車椅子の視線から「随想」
1998年7月〜12月


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◇ 大晦日に思うこと  1998年12月31日 木曜日

◇ 被害者の人権を忘れていないか?  1998年11月27日 金曜日

◇ 蟷螂の斧!!ソフトは中味で勝負してほしい  1998年11月23日 月曜日

◇ ☆☆ 獅子座流星群 ☆☆☆☆☆  1998年11月19日 木曜日

◇ 「富弘美術館」へ  1998年11月01日 日曜日

◇ “夫婦旅行”  1998年10月25日 日曜日

◇ 嬉しいメール  1998年10月18日 日曜日

◇ 東京の休日  1998年10月04日 日曜日

◇ 人間の脳の不思議  1998年09月26日 土曜日

◇ 介護リレーに感謝ーそのA  1998年09月23日 水曜日

◇ 定年後誰と何処で過ごしますか?  1998年09月15日

◇ 介護リレーに感謝  1998年09月09日

◇ 1級身体障害者であることを忘れるな!!  1998年0月08日

◇ 「ちゅうちゃんどうもありがとう」 1998年08月23日

◇ 感動をくれた甲子園ー2  1998年08月23日

◇ 感動をくれた甲子園  1998年08月21日

◇ 夏休み   1998年08月19日

◇ 「車イスの男女 琵琶湖で心中?」という記事を読んで  1998年08月15日

◇ 先行きのこと  1998年08月09日 

◇ 未練か?・・・まだゴルフをあきらめない・・・ 1998年08月01日

◇ 「海・知られざる世界C深層海流・二千年の大航海」を見て 1998年07月27日

◇ ウインドウズ98日本語版の発売 1998年07月26日

◇ 夏ばて? それとも 夏風邪? 1998年07月25日

◇ ウインドウズ95の再インストール 1998年07月20日

◇ 「きてきて!ちゅうちゃんが返事をしたよ!」 1998年07月19日

◇ 「冷房」に悩まされる 1998年07月15日

◇ 次女の夏休み旅行ーそのA 1998年07月13日 

◇ 次女の夏休み旅行 1998年07月10日

◇ 姉と妹と父親 1998年07月06日

◇ 猛暑到来!! 1998年07月05日

◇ 「金さん」の掲示板 を設置した 1998年07月04日

 

1998年12月


 

◇ 大晦日に思うこと  1998年12月31日 木曜日

今年は嬉しい年でした。

本を見ながら手探りで始めたホーム・ページを大勢の人が見てくれました。
そして見てくれた人から激励をいただき、感動して元気がでてきました。

50歳を過ぎて車椅子にのる障害者になっても、「あきらめない」「前向きに挑戦する」「楽しく生きる」という自分の生き方が少しずつ見えてきたような気がします。

6月には長女が結婚して巣立っていきました。マンションに一緒に住んで、車椅子で復職した自分の面倒をみてくれた2年間、お世話になりました。それからは長女に代わって今年就職した次女がマンションに一緒に住んでくれました。夜勤もある仕事のため結婚した長女が応援してくれています。

高校3年生の長男も自分で進路を決めました。大学4年間がもったいないから専門学校へ行ってコンピューターの勉強をするというのです。勉強はあまり好き好きではないようですが、幸い3年間休まずに高校へ行き推薦をもらって入学先も決まりました。

妻には今年も世話になりました。毎週末、車で自宅に帰る生活ができたのも妻のど根性があったからでしょう。どんなに苦しいときも明るく笑わせてくれる性格にも何回助けられたかわかりません。

みんなどうもありがとう!!

さて、来年はどんな年になるでしょうか?

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1998年11月


◇ 被害者の人権を忘れていないか?  1998年11月27日 金曜日 

昨日嬉しいニュースがあった。「東京地検が26日、東京都世田谷区の小学2年生、片山隼(しゅん)君(当時8歳)の死亡事故でいったん不起訴処分とした運転手(33)を業務上過失致死罪で起訴した。」というものである。

東京地検の次席検事は、最初の不起訴処分について「結果的に捜査が不十分で、誤りだったと言わざるを得ない。これを反省の契機として、被害者の立場に配慮した検察権行使に努めたい」と異例のコメントを出した。これは、この事故への地検、警察の対応があまりにも被害者の立場とかけ離れていたからではないだろうか。隼君の両親の懸命の訴えがマスコミや国会をも動かして、東京地検も再捜査をせざるを得ない立場に追い込み、その後の再捜査の過程で「隼君は青信号で横断歩道を横断中、信号が点滅したので引き返そうとしてダンプカーの前に戻り、ひかれた」との新たな目撃証言」を得ることができたと聞く。

交通事故は毎日日本中のあちこちで起きている。また刑事事件も多い。

その捜査や裁判の過程でいつも思うのは被害者の人権についてである。日本の法律では捜査や裁判の過程での加害者の人権は堅く保護されている。だが何故か被害者の人権は軽く扱われれている気がしてならない。

なぜだろうとおもう。それは「捜査や裁判」をする権限が国などにしか認められていないことと関係があると思う。強大な権力をもつ機関が「捜査や裁判」をするのだから、か弱い被疑者の人権を法で護ってあげようと考えたのだろう。それは私も当然のことであると思う。

ただし、だからといって被害者の人権をないがしろにしても良いということでは断じてない。その基本のところが警察、検察ばかりでなくマスコミの関係者にも忘れられてはいないかと最近よく思うのである。被害者の人権が護られない社会になれば、「目には目、歯には歯」の復讐を個々人が実行するような社会が良いという声すら出てこないとも限らないだろう。

事件の後一番護らなければならないのは被害者の人権であることを忘れてはならない。

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◇ 蟷螂の斧!!ソフトは中味で勝負してほしい  1998年11月23日 火曜日

マイクロソフト社が公正取引委員会から抱き合わせ販売の排除勧告を11月20に受けた。「今さら遅い。勧告が出たところでマイクロソフトが受ける打撃はほとんどない」と業界関係者の多くは話しており「マイクロソフトの巧妙な戦略の勝利」とまで指摘する声もあるという。

