車椅子の視線から「随想」
(2000年1月〜6月)
◇ 「不在者投票」と「代理投票」 2000年 6月25日 |
◇ 東京都美術館へ 2000年 6月16日 |
◇ にんげんドキュメント「畳の上で死にたい」を見て 2000年 6月 1日 |
◇ 朝の長女との会話 2000年 6月 1日 |
◇ ゴールデンウィーク 2000年 5月 7日 |
◇ ミステリー(?) 2000年 4月29日 |
◇ 花見 2000年 4月 9日 |
◇ “一寸先は闇” 2000年 4月 5日 |
◇ “のどかな春” 2000年 4月 2日 |
◇ “春は忙しい” 2000年 3月25日 |
◇ これも2000年問題!? 2000年 3月 5日 |
◇ もう一つの「プレイステーション2」騒動! 2000年 3月 3日 |
◇ “あなた次第” 2000年 2月24日 |
◇ 久しぶりの雪 2000年 2月20日 |
◇ 小さな幸せ 2000年 2月13日 |
◇ あなたがいるから! 2000年 1月31日 |
◇ 暖かい一声 2000年 1月28日 |
◇ 万感のため息 2000年 1月24日 |
◇ “道”は誰のものか? 2000年 1月22日 |
◇ 障害者とインターネット 2000年 1月22日 |
◇ 年末家族旅行 2000年 1月 8日 |
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◇ 「不在者投票」と「代理投票」 2000年 6月25日 日曜日
昨日(6/24土曜日)小降りの時を選んで町の役場に「不在者投票」に行ってきました。
私の町の投票日の投票場所は小学校です。でも残念なことに、あやさんやゆうこさんの所の小学校と違って
まだ車椅子で上れるスロープがありません。
選管に電話で妻が聞いてくれたところでは係りの人が車椅子を持ち上げてくれるという
ありがたいお話もあったのですが、天気予報で投票日も一日中雨の予報がでていたので、
今回は駐車場も広く、駐車場から車椅子でスムーズに中に入れる役場で、
投票日の前日に「不在者投票」することにしたのです。
役場の中に入ると職員と立会人が数人いるだけでがらんとしていていました。
係りの人から「不在者投票」の理由を書く用紙をもらい住所氏名の先ず名前から書こうと
鉛筆を持って書こうとしたのですが、手が震えて読める字が書けません。
仕方がないので「代理投票」にすることにしました。
候補者、政党などが印刷されたボードを持ってきてくれたので、
指さして投票を補助する係りの人に投票用紙に記入してもらいました。
それを確認して投票用紙を封筒に入れてもらい、さらに投票箱に入れるのを確認して
総ての手続きが終わりました。
投票が終わると、雨の中車椅子の「不在者投票」は珍しかったのか丁重にお礼を言われ
て入口まで送られてしまいました。
※ (参考)公職選挙法 第48条(代理投票)、第49条(不在者投票)
6月16日(金)の午後 東京都美術館へ行ってきました。
インターネットの友人のふまさんから「新構造展」の招待状を送っていただいたのです。
ふまさんは「新構造」の会友でご自身も出品されているというので、
会場でぜひお会いしたいと思いメールで連絡をとってこの日にしたのです。
東京都美術館へは日展などを見に何度か行ったことがあります(病気になる前)が久しぶりです。
妻と娘が午後仕事を休んで一緒に行ってくれました。
妻の運転で上野広小路の方から車で行ったのですが、車では初めてなので
車の入口がわからずふまさんと約束した時間に少し遅れてしまいました。
東京都美術館のホーム・ページに
「駐車場はございませんので、お車での来館はご遠慮ください。 但し、身障者用の車の場合は事前にご連絡ください。 」
とでていたので、事前に妻が電話で連絡したところ「展示品搬入口の受付でわかるようにしておきます。」ということでした。
しかし、展示品搬入口の場所を確認しないで出かけたのは失敗でした。
文京区内の職場から行ったので、京成電鉄の「上野駅」の左側から上野精養軒の側を通っていけばいいや」と
