれの新生活 2000年 3月 26日 日曜日

 

陽気も良くなって桜の開花予報が話題にのぼる頃は、

浮き浮きしてくるから不思議だ。春は、巣立ちのときでもある。

この春、東京のマンションで主人と一緒に住んでいた次女が

一人で生活する事になった。

自立する事は嬉しく大事なことだが、

親としては何時までも一緒にいたいと願うものだ。

次女に代わって長女夫婦が主人と一緒に生活してくれる事になった。

長女夫婦がてきぱきと段取りし、あれよあれよと言う間に引っ越しが完了していた。

主人も私も長女夫婦の好意に甘えることとし、それぞれの新しい生活が始まった。

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相性 2000年 2月 11日 金曜日

 

私はいわゆる「お父さん子」だった。

どこかに出かける時は必ず父親と手をつないで歩いた。

母親と手をつないで歩いた記憶がない。

父が子煩悩だった事は確かだが、生来の相性と言うものかもしれない。

相性といえば、

私の3人の子供達のうち次女は私の母と相性が良い。

生後6ヶ月くらいから私と寝るよりも祖母と寝る事を喜んだ。

私が添い寝しようとすると小さな足で突っ張って嫌がった。

大きくなってからも「おばあちゃん、おばあちゃん」と大事にし、

今でも勤務の合間をみては家に帰り頻繁に病院に見舞いに行っている。

反対に末っ子の長男はは祖母と遊んでいても

私が勤めから帰宅するとさっさと放り出して祖母をがっかりさせた。

「男の子は乱暴でいけないよ」と

子供の頃から早くも敬遠ぎみであった。

大きくなってからの子供達も次女と長男は何かにつけ反発しあい、

長女はどちらからも頼りにされている。

3人のうち一番身長の小さな長女だが今のところ威厳を示している格好である。

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◇ 仲良きことは美しきかな 2000年 2月 7日 月曜日

 

帰りの電車の座席に一目で父娘とわかる二人が並んで腰掛けている。

娘さんは今時の厚底靴に髪を少し茶色に染めて二十歳そこそこに見える。

父親はいかにも勤勉なサラリーマン風である。

何かを楽しそうに語らい、やがて娘さんは文庫本をとりだし、

父親は仕事がらみの書類を読み出した。

しばらくすると娘さんは父親の肩に寄りかかり気持ち良さそうに眠ってしまった。

二人は私と同じ駅で下り仲良く肩を並べて時々笑いながら階段を昇って行く。

立春を過ぎたばかりの寒い夜だったが、ほのぼのとしていて心が暖まった。

 

親子兄弟であれ、隣人であれ、仲の良いことは本当に良いものだと思う。

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