アメリカではすでに独占禁止法違反をめぐってマイクロソフトと司法省との係争が裁判所で争われている。マイクロソフト社は莫大な財力にものをいわせて、裁判の長期化を図り裁判の決着前に事実上市場を押さえてしまう作戦といわれている。

日本でも、マイクロソフト社はパソコンのOSで圧倒的なシェアをもつWINDOWS(3.1、95、98)を武器に、ブラウザ(インターネットでホーム・ページを見るためのソフト、)ソフトのインターネット・エクスプローラ、表計算ソフトのエクセル、ワープロソフトのワードなどで不公正な販売戦略によって急激にシェアを伸ばしてきた。 

ソフトはユーザーにとって「使いやすい」という「中味」で判断できることが基本になければならないと思う。それが、マイクロソフト社の不公正な販売戦略と宣伝によってゆがめられている日本の(世界のと言い換えても過言ではないだろう)現状ははなはだ残念なことである。 

「参考:「お知らせ■ マイクロソフトの巧妙な戦略

 

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◇ ☆☆ 獅子座流星群 ☆☆☆☆☆  1998年11月19日 木曜日

18日の朝「獅子座流星群」を見たいと4時前に目を覚ますと娘がもう起きている。娘は「寒いよっ!たくさん見えるようだったら、お父さんの部屋の窓も開けてやるからベットに入っていたら」と言ってベランダへ出た。ベッドでまどろんでいるうちにそのまままた寝てしまった。6時半過ぎに起きて娘に聞いてみると2〜3個見れて一つは結構明るかったという。思いの外少なかったので願い事をいう暇がなかったと残念がっていた。

東京の文京区でも流星が見れるとは思っていなかったので正直のところ驚いた。マスコミが大騒ぎしたほどの流星はどこでも見られなかったようだが、普段「星」を見ることなど忘れていた日本人にちょっぴり“宇宙の神秘”を味わうことができたようだ。

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◇ 「富弘美術館」へ  1998年11月01日 日曜日

妻の運転で「富弘美術館」に行ってきた。紅葉はまだはじまりというところで、紅葉(もみじ)や楓が僅かに赤い。渡良瀬川に沿って走ると木々のかげからわたらせ渓谷鉄道の線路が見え隠れする。単線である。やがて草木湖の雄大な眺めが見えてくると「富弘美術館」についた。家からおよそ2時間である。

美術館は2階建てで、展示室は1階と2階の二つに分かれ、詩画をはじめとして星野富弘さんの作品が展示されていた。作品の多くはここ東村の路傍にどこにでも咲いている草花を描いたものである。

そのどれもが、“車椅子の視線から”みた草花の姿であった。絵に書き添えてある詩を読むとそれが良く解った。星野さんの詩画は、作品が不自由な手にかえて口で描かれているから感動を呼ぶのではない。路傍にひっそりと咲いている草花にも命の声があることを星野さんが伝えてくれるからこそ感動を呼ぶに違いないと思った。

 

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1998年10月


◇ “夫婦旅行”  1998年10月25日 日曜日

 

 

結婚30周年の記念に「浅間山を描きに行こう」と妻の運転で信州の佐久市にドライブ旅行にでかけた。宿は、昨年佐久市にオープンした「サンピア佐久」という公共の宿である。浅間山のロケーションが最高で身体障害者の人が泊まれるようにツインの部屋が一部屋用意してあるという。

身体障害者にとって旅行は楽しみも大きいがそれ以上に心配の方が大きい。途中トイレは大丈夫だろうか?、あるいは宿に着いてからもトイレは大丈夫だろうか?風呂は入れるだろうか?食べる物は大丈夫だろうか?という衣食住の基本的なことが健常者と違い心配なのである。

トイレ、食堂などの高速道路の付属施設には身体障害者に対する配慮が行き届き、高速道路ができてから身体障害者の旅行が随分しやすくなったと思う。信州への旅行も、冬季長野オリンピックで高速道路がつながってから身体障害者の心配が少なくなったように思う。実際に旅行してみてもそのことを強く感じた。ただ便利な施設があっても使えなければどうしようもない。高速道路でもトイレに近いところに身体障害者用の駐車スペースが1台分確保されており、ここからだけ車椅子がトイレにいけるように段差がない。せめて2〜3台分欲しいと思うが1台分でも無いよりは良い。もう一つこの身体障害者用の駐車スペースに健常者が駐車していることが結構ある。車椅子を使う身体障害者には先ずトイレなのである。そのために飲食を我慢していることを理解して欲しいと思う。

あいにく小雨で浅間山は雲に隠れていて見えなかった。「楽しみにしていたスケッチが出来ないかもしれないな」という気がしたが妻も私もそれも仕方がないと思った。久しぶりの“夫婦旅行”である。二人でのんびりできればそれで良いと思っていた。

「サンピア佐久」は高台にあり全室が浅間山に向いていて晴れた日の大パノラマは素晴らしいだろうと想像できた。
信州に10カ所ある公共の宿の中で身体障害者用の部屋が用意されているのはここだけである。
ツインの部屋に入ると車椅子のまま自由に室内を移動できるようにゆったりとしている。洗面所、浴室、トイレにも引き戸を開けると自由に行けるように段差がない。付き添いの人用に洗面所、浴室、トイレが別にあった。こういう身体障害者用の部屋が用意されている宿泊施設が、もっとあちこちに出来れば身体障害者がもっと旅行を楽しめるだろう。昔公共の宿をつくるときには「身体障害者も健常者と一緒に旅行を楽しむ」などという発想がなかったのだろうが、やっと日本でも「ノーマライゼーション」という言葉が根づきはじめたのかもしれない(?)嬉しいことである。