思いこんでいたのに行ってみると右折禁止で美術館へは行けないのです。
仕方がないので、ぐるりと左折してもう一度不忍池の方へ降り、動物園の回りを通って
やっと芸大の並びの美術館の作品搬入口に出ました。(※ 京成電鉄「動物園駅」に近い所です。)
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約束の時間に遅れて作品搬入口から美術館に入っていくと、
車椅子を見つけてふまさんが声をかけてきました。
インターネットの友人はいいですね! お会いするのははじめてなのに、
メールのやりとりをしていたのではじめての気がしません。
ふまさんに案内していただいて展示室の会場にでると。
「新構造展」の他に「ルーベンスとその時代展」の大きな展覧会をはじめ
小さな展覧会もいくつかやっていたので平日というのに混雑していました。
でも、ふまさんが一緒だったので安心して久しぶりの芸術に楽しく触れることができました。
(ふまさん! 本当にありがとうございました。)
ふまさんのパステル画は第4室に「不意の来客」というタイトルで展示されていました。
不意の来客に視線をやる猫の目、絵からその時のドラマが伝わってくるような
素晴らしい作品でした。
(※ 「不意の来客」はふまさんのホーム・ページのgallerymenu(pastel menu)で見られます。
7/2まで池袋の芸術劇場で行われている「現代パステル画展」に初入選した作品もみれます。)
「新構造展」は作品の展示が多いですね。それも大作が多かったです。
せっかくの機会なので、全部一通り見てきました。
パステル画というのは、金さんのような素人が見ると、油絵と区別が難しいですね。
その後「ルーベンスとその時代展」も見てきました。
こちらには車椅子の人も2〜3人きていました。
思ったより混んでいましたが平日だったので車椅子でも十分鑑賞することができました。
今回が日本では初公開の作品もじっくり観ることができました。
「ルーベンスとその時代展」は、障害者と介助者1名は身体障害者手帳を提示すれば無料でした。
鑑賞が終わってから、
上野の森が見える2階の食堂でふまさんと4人でお茶をしていろいろお話しました。
その後真っ直ぐ埼玉の家に帰りましたが、
久しぶりの人混みに疲れたのか? 久しぶりの芸術に圧倒されたのか?
少し疲れました。
おかげで、この日は早めにぐっすりと寝てしまいました。
でも、心地よい疲れでしたね!
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◇ にんげんドキュメント「畳の上で死にたい」を見て 2000年 6月 1日
NHK総合テレビで午後9:15〜10:00まで、にんげんドキュメント「畳の上で死にたい」を見た。
介護保健法が今年(2000年)4月から施行されている。
各地から今まで受けていたサービスが受けられなくなったというニュースも耳にする。
介護保健法と家族の関わりについても議論が多い。
私も家族の連携に支えられて今日まで何とか生きてきたが、定年が近づいた今、将来、
夫婦共に勤めを辞めた後のことを考えると不安もいっぱい残っている。
長野県出身の私も泰阜村には行ったことがない。
だが映像を見ていると同じような地区が私の生まれた故郷にもいくつかあった。
ただテレビで見た泰阜村のように在宅介護への取り組みがいま進んでいるかどうかは不明である。
泰阜村の在宅介護への取り組みが、道路を舗装することを先送りするなど、
他の施策と引き替えに行われていることは考えさせられる。
山地が多く村落も点々とあるだけの泰阜村では、限られた財源をどう使うか?は議論のあったことであろう。
結果として「住み慣れた村の自分の家で暮らし続け最期もこの家で迎えたい。」という
村民の希望を重視する選択をしたのは賢明な選択だったと思う。
人間にとって幸せな老いとは? 幸せな死とは? いったい何だろうか?
そして、行政の施策の選択はどうあるべきか?