ここは施設も綺麗だが従業員も素朴で親切だった。料金も比較的安く料理もおいしかった。
妻に1杯だけ分けてもらった清酒千曲錦の冷酒もまた美味しかった。

翌日土曜日も朝から雨、10時に宿を出て石川さゆりのCDを聴きながら帰路についた。「夫婦善哉」のメロディーが温かくお腹の中までしみこんできた。良い旅行だった。

結婚30周年のささやかな記念旅行はこうして終わった。

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◇ 嬉しいメール  1998年10月18日 日曜日

今朝2通の嬉しいメールをもらった。

1通は30年前に私が結婚したときの上司だった先生(医師)からで、私のホーム・ページを見てくれた感想であった。先生は5年前に特別区の衛生部長を最後に定年退職されてから、パソコンを始められインターネット歴も、もう3年になるという。今年の私の年賀状にホーム・ページを開設したことを書いてあったのを見てその後2〜3回見てくれていたという。嬉しいことである。私のホーム・ページが先生に少し元気をやれたことも嬉しいし、その先生から私に激励のメールをもらったことで、私と妻が元気づけられる。インターネットは中高年が“元気”を出すために多いに役立っているのだと思った。

 

もう1通は、車椅子を使って生活している25歳の青年からで、今アメリカに留学しているという。やはり私のホーム・ページを見てくれて、その感想と自分の将来についての希望が書いてあった。身体障害者で車椅子を使いながら外国で生活するのは、言葉にあらわせないほど凄いことである。日本にいて家族や友人に助けられながらでも社会に出ればなかなか理解されず困難が多い。それが外国である。最後は自分だけが頼りなるような生活をしている青年の心の内を思うと、思わず応援の拍手を送らずにはいられない。

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◇ 東京の休日  1998年10月04日 日曜日

インド料理の店「ナマスカ」東京店にいって昼食を食べてきた。初めてはいるお店である。
普通日曜日には家に帰るのだが、今週は妻が出張して留守のため私がマンションに残った。ゆうべ次女は夜勤で長女がマンションに泊まってくれていたので、次女がマンションに戻ってきた11時頃に「天気もいいし何か食べにいこう」ということになり長女の夫君を誘って四人でいった。夏を思わせるような太陽が照りつけていたが空気はサラッとして気持ちが良かった。

そういえば東京のマンションに住むようになって二年以上になるがこうして休日の昼間出かけるのははじめてであった。
「ナマスカ」のやや薄暗い店内には独特のインドの音楽がながれていたので、音楽好き若者たちには好評だった。久しぶりのマトンカレーやベジタリアンカレーと食べるナンが美味しかった。マンションから15分くらの店だったので帰りは娘に交代で車椅子を押してもらった。

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1998年09月

◇ 人間の脳の不思議  1998年09月26日 土曜日

人間の脳には不思議な力がある。電気の機械(テレビ、パソコンなどたくさんある)だったら、配線が切れたらそこを修理してつないでやらなければ動かない。ところが人の脳は違うようである。脳出血で切れた部分の細胞の中には切れた先とつながろうとして活動するものがあるようだ。それは人の意識とは別に細胞の自然に働らく活動だという。

私の二度の脳出血は場所が脳の深い脳幹部で、脳外科の部長も「この場所の手術が出来る医師は世界中にいない」といったそうである。だから手術なしで、降圧剤などの薬とリハビリテーションと自分という人間の持つ自然の治癒力にゆだねざるを得なかったようだ。

「最大限良くなってもねたきり、車椅子に自力で乗り移れるようになるのはとても無理」

と言われていたのが、いつしか自力で車椅子に乗れるようになり、今職場では車椅子から普通の椅子に移って一日過ごしている。身体の回復には「脳」にどのように刺激を与えていくのがより効果的かを考え、自分はパソコンにかけてみた。パソコンなら毎日使える。キーボードやマウスを毎日使い継続して脳に刺激を与えるには格好の道具だったからである。

もう一つ継続する意欲の源がインターネットでホーム・ページを持ったことだった。毎週少しずつでもいいから更新することで、次々に新しい発想や意欲がわいてきた。そのなかにはデザインや構成、背景やイメージをどのように使うか?という美を求める意識もあった。何か役に立つ様々な情報の受発信をしようという意欲もあった。

いま私は気持ちも明るく元気だ。毎日が充実している。
もし、このまま例え一生歩くことができなくてもそれはそれで仕方がない。ただ少しでも希望が残っているうちは、決して諦めないで頑張ってみようと思う。

「ネバーギブアップ!!」秋晴れの澄み切った空に向かって私は心の中で叫んだ! さわやかな風が吹いていた。

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◇ 介護リレーに感謝ーそのA  1998年09月23日 水曜日

今日は水曜日秋分の日である。祝日も家に帰ることが多いのだが、金曜日の夜にはまた帰ることになるので今回は東京のマンションに残ることにした。私がマンションに残ると娘達の負担が増えるので彼女達にとっては実に迷惑な話なのである。

次女は昨日夜勤明けで昼前に帰って寝ていたが、私の仕事が終わる頃迎えにこれるように目覚ましをセットしなければならない。私がマンションに帰ってからは夕食の支度や風呂の準備、洗濯などの家事があるので自分が先に寝るわけにはいかない。

今朝も6時半に私が起きたときには隣の部屋でまだ眠っていた。朝食があるので7時に非情にもこれを起こした。休みだからもっと寝ていてもいいのだが、私は7時過ぎまで寝ていることはまずない。今日も朝食後、新聞を読み、テレビの連続ドラマ「うらら」を見て、その後でインターネットをやった。

次女は私の朝食を済ませるとまた眠った。そして起きたのは12時過ぎだった。

起きて二人の昼食にチャーハンを作った。その後今夜も夜勤だからと入浴していた。妻が家からマンションに来たのは午後3時少し前である。4時には出勤していく次女に代わって、私の入浴の手伝いをし鯵の刺身を買ってきて夕食を一緒に食べた。「長男は今頃一人で食べているのかなあ?」と話していたが食事が済んだらまた家に帰っていった。

夜8時前にこんどは長女がマンションにやってきた。次女の夜勤の日にはマンションに泊まってくれるのだ。今日も夫婦でどこかへ出かけていて出先から妻に電話があり、時間の打ち合わせをしてから妻が帰ったのである。

私が身体障害者で歩けないから一人でマンションに置いておくわけにはいかないと家族で協力体制を作っている。

日本でも、介護を家族だけでは看きれないからと介護の社会化の動きが出てきて、介護保険法が制定された。法の施行までにはいろいろ問題も多いようだが、とにかく一歩前進と言えるだろう。先日の日曜日から介護保険法の重要な担い手になる介護支援専門員(ケアマネジャー)の実務研修受講試験がはじまった。目に見えるところで少しずつ整備が進んでいるようだ。

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◇ 定年後誰と何処で過ごしますか?  1998年09月15日 火曜日

先日NHKで「定年後誰と何処で過ごしますか?」という番組をやっていたのを、妻に誘われて一緒に見た。静岡県の三ケ日町の人が自分の土地に共同で暮らす定年後の夫婦を首都圏で募集し、応募してそこに転居していく夫婦と周辺の人たちが映像に映し出されていた。

日本人の定年の平均は59歳、そして平均寿命は81歳であるから、定年後約20年暮らしていくことになる。そこでなるべく暮らしやすい土地を探して移り住む人たちが増えてきたようだ。帰る田舎が無い人たちは移住する場所をあちこち探さなければならない。この三ケ日町に移住する人はそうして決めた人たちである。

東京に何代も暮らしている人はともかく、地方から東京に出てきて結婚し暮らしている人にとって、確かに定年後は住み易くはないようだ。定年まで会社一筋で近所づきあいもほとんどない人にとって、この先20年都会の暮らしは耐えられないだろうと思う。しかし、新しい土地を見つけて移住する人たちにも、そこで新たな人付き合いを築いていく課題が待ち受けている。定年後も決して楽ではないのである。

「通勤には不便だけど将来を考えるとこの田舎もまんざらでもないわね!」近所のおやじさんが持ってきてくれた梨を食べながら妻がそう言って笑った。

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◇ 介護リレーに感謝  1998年09月09日 水曜日

1級の身体障害者であり介護がなければ1日も暮らしていけない身でありながら、 妻や、娘達や、職場の同僚に甘えてそれを忘れている自分に気が付いた。大変申し訳ないと思う。

私とマンションにいっしょに住んでいる次女は、仕事(ホテルのオペレーター)柄、月に7,8回夜勤がある。この頃ホテルの経営も厳しいらしく、シフトに遅番が新しくできて帰りが遅くなる日が夜勤のほかに幾日かできた。その日は私の帰りの時間に迎えが間に合わない。夜勤の時に送迎とマンションに泊まって食事や入浴などの面倒を見てくれている長女の仕事がその分また増えた。私を迎えに来てマンションまで送り届けて夕食を食べさせてから自分の所へ帰る。新婚で自分たちの時間がいくらあってもいいだろうに、不平一ついわないで明るくやってくれている。理解ある夫君にも感謝しなければばちが当たるだろう。

娘達の負担を少しでも軽くするために、毎週金曜日には、朝早く妻が車で来て、仕事が終わってからマンションによって私を乗せて家に帰る。普段の日には、毎朝おばあちゃんの入院している病院によってから2時間近くかけて通勤している妻の疲労も相当たまっているに違いないのだが、そんな様子も見せずに明るくやってくれるのが救いである。(逆だったら私にはとうてい真似が出来そうもない。)

そんな家族に囲まれて過ごしているうちに、自分が車椅子の生活をしていることを、忘れていたに違いない。自戒しなければならないと思う。そしてみんなにあらためて感謝しよう。みんな本当にありがとう!

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◇ 1級身体障害者であることを忘れるな!!     1998年0月08日 火曜日

必要があって久しぶりに自分の身体障害者手帳を見た。(普段は車を運転する妻に預けている)
「1級1種 脳出血による四肢機能障害」と書いてある。そこであらためて「そうだ、自分は1級の身体障害者なのだ」と自分に言い聞かせた。うっかりして忘れるところだった(?)。

休日や夜、インターネットでネットサーフィンしていて、身体障害者のホーム・ページに行って中味を読んだり、掲示板の書き込みを読みながら「大変なのにみんなよく頑張っているな〜」と思って時々感動する。私と同じように車椅子の生活をしているが勤めには出られずに奥さんがつきっきりで介護している人のページ(その頑張りには本当に頭が下がる)、私よりは後遺症が軽い(片麻痺で杖を使って歩ける)が、リハビリに懸命に取り組んでいる人のページ、片麻痺で職場へ復帰できたが通勤混雑時間を避けて半日勤務をしながら、徐々にならしている人等々みんなみんな頑張っている。

掲示板で明るく元気にいろいろ意見を交換しているうちに、うっかりして自分が1級身体障害者であることを忘れるところだった。以前入院した病院の婦長さんから「決して頑張らないで下さい」という嬉しい年賀状をいただいたことを思い出した。「そうだ明るく元気にやるのはいいが頑張りすぎないようにしよう。」と思って、ホーム・ページのプロフィールの中に「※ 時々自分が身体障害者で車椅子にのっていることを忘れることがある。頑張りすぎないようにしよう!!」と書き加えた。

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1998年08


◇ 「ちゅうちゃんどうもありがとう」     1998年08月23日 日曜日

   

「ちゅうちゃん」の餌だったひまわりの種を、妻が少し「ちゅうちゃん」にもらって庭に蒔いたらきれいな花を咲かせた。
大きくはないけれど、太陽に向かって精一杯咲いている。

「ちゅうちゃん」どうもありがとう!!