「民主主義の学校」といわれる地方自治のありようをかいま見て
ドラマに表れないところまで深く考えさせされるドラマであった。
長女夫婦と同じマンションに暮らすようになってから、長女がつくってくれるお弁当を毎日持って出勤します。
この日は、お弁当がありませんでした。
私 「今日はお弁当どうしたの?」
長女 「お米が無いんだよ〜!」
私 「お米だったらお隣のコンビニで売っているよ」
長女 「・・・」絶句
私 「冗談だよ、冗談!お母さんに明日持ってくるようにメール出しておくよ」
長女 ・・・笑顔・・・
家の娘たちは、家でお米を作っているので
まだお店でお米を買ったことが無いようです。
結婚している長女も、お米はお母さんが持ってきてくれるのが当然と思っているようです。
長女 「だってお米高いんだもの!」
妻は、「お父さんがお世話になっているからあたりまえ」
といっています。
家で食べるだけでもお米をつくれるのは実に有り難いことですね。
5月の連休中妻は田んぼの仕事で大忙しです。
というのは、連休中に近所の人に田植えをしてもらうからです。
田植えは15年前と違って機械植えになり、なわしろ【苗代】 (※稲の種をまいて苗を育てる所。苗代田。田植えが機械化
された現在は育苗箱が多く用いられる。)で早苗を育てたりする手間がなくなり、随分楽になったのですが、今でも田植え
の前に草を取って畦(※あぜ :土を盛り上げて作った、田と田の境。くろ。)を付けたり、水を引いたりする作業が欠かせ
ません。
田植えの前にしろかき(水田に水を引き入れ、土を砕き、ならして田植えの準備をすること)を田植えの一日前ぐらいに
やってもらっておきますがその準備もあります。
そんなわけでゴールデンウィークはまさに黄金色のお米を採るための準備の真っ最中なのです。
妻はこの土地で生まれここで育っているので、勤めが休みの時に農作業をするのは、一向に苦にならないばかりか
楽しいようです。
私も脳出血で倒れる前には、妻と一緒に手植えで田植えをやっていましたが
水曜日ぐらいまで、腰が痛かったように思います?
ともあれ、5月7日日曜日の午前中に陸田の田植えが無事終わりました。
◇ ミステリー(?)・・・免許証の更新・・・ 2000年 4月29日 土曜日
4月16日の日曜日車の免許証の更新に使う写真を撮ろうと
息子に妻と二人隣の市にある行きつけの書店に連れていってもらった。
車を降りて車椅子に乗ると風が強いので寒く感ずる。
昨夜は雨で書店の外にある写真を撮る無人のボックスの周辺には水たまりができていた。
4点杖を忘れたので妻に手を引いてもらったが水たまりを避けるのでなかなか中に入れない。
それでもようやくにしてボックスのイスに腰を下ろして ・・・ ホッとした。
息子は私たちを残してさっさと一人で書店の中に入っていた。
お金を入れようと正面の薄暗いガラスの中を見ると何か文字が見える。
「ただいま故障中 連絡先電話○○○○○○」と書いてあるではないか。
「おかあさん これ 故障しているよ!」
素っ頓狂な声でボックスの外にいた妻を呼ぶ。
「仕方がないわねえ どこか他へ行ってみる?」 妻が答えた。
ここが駄目なら、あとはダイエーか駅ビルにでも行ってみるしかないか?