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◇ 感動をくれた甲子園ー2     1998年08月23日 日曜日

昨日、横浜高校(神奈川)がエースの松坂のノーヒットノーランの快投で 3:0 で勝ち春夏連覇を成し遂げた。危ない試合も「決してあきらめない」全員の闘志で見事に乗り越えてきたナインに、ただただ敬服するばかりである。
多くの人と同じように、私も「あきらめないで頑張ってみるか?」という気持ちを一層強くした。横浜高ナイン優勝おめでとう! そして、感動をありがとう。

今日で私の夏休みも終わる。

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◇ 感動をくれた甲子園     1998年08月21日 金曜日

今日は準決勝である。第1試合 明徳義塾 (高知)対 横浜 (神奈川)戦の劇的な終盤をテレビで観戦した。

8回表を終了して 6:0 で明徳義塾の一方的ともいえる試合展開になっていた。横浜は、エースの松坂が昨日の準々決勝で250球を投げたため、先発していない。そこを明徳義塾につけ込まれたようだ。ここまでに2本のホームランを浴びて6点差になっていた。さすがの横浜もここまでかと思って見ていると、その裏後藤、柴らの活躍で4点を挙げて2点差に詰め寄り、九回には後藤のヒットで同点に追いついた。

明徳義塾満塁策をとって一死満塁、寺本投手が投げ込んだボ−ルを、柴の打球が二塁手のグラブの上を越えていった。嵐のような大歓声喜びに湧く横浜ナインと応援団、マウンドにうずくまる寺本投手。劇的な横浜のさよなら勝ちだった。

ボロボロ落ちる涙を拭おうともしない寺本投手が印象的だった。
私は心の中でつぶやいた。「寺本投手、君たちの夏は終わった。だけど、君たちの野球人生はこれからはじまるんだ。今日の涙を忘れないようにしよう。」

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◇ 夏休み     1998年08月19日 水曜日

今週1週間夏休みをとっている。前後の土日を入れて9連休になる。しかし、何処へ出かける予定もない。田んぼに囲まれた家にいて、みんみんゼミやツクツクホーシなどの蝉の声をききながら、パソコンをやったり、自主リハをしたり、昼寝をしたりしてのんびり過ごしている。

子供達が小さい頃は毎年夏休みには必ず旅行に連れていっていた。海に行ったり、山に行ったり、信州の田舎に行ったりしていた。暑い盛りに旅行に出かけるのは決して楽ではなかったが、普段なかなか一緒に過ごせない子供達と家族そろって終日過ごすのは実に楽しかった。いや幸せだったといった方が正確かも知れない。日頃のストレスや悩みなどとは無縁のおだやかな日々がそこにあった。

子供達が大きくなって、もう誰も「一緒に旅行に行こう」と言うものはいない。身体障害者になって車椅子を使っている私を、それが嬉しいような寂しいような複雑な気持ちにさせるのである。

時間と共に人は皆どんどん変わっていく。夏休みが変わっていくのも当然のことだろう。それが世の移り変わりというものであり、無常と言うことなのかも知れないと思った。うるさかった蝉の鳴き声が突然止まった。

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◇ 「車イスの男女 琵琶湖で心中?」という記事を読んで     1998年08月15日 土曜日

8月13日の朝日新聞の夕刊に「車イスの男女 琵琶湖で心中?」という記事が出ていた。二人の手はひもで結ばれ、さらに湖底からは二人が使っていた車イス同士がひもで結ばれた状態で発見されたという。40代の男性と30代の女性は大阪府に住む友人同士で、今のところ遺書は見つかっていないとも書かれていた。

二人がどうして心中(?)を選ばなければならなかったかはわからない。ただ同じ車イスで生活している者として、二人の日頃の想いは少し解るような気がする。車イスでの生活はひとが想像する以上に不自由な事が多い。「街になかなか出られない」「勤めるところもなかなか無い」その上「普段の生活も誰かの介護がなければやっていけない」となれば、理解ある家族や応援してくれる人たちがいなければ「夢」も「希望」もなかなか持ち続けることは難しいだろう。「夢」も「希望」も持てなくなったら、どのような生き方を選択できるのか? 多くの人に支えられて生活が成り立っている今の私には想像することが難しい。  

ただ、私は「夢と希望」は自分で持ち続けるようにしたいものだと思っている。そのための手段としてパソコンを使い、インターネットに挑戦している。将来自分がどうなるかは私にも全く解らない。だが、「何もできなかった。・・・何もしなかった。・・・」という後悔だけはしたくない。いつも何か目標を持っていれば、どんな苦労にも耐えていけるようにも思う。それも出来るだけ明るく、そして楽しく・・・。

日本は、街にバリアが多いだけでなく人々の心のバリアもまだまだ多いことを痛感している。そればかりではない。そのことに気がついていない人すらまだ沢山いることを残念に思う。

人々の心の内にあるバリアを取り除いて、身体障害者が夢と希望が持てるような、本当の意味の「バリアフリー社会」を一日も早く実現するために、私も「小さな声」をできるだけ出して行こうと思っている。

・・合掌・・

※ 時間の許す方は「夢そして希望」「逆境にどう立ち向かうかも読んでいただければ嬉しいです。

 

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◇ 先行きのこと     1998年08月09日 日曜日

週末家に帰ったときに妻と先行きのことを時々話している。昨日も妻がこんなことをいった。

「もう少し経てば子供達がみんな独立して二人だけの生活になるね! その時はここでのんびりお米や野菜や花を作って暮らしたいね。時には旅行にも行ってさ。」

ここで生まれここで育った妻は、農作業がことのほか好きである。一週間の通勤で疲れているときでも、畑で草を採っていると気分がほぐれてスッキリしてくるという。普段スーツを着て東京まで通っているとはとても思えないような見事な「農婆」に変身して楽しんでいる。

私も子供の頃信州の田舎で農業の手伝いをした経験があるので、農作業は嫌いではなかった。しかし楽しむところまでいかないうちに、二度の脳出血で今は歩くこともできない身体になってしまった。たぶんこの先も農作業は妻が一人でやることになるだろう。

「家族が食べていけるだけのお米や野菜を作る生活を、のんびりとしていくのも悪くはないな!」と思っているが、それは妻次第である。夏のかっらっとした空の下、裏の屋敷林で「ミーン、ミーン、ミーン」と蝉がうるさいほど鳴いていた。

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◇ 未練か?・・・まだゴルフをあきらめない・・・ 1998年08月01日 土曜日

早いもので、ゴルフをやらなくなってから6年になる。だがまだプレーを完全にあきらめたわけではない。

一回目の脳出血で倒れたのが1985年の秋だった。この時は脳の右側の出血だったので、病院でのリハビリテーション後も左半身の片麻痺が残り、歩く時に左足を少し引きずるようになった。そのため通勤の時には杖を使ってのゆっくりした歩行になったが、その杖もほぼ一年後には使わなくなり、二年後からは車の運転も始めた。そして休日には家からそう遠くない「武蔵野むら」の近くのゴルフ練習場にも時々通うようになった。

ゴルフの握りは左手のグリップが非常に大事である。このため左半身の片麻痺の影響が大きく出て、打った球がどこに飛んでいくかは、球に聞いてみなければ解らないような状況がしばらく続いた。それでも四年目には、かってのゴルフ仲間に誘われて久しぶりにコースに出てみた。しかし歩くスピードが遅いのと球が真っ直ぐに飛ばないため時間がかかり随分迷惑を掛けた。スコアメイクもさんざんな結果に終わった。ストレスも大きく、やはりコースにでるのはまだ無理だったのかもしれない。その後も二度ほどコースに誘われたが、倒れる前のようなスコアはとうとうだせなかった。

そして、1994年の春に二度目の脳出血で倒れた。これは重症だった。助かったのが奇跡的だったと言った方がいいかもしれない。意識不明が数日続き、ICUの医師から「助かっても寝たきり」と妻がいわれていた。幸い命びろいしたが、今度は脳のやや左側の視床下部の出血だったので、右半身の麻痺に加えて言語障害が残った。また、左半身の前回の麻痺が更に加重されていて、結局「四肢不全麻痺」という重い状況になった。車椅子に移るときも複数の看護婦さんに運んでもらわなければ移れなかった。

意識回復後、リハビリテーションを二つの病院で都合一年半やった結果、幸運にも自分で車椅子を使えるようになるまで回復した。歩行訓練も随分やったが、こちらは、四点杖で室内をゆっくりと移動するようになるのがやっとだった。体幹のダメージが余程大きかったに違いない。

今車椅子で生活している。だが、まだゴルフもあきらめたわけではない。だから、クラブはそのままバックに入っている。そして少なくなった日曜日のゴルフの放送もたまには見るようにしている。

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1998年7月


 

◇ 「海・知られざる世界C深層海流・二千年の大航海」を見て 1998年07月27日 月曜日

昨日の夜、NHKスペシャル「海・知られざる世界C深層海流・二千年の大航海」を見た。

二千年という年月をかけて世界の海底を一周する海流の話である。「深層海流」という言葉も初めてだったが、その地球上に生きる動植物への影響力の巨大さに驚いた。

番組は、北大西洋グリーンランドとノルウェーの海域で、冷たく塩分濃度の高い水が深海に沈んでいく様子が写し出される。沈んだ水はやがて海流となる。それが深層海流と呼ばれるものである。海流はアメリカ大陸ぞいに南極大陸まで南下してやがてインド洋に行くものとオーストラリアの南側を通って太平洋に行くものに別れる。太平洋にでた深層海流は北上して北太平洋に向かう。

海の表面の流れと違って深層海流は速度がきわめて遅く、こうして地球を一周するのに2000年もかかるというのである。
そして、海流の道筋や強さなどは条件の変化によって大きく変動し、それが地球の気候に計り知れない影響を与えてきたという。

今から一万三千年ほど前、アメリカ大陸を覆っていた氷が気温の変化によって北上し大洪水が発生した。大洪水によって大量の真水が大西洋に流れ込んだ。このため海水の塩分濃度が低くなり深層までの沈み込みの量が減って深層海流の強さに大きな影響を与えることになった。深層海流が行かなくなった地方は海水の温度、気象に影響が出て、回り回って植物に影響し、さらにマンモスなどの動物やさらに人間に深刻な影響を与えることになったのだという。

今のスピードで地球温暖化がさらに進めば、やがて深層海流にも影響が及び、その結果地球上の生命にも影響が出てくることは確実のようである。人類はそれほど愚かではなことにかすかに期待しながら床についたが、なかなか寝付かれなかった。

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◇ ウインドウズ98日本語版の発売 1998年07月26日 日曜日

昨日25日に「ウインドウズ98日本語版」が一斉に店頭で発売が始まった。心待ちしていた人も多いようで、発売開始時間の午前12時には秋葉原の店頭には例によって大勢押し掛けたようだ。ただ、ウインドウズ95の時とは違い、バージョンアップの内容のインパクトが弱いのと景気が下降気味であることから、「爆発的に売れることにはらないだろう」という。

ウインドウズはマイクロソフトのOSである。ウインドウズ98が最後のバージョンで、次はより安定しているウインドウズNTに統一されるともいわれている。

情報社会になってパソコンが欠かせなくなったが、ソフトもハードもこう頻繁にバージョンアップされてはたまらない。確かに使いやすくはなるだろう。しかし「費用対効果」を考えると、おいそれと追随出来ない企業も多いのではないだろうか?

ともあれ、熱い自民党総裁選と対照的に、意外に静かな「ウインドウズ98日本語版」の登場と言えるかもしれない。

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◇ 夏ばて? それとも 夏風邪? 1998年07月25日 土曜日

梅雨が明けないうちに「夏ばて」だろうか? それとも夏風邪だろうか? この頃少しばて気味である。何しろ38度になってみたり、25度以下になったり気候の変化に身体の方が適応できない状態が続いている。

この気候の異変(?)も、今まで長い間人類が自然界に対して配慮がなさ過ぎた事への「自然界の逆襲」と言えるかもしれない。地球上には動物だけが生きているわけではない。植物もたくさん生きている。それだけではない、動物と植物とのかかわりが、また自然の水や空気や・・・細菌などの微生物や、鉱物のありようにまで影響を与えているようだ。人間はそれを知らないわけではない。良く知っていながら、何故か自分たちのことだけ考えて外のものに長いこと目をつぶってきた。だから、今になっていろいろほころびが出ているのだろう。