と思ったが、自然と浮かない気分になっているのが自分でもわかる。
仕方がないので、もう一度苦労して車椅子に乗った。
その時である。にわかにお腹が痛くなった。
差し込むような痛みが襲ってきた。
「お腹が痛いよ〜! 早く家に帰ろう!」 私はわがままなだだっ子になっていた。
妻は車椅子を押して急いで車にいき私を乗せると店内に入っている息子を呼んできた。
真っ直ぐ家に戻ってトイレに入ると気持ちが幾分落ち着いてきた。
心配した腹痛も下痢とともにおさまった。
だが、もう一度写真を撮りに行く元気はない。
「一休みしたら家のカメラで2,3枚撮影してコンビニへ持っていくわ!」
妻がそういったので安心していつもの昼寝をした。
昼寝のあと壁をバックに写真を撮ってもらった。
夕方いつも通り入浴してその後軽く食事を済ませてから
妻の車で東京のマンションに送ってもらった。
妻はまた埼玉の家にとんぼ返りである。
10時過ぎて妻から電話がかかってきた。
「いま着いたよ〜、今日は疲れているから早く寝なさい!」
その短い電話の途中に急に思い出した。
「そういえば机の引き出しの奥に免許証が入っているから 見てくれる」
来週免許証の更新に行こうというのに 肝心の免許証を見ていないことに気が付いたのである。
免許証の更新の前には交通安全協会から更新のお知らせがくるはずだったが
今回はそれも見ていなかった。
前回、5年間のゴールドカードをもらっていたので、
更新してからもうだいぶ経っている。
「もしかして 更新は来年ではないだろうか?」
ふっと・・・そんな気がしたのである。
そういえば前回の更新後一度も運転をしていない。
免許証も更新したとき一度見ただけで机の奥にしまいこんで
それっきり一度も見ていなかった。
前回は2度目の脳出血で休職中に更新したのだった。
それも東京の病院の外来に行った帰りに
埼玉県の鴻巣市にある免許センターに回って更新したので相当疲れていた。
疲れているとてきめん表情に現れる。
免許証の写真写りが見るからに病人病人していた。
その写真を自分でもあまり見たくなかったので机の奧にしまい込んだのである。
「じゃあ今晩見ておくから明日の朝電話するわ」
翌朝妻の電話の声が弾んでいる。
「来年だったわよ〜!」
今になって思うと
あの日、書店の外にある写真を撮る無人のボックスが故障していなかったら ?
故障していても急に腹痛を起こさなかったら ?
電話中に免許証の確認を思いつかなかったら ?
きっと、鴻巣市にある免許センターに行ってから
「あなたの更新は来年ですよ!」
と係員にいわれるまで気が付かなかったかも知れない。
週末は混雑するから休暇を取って妻に連れていってもらう予定だったので
事前に気が付いたのは実に幸運だった。
「これはきっと不思議な力が働いたんだよ!」
私が真剣な声で妻にいうと
「えッ! 一年間違えるなんて おとうさんが呆けていただけじゃないの?」
と妻が電話の向こうで笑っていた。
しかし、私は今でも 不思議な力が働いたと思っている。
ともあれ 大騒ぎをしたけれど、一件落着である。
「カスリーン公園」に妻に花見に連れていってもらいました。
「カスリーン公園」に行く前に実は裏話があります。
最初、花見は「権現堂堤」(埼玉県幸手市)に行く予定でした。
堤の上に一kmもの桜並木がつづいている桜の名所です。
埼玉の家から車で20分ちょっとと近いのですが
お花見は娘たちがまだ幼い頃(20年位前)にいったきりです。
急に行きたくなったのにはわけがあります。
二、三日前の朝、NHKで「権現堂堤」が放映されていました。
その時に見た堤の桜と堤の下の畑に咲く菜の花の色合いが実に見事でした。
そこで、天気も好いので混まないうちに写真を撮ろうと思いたったのです。
ところが着いてびっくり、読みが完全に外れました。
まだ朝の8時前だというのに車がいっぱいです。
桜並木の中が草道から舗装に変わっているのをテレビで見て、車椅子でも行けるから
のんびり写真を撮りながら散策するのも悪くないと考えたのです。
「車椅子の散策」私のはかない春の夢は「夢のまた夢」に終わりました。
こんな時間からここが花見客でいっぱいとはそれこそ夢にも思いませんでした。
どうやら私の脳の中で、体内時計が二十年のタイム差をうっかりしていたようです。
それにしても日本人はどうしてお花見がそんなに好きなのでしょう?