  

今からでも遅くはない。有限の地球の命を、みんなで大切にして、もっともっと美しい地球にして行きたいものである。

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◇ ウインドウズ95の再インストール 1998年07月20日 月曜日

ノートパソコンの調子がおかしくなってウインドウズ95を再インストールすることになった。

身体障害者にとってはいろいろ時間がかかりそうなので、この連休を利用して挑戦することにした。一番大変だったのはデータのバックアップである。ハードディスクをフォーマットしたらデータが全て消えてしまう。大容量のバックアップのツールを持っていないので、今回はフロッピーディスクを使った。1.2ギガインストールされている容量を全てフロッピーディスクでは大変なので、データだけバックアップをとった。使っているノートパソコンはウインドウズ95だけしかインストールされていない機種なので、使うソフトは購入したもの、シェアウェイソフト、フリーソフトともインストールし直した。

結局、土曜日一日と日曜日の半日かかった。疲れた〜。しかし、使いやすくなって満足感も湧いてきた。本を読むだけで誰に教わるわけでもないけれど、「やればできるんだ」と思った。

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◇ 「きてきて!ちゅうちゃんが返事をしたよ!」 1998年07月19日 日曜日

久しぶりに家に帰ってきていた次女が玄関で騒いでいる。妻が玄関に行くと「いまね、ちゅうちゃん!って呼んだらね、「は〜い」って返事したんだよ。」「嘘じゃないよ。本当だよ。」念のためもう一度「ちゅうちゃん!って呼んだらね、「は〜い」って返事したんだよ。」次女がびっくりした様子で興奮して説明している。しかし、ねずみが返事をするはずがない。

そのうち玄関で大笑いが起こった。「ちゅうちゃんの返事」の真相が判明したらしい。

次女が玄関の中で「ちゅうちゃん」と呼びかけたときにちょうど長女の夫君が訪ねてきたのである。彼は玄関の中からいきなり「○○ちゃん」と呼ばれたものだからとにかく「は〜い」と返事をした。しばらくしてもう一度呼ばれたからまた返事をしたようだ。

玄関のドア1枚、中と外でのとんだハプニングだった。

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◇ 「冷房」に悩まされる 1998年07月15日 水曜日

夏は冷房が鬼門である。暑いときに冷房の温度調整ができる事務室は実に有り難い。だが、反面寒すぎて悩まされることも時々あるからである。冷房を付けたとき事務室の場所によって寒さがまるで違う。また人によって温度感覚がだいぶ違うことも原因の一つである。

朝早く出勤した人が、室温を極端に低く設定してそのままにしておくと、二時間もすると筋肉が冷えて固くなってくる。私の場合車椅子を使用しているので運動量が他の人に比べると極端に少ないから、よけい感じるのかもしれない。そんなときには上着を着たり膝掛けを使う。それでも寒いときには温度を少し上げてもらう。

室温28度で部屋ごとの温度調整ができない新宿の都庁舎に勤務する人には申し訳ないような悩みかもしれない。ただ温度が低くすぎると耐えられない者もいる。それを他の人にも分かってほしいと願っている。

そういえば冷房車の扇風機はどうなっただろう? 病気になる前、夏になると冷房車に設置してある扇風機を全部回しているJRの車両に随分悩まされた。遠距離通勤のあいだ中、座っても立ってもどこにいても寒い風から逃げられないのである。たぶん良かれと思って扇風機を回しているに違いないのだが「寒すぎて迷惑に感ずる人もいる」ことがわかっていないから始末が悪い。世の中には「自分が暑いのだから他の人も暑いに違いない」と決めつけている人が多いように思う。だが人間はそれほど単純ではないのだ。だから、そんな冷房車に乗ったときは「不運だった」といつもあきらめるていた。

「寒い冬、暑い夏」という自然の摂理を人間が変えられるようになり、逆に人間の「身体」のことを忘れているのかもしれない。

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◇ 次女の夏休み旅行ーそのA 1998年07月13日 月曜日

妻へのメール:

・・・・・・・・・

お早うございます。

また 事件です。

○○○が朝ロスの空港から電話してきて、今日帰れなくなったそうです。

大韓航空の手違いで予約が入ってなくて1日遅れるということです。

勤務先にも連絡しなくてはいけないと○○○も電話口の向こうで焦っていた

ようです。

○○が電話にでて○○○と相談してくれて、今日もう1日泊まってくれることになりました。

出勤の時に○○君に今日も泊まることを話したらがっかりしていたそうです。

取りあえずお知らせまで

・・・・・・・・・・・・

妻からのメール

・・・・・・・・・

本当にいつも肝を冷やされるような事をしてくれます。

されど我が子・・。されど我が子・・。

○○が一番迷惑を被ってるわけですね。

帰ったらチャント謝るように言っておきます。

でも、怪我とかじゃなくて良かったです。

 

それから、フランス優勝・・私が千円いただき!!

 

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次女の米国旅行はいろいろ話題がある。
中学生の時にボストンにホームステェイに3週間行って来たのが最初の米国旅行だったが、この時に一騒動あった。出発の前の日なって運悪く虫垂炎の症状が出てきたのである。病院にいって医師に見て貰うと「旅行は止めたほうがいいという。」しかし楽しみに準備してきた本人は「どうしても行きたい。」といってきかない。「どうしたら行けるか?」医師に聞いたところ「今日は注射をして様子を見る。明日の出発の前にも病院によってもう一度診察を受けること。」ということになった。

翌日妻と二人で成田まで送ることにし、病院で診察して貰うともう1回注射された。そして持っていく薬を貰い、コンビニで氷を買い患部を冷やしながら成田に向かった。

成田で引率の人に事情を話して、どうしてもというときは米国で虫垂炎の手術をして貰うことをお願いし出発した。(米国では保険がきかず、旅行保険もこの場合適用されない。この頃米国では虫垂炎の手術で100万円位?)

帰ってくるまで毎日心配していたが、何とか無事にホームステェイを最後まで終えて帰国した。そして帰国3日目に虫垂炎の症状が再びでてきて、米国に行く前に見て貰った病院で手術をして貰った。

・・・今では懐かしい思い出である。

 

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◇ 次女の夏休み旅行 1998年07月10日 金曜日 雨後曇

次女が今日ロスへ出かけることになった。夜勤明けと三日間の休暇を利用して2泊4日の旅行になる。

「おとうさんちょっと旅行に行ってくるね。」と言われたのが一昨日の夜ことで、その後で次女と長女がマンションに泊まる日の打ち合わせを電話でやっていた。昨日の朝になって「おかあさんには話してあるのか?」と聞くと「話してないけど夏休み旅行に行くとはこの前言ってあるよ」という。

それじゃ今夜夜勤で明日夜勤明けに成田に直行なら、もうおかあさんに電話する時間がないことになる。「じゃあおとうさんが今日おかあさんにメールを出しておくから、今日昼休みはマンションにいるんだよ」と言って昨日は勤めに出た。

妻へのメール:

「○○○が明日からロスアンゼルスへ旅行だそうです。例によって夕べ言われました。この間は「夏休みをとって沖縄へでも行って来ようかな」と言っていたのでそんなつもりでいたのですが、ロスだそうです。今日は夜勤で明日の夜勤明け午後2時頃の便だそうです。今日は昼過ぎまでマンションに居ると言うことなので、電話してやってください。
「ロスに行くことお母さんに話したの?」って聞いたら「ううん・・旅行に行くとは言ったけど」と言うので「ちゃんと話して行ってこなくちゃ駄目じゃないか」としかっておきました。
まあ、「仕事と私の介護をきちんとやった上で休みに旅行するんじゃ・・・仕方がないか」とあきらめています。
明日は車でお願いします。夕方○○にマンションまで送ってもらって待っています。」

妻からのメール

「おはよう!!さすがお父さんの子供。私もそんな気がしていたのですが、休みが少ないのでどうかと思いました。○○○も23歳、子供じゃないんだから自分で行動にも仕事にも責任を持つと言うことでしょう。とんでる割には少し後ろ目体気持ちもあって言い出せなかったんでしょう。前のときにも言ったのですが「チャンと事前に言わなきゃ駄目だって!」
確かに子供には子供の人生があって、いつまでも親のいいなりには成らないでしょう。最後は、夫婦だけになるんですから。・・・もっと年をとって私も身体の自由が適わなくなったら、育てた利息分くらいは、親孝行してもらいましょう。そんなことより私たち、まだまだ若いんだから興味のあるものにチャレンジして行きましょうよ。
○○が、日曜日の夜泊っても良いと言ってました。とりあえず」

今朝 雨の中を妻が車できてマンションに寄った。仕事の帰りに私を乗せて家に帰るのである。「○○○が持っているカードは期限切れなのよ!」「新しいカードが家に送られてきているわ」という。○○○が期限の切れたカードをロスで使えないことを心配して携帯電話の留守電に「電話をくれるように」連絡をいれていた。

午後妻からメールが来ていた。

「○○○から電話があり、カードの期限の件は、知っていました。元気で、行ってきますとの事です。 親バカ・・だよね!!」

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◇ 姉と妹と父親 1998年07月06日 月曜日 晴

夕べは、5月から同居している次女が夜勤で、近くに住んでいる新婚の長女が代わりにマンションに泊まりに来てくれた。

今日は次女が夜勤明けでいつもより少し早めに勤務先に迎えにきてくれたが、さすがに眠そうだ。夜勤が月に八回はあるのだから、若いうちでなければ無理かもしれない。

一階通用口の観音開きのドアを開けて貰って表に出るとやはり暑い。簡易型の電動車椅子でトコトコと歩道を行くと、例の車道が歩道を横切るところに差しかかった。ここは難所である。電動車椅子でも一人では越えられない。仕方がないので車椅子の後ろをもって前輪をもちあげてもらう。こういうちょっとしたバリアがあるから一人では出歩けないのである。

マンションに着くとここのガラスのドアも観音開きのドアだ。中へはいるとエレベーターがある。だがこのエレベーターも一人では乗れない。狭いから車椅子は中では回れないので真っ直ぐはいる。真っ直ぐ入るとボタンに手が届かない。ボタンが左手になるからである。それだけでなく指定階のボタンの位置が一番上の手の届かない高いところにある。

ようやくエレベーターを降りて部屋の入り口にたどり着く。このドアも観音開きのドアだ。狭い敷地には観音開きのドアが多い。だが、身体障害者や高齢者には不便である。

マンションに帰って休んでいるところへ長女が着替えを持ちに寄った。長女の夫は帰りがいつも遅いようなので、三人でお茶を飲んでひとときを過ごす。毎週こういう日が必ずあるので、なかなか、娘が嫁いだような気がしない。

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◇ 猛暑到来!! 1998年07月05日 日曜日 晴           

早朝6時から妻が近所にある神社の草刈りに行って来た。年に数回、このあたりでもこうしてて皆が出て草刈り、空き缶拾い、用水の掃除などの協同作業をしている。夏場の作業はだいたい早朝である。

昨日は暑かった〜。夕方のテレビニュースでこの近くの熊谷で38度5分、隣の群馬県では榛名町で40度を超えたと報じていた。家の中にいてもあんなに暑いのだから、外で仕事をする人はもっともっと暑かったに違いない。本当にご苦労さまである。

これでもまだ梅雨が明けてはいないらしい。夏ばてしないように気をつけよう!

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◇ 金さん」の掲示板 を設置した 1998年07月04日 土曜日 晴

懸案にしていた金さんの掲示板を設置した。私のホーム・ページを見てくれた人が感想や意見をなんでも書いてくれればとても嬉しい。

それにしても、昨日今日と真夏のような暑さである。
昨日はこの家のある北埼地方では37度を超えたという。まだ梅雨も明けないというのにこれはいったいどうしたことだろう。

今年の夏も、二度目の脳出血で入院していた年(1994年)の夏のように、うだるような夏になるのだろうか? 

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