ぱっと咲いてぱっと散る桜に潔さを感じるからでしょうか?
それとも、花見はそれほどお金をかけないで楽しめるところが
不景気の今の時代にあっているから人気なのでしょうか?
仕方がないので急遽予定を変えて、利根川の土手の「カスリーン公園」に行ったのです。
ここは戦後まもなくの頃「カスリーン台風」で利根川が決壊して大きな被害を出したとき
利根川が決壊した場所の跡を公園にしたところです。
あの決壊で利根川の水が埼玉県、東京都と流れてはるか東京湾まで達したそうです。
決壊した所には記念碑が建っています。
(カスリーン公園の桜)
カスリーン公園の桜は、土手下に十数本あるだけですが、満開で綺麗でした。
私たち夫婦のほかには誰もきていないのも気に入りました。
人混みの花見も悪くありませんが
車椅子でものんびりできるこんな花見も良いものです。
土手の向こうに利根川がキラキラと陽を受けて流れていました。
政界にある“一寸先は闇”という言葉がまたしても現実のものになった。
小渕総理が脳梗塞で倒れ内閣が総辞職すると先週まで誰ひとり予想もしなかったに違いない。
夕べ帰宅途中の妻が例によって電話をかけてきた。
緊急時にも連絡できるようにとお互いに携帯電話を持つようになったのは今年になってからのことである。
以来毎日帰宅途中の電話が日課になった。
電話で言葉をゆっくり話すことは言語障害の訓練にも多少の効果があるのではないか?
という淡い期待も・・・ある。
「小渕さんまだこん睡状態が続いているようだね、あの時のことを思うととても人ごととは思えないよ・・・」
なんだか妻の声が涙声になっている。
「おとうさんは ほんとうに・・・よくぞここまで回復したよ!」
「決して無理しちゃだめだよ!おやすみ」
そう一人でしゃべると電話が切れた。
電話の向こうで上野駅の発車のベルが鳴っている。
私が2回目の脳出血で倒れたときのことを思い出して感無量だったのだろう。
家から救急車で運ばれた病院で意識不明のこん睡状態がつづき、
ICUもない病院だったので救命のために東京の病院へ転院させる話が
私の友人と妻の間で進んでいた。
その決断、そして移送、もしものことを心配して
移送の車には私の兄姉にも同乗してもらったという。
転院先の都立大久保病院の脳外科部長から「予断を許さない状況」
といわれたときのことを小渕さんの病状に重ねて思い出したのだろうか?
命を取り留めてからも、「寝たきりになるかも知れない?」といわれ
一瞬目の前が真っ暗になったという。
脳外科部長の言葉も決して大げさではなかった。
出血した場所が生命の維持機能を司る脳幹部といわれるところだったからである。
「もう髪の毛一本出血場所がずれていたら即死だった」とも言われたという。
そうなると、私の場合はもう「運」以外の何者でもなかったのだろう。
そうとも知らず、そのとき私は眠り続けていた。
小渕さん、生きて欲しい!
そう願うばかりである。
朝早くから書斎の窓越しに「パチ、パチ」と竹を燃す音が聞こえる。
まだ寒い季節に枯れた竹を竹林から切り出して燃すのは私の仕事だったが、車椅子生活になってから、
その楽しみを妻に奪われてしまった。
十時に上がってお茶を入れてきた妻が
「お金がかからなくて楽しいねえ! まだ外でやる仕事がいっぱいある!」
と弾んだ声で言った。
ここは、妻が生まれそだった故郷だ。
夫婦とも定年が近くなったが、
生まれ故郷で老後も暮らせるのは・・・・・幸せに違いない。
今年の3月は例年になく忙しい! 住んでいるマンションの部屋を移ることになったからだ。
車椅子で復職が決まって、職場に近い所にマンションを借りて7月で4年になる。
4年前、復職・転勤の辞令をもらいに車椅子の私に妻が付き添いで新宿の都庁舎に行った。
マンションに帰ってぐったり疲れて横になった私を見て、妻は「これでは1つき(月)持たないだろう?」と
内心思ったそうである。 ところが、この予想は見事にはずれた。
自分でも驚くほど車椅子生活の私は年々図太くなっていった。
はじめの2年間はマンションに長女が同居して、面倒を見てくれた。
ベッドから続けて3回も落ちたり、四点杖で洗面に行って転倒したりしたのはこの頃である。
その長女が、恐る恐る「結婚させてくれ」と私にいったのが2年前、
長女の行く末を案じていた私と妻が賛成して、長女は結婚した。
長女と交代して次女がマンションに一緒に住んでくれた。
次女は米国に何度もホームステイして英語が得意だったので、
ホテルのオペレーターの仕事に付いていた。
外国人のお客さんが多いホテルも、自前のオペレーターをおかないで次女がいるような専門会社に
委託(派遣職員)するところがだんだん増えてきて、次女のシフト(勤務表)が不規則になった。
年頃の娘を、父親の介護にいつまでも縛り付けておけない。
それが心配で「いつか開放してやろう」と思っていたら、長女夫婦が「一緒に住んでもいいよ」と言ってくれた。
本当にありがたいと思った。(今時珍しいできた娘だ!)
「定年までそう長くはないのだから、勤めている間はまた長女の世話になろう」と同居が決まった。
こうして、3人住めるマンションと、次女が一人で住むマンション探しが始まった。
部屋探しに威力を発揮したのがインターネットである。
沿線、間取り、賃料などを入力して不動産屋にメールして部屋を探した。
運良く、全く運良く今住んでいるマンションの最上階がインターネットで見つかり
長女夫婦が先週の日曜日に越してきた。
次女の部屋も地下鉄の隣の駅に近い所に見つかった。ここから歩いても20分位だという。
明日の日曜日に、妻と長男の応援で私が上に引っ越していく。
次女は引っ越し先のマンションのリフォームが済む4月上旬に越していくことになっている。
ああ! 春は忙しい!!
昨日ホーム・ページの更新の際「2000年03月04日土曜日」を「2000年03月05日土曜日」で更新するところだった。
理由は私の部屋にはカレンダーがないので、腕時計で日にちの確認をしていたためである。
腕時計は03月05日土曜日となっていた。
私の腕時計は、5000円ほどのカシオのデジタルの時計でもう7年も前から使っている。
時計というものは実に面白いと思う。何十万もする時計も何千円の時計も時間の進むのは同じスピードである。
だから私はカシオの安いデジタルの時計を愛用していた。
その時計が昨日の「03月04日土曜日」に「03月05日土曜日」になっていたのである。
時計が閏年には補正して使うことをうっかり忘れていた「2000年問題!?」であった。
◇ もう一つの「プレイステーション2」騒動! 2000年 3月 3日
ゲーム機「プレイステーション2」は3月4日に一斉発売されるが、予約が殺到していると聞いて、少しでも早くこのゲーム機
を手に入れようとする若者が東京・秋葉原の電気街では今朝(3日)の早朝 から、大型量販店前に既に50、60人の行列が
できているという。
その「プレイステーション・ドットコムで顧客情報流出」というニュースが昨日流れた。
「プレイステーション2、および、ソフト、周辺機器などの関連商品をインターネットを通じて直販する「プレイステーション・
ドットコム」で、顧客情報が流出していたことが発覚した。具体的な流出件数などは、現在、ソニー・コンピュータエンタ
テインメント(SCEI)とシステム構築を担当している日本IBMで調査中。」
という内容である。
私も息子のために予約していたので、「氏名」、「住所」、「買い物内容」、「クレジットカード番号」などが、流出したのでは
ないかと内心心配していた。
ところが夕べ遅くプレイステーション・ドットコム・ジャパン株式会社からメールが入り一安心した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お客様情報への不正アクセスの件
拝啓 プレイステーション・ドットコム・ジャパンのショッピングサイトをご利用頂き、まことにありがとうございます。
さて、当社サイト(www.jp.playstation.com)において、お客様よりご提供いただいた情報の一部に不正アクセスが
発生した件ですが、当社にて調査したところ、お預かりしているデータに関しては、一部のお客様を除いて問題が
無いことが判明致しました。
不正なアクセスが発生した可能性のあるお客様には、別途個別にメールとお電話で、事実のご報告と、お詫びを
申し上げております。
また、万が一不正アクセスを受けた場合でも、その内容は、お客様のお名前お届先住所などの商品の配送に関
するデータのみであり、クレジットカード番号あるいはお客様の電話番号などのデータに不正なアクセスがなされて
いないことが確認されております。
お客様には、たいへんご迷惑をおかけしておりますが、当社としてこの件に関しては、以下の通りの対処を行って
おりますので、何とぞご理解を頂きたく、ご報告申し上げます。
・・・・・・・・・後 略・・・・・・・・・
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※ 「プレイステーション2」のインターネット直販の予約者名簿が閲覧でき
る状態になった問題で、
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の発表によると、リスト
が見られたのは266人分で、
44人が不正にアクセスして閲覧していたという。被害者の266人には電話や電子メールで既に謝罪
の連絡もしているという。
また不正にアクセスした者には「意図的攻撃でなく当社のミスであり、訴えるのは難しい」としながら
も何ら かの対応を検討しているようだ。
インターネットでの商取引は、便利な反面こういうセキュリティーに今一つ不安があるので、私は本の購入
などでの支払方法に、クレジットカード、郵便振替など選択ができるときには極力郵便振替などを選択する
ようにしている。
「今日は関東の平野部も雪が積もるかもしれない」
という予報が出ている中を車椅子は、朝7時半に職場のあるビルに着いた。
娘の勤務がシフト制で不規則だから、夜勤の他に毎月何回かこういう早い出勤がある。
娘も大変だが娘に時間を合わせる私も大変である。
この時間は正面玄関の自動ドアはまだ閉まっているので、
早く出勤した職員はセキュリティー・カードで通用口を開けて中に入らなければならない。
バリアフリーのビルとはいえ、それは勤務時間内の話で、
それ以外の時間はしっかりとバリアが張られている。
通用口は片開きで車椅子の私には自分で開けることができないので娘に開けて貰って中に入る。
私のいる事務室は6Fだから更にエレベーターを使う。
ここのエレベーターは広いので電動車椅子でも楽に中で回転できるので、
娘は1Fのエレベーターまで送ってくれる。娘も8時半から勤務につくので忙しいのである。
エレベーターで6Fに上がると、あいにく今日はいつも早い再雇用職員のMさんがお休みらしい。
事務室がまだ閉まっている。
そんなときは早番の職員が出勤する8時半まで
事務室の前のラウンジで待つことにしている。
今朝は寒かったのでラウンジもまだ暖まっていない。
携帯ラジオを聞きながらのんびりと待っていると
8時25分に早番のAさんが出勤してきた。
「お早うございます。 今開けます」
「お早うございます。」
朝の挨拶を交わしながら「やれやれやっと事務室に入れる。」と安堵感で少し暖かくなった。
いつも、“あなた次第”の私である。
「今日は関東の平野部も雪が積もるかもしれない」という予報が出ていたので、
午前十時頃にみぞれが雪に代わり庭の芝生が雪でうっすらと白くなりかけた頃には
すっかり覚悟ができていた。
雪が積もったら無理をしてマンションに帰らないで、積雪の状況次第では
車椅子の出勤はあきらめて明日お休みをいただこう。と思っていたのである。
それが、何故だろう。昼過ぎには雪が止んでしまった。
つづいて庭の雪も瞬く間に解けてしまった。
やはりマンションに帰れということだろうと
昼風呂に入れてもらった。
週末の楽しみの一つが入浴である。
妻が髪を切り、髭を剃ってくれる。
その後で洗髪と背中を流してもらう。
冬の寒い時期だけ、入浴を昼間にしてもらっている。
入浴の後は昼寝である。
これも楽しみの一つである。
入浴後は疲れるのであろう。ぐっすりと昼寝ができる。
昼寝が終わると妻とコーヒータイム。
これがまた美味しい。
ここでは 時間もゆっくりと進んでいるようだ。
こうして私は車椅子生活を楽しんでいるが、
妻はニコッと笑って 「いつまでつづくぬかるみぞ!」 と冗談のように言う。
3連休の真ん中の土曜日、長女から久しぶりに埼玉の家に帰ってくると電話があった。
いや正確には夫婦で夫の実家に帰る用事があるので、先に長女がうちに来ていて、仕事が
終わってからくる夫とうちで落ち合うのだという。
妻がおばあちゃんの洗濯物を病院に届けてから、嬉しそうに駅へ長女を迎えに行った。
長女が例年のように私と長男にチョコレートの包みを持ってきてくれた。
そういえば、明後日がバレンタインデーである。
不景気でバレンタインデーの騒ぎもすっかり様変わりしているが
うちの娘たちは毎年チョコレートを忘れない。
私のはブランデーのたっぷり入ったチョコだという。
開けてみると二つ入っていたので、妻と山分けにして仲良く食べた。
幸せな気分と一緒に口の中がブランデーの芳醇な香りで一杯になった。
日曜日の夕方、長女夫婦と一緒にマンションに戻ると
次女がお茶の準備をして待っていた。
「おとうさん バレンタインデーおめでとう!」
嬉しいことに明日の前祝いだという。
チョコレートは明日の楽しみに残して
五人でコーヒーをいただいた。
娘たちに囲まれて妻と二人幸せな気分だった。
「おとうさんは 幸せだよ」 妻が言った。
週末から夫婦ともに風邪(インフルエンザ?)に悩まされました。
咳と熱(37度8分)があります。
多分、年末年始の疲れがたまっていたのと、このところの気候(寒暖の変化の激しさ)に身体が対応できなく
なっていたのでしょう。それとも、歳をとったということでしょうか?
夕べ妻は風邪薬を飲んで先に休みましたが、私は10時からNHKで今話題の「ハッカー」の番組を放送するという
ので、ベッドの中で見てから寝ようと、うとうとしていました。
妻の調子が、今日(31日)埼玉の家から東京の病院まで車の運転に耐えられるか心配だったのですが、
朝私が起きると、妻が先に起きてもう出かける準備をしていました。
月曜日は笹目橋がいつもこんで渋滞するので「混む前に病院までいって着いてから朝食にしよう」
と相談して埼玉の家を6時前に出発しました。
高速道路もこの時間はさすがに空いていて7時過ぎには東京のO病院に着いてしまいました。
院内の外来のライトがまだついていません。ちょっと早すぎたようです。
予約の時間が9時半ですから2時間以上あります。
妻が病院の近くのコンビニへいってお茶とパンを買ってきてくれたので、
車の中で食べることにしました。車中で食事をとっている仲間が外にもいます。
7時15分には早くも病院の職員の出勤が続いています。
正面玄関でない職員用の出入り口から中へどんどん入っていきます。
看護婦など技術系の職員が多いようです。再雇用のSさんの姿も7時半には見えました。
8時に病院の地下一階にあるラウンジの丸いテーブル席に行って二人とも目をつむっていました。
清掃のおじさんがきてテーブルをきれいに拭いていました。
診察を待つ人も増えてきています。
9時に1階にある内科の外来へ移動して待つことにしました。
もう、予約制とはいえ大勢の患者が待っています。
早い先生は9時から外来が始まりますが、私のH先生は始まるのがいつも9時15分を過ぎてからです。
9時45分頃診察室に呼ばれました。血圧は120台:80台と理想的です。
ただ、このところ薬疹(?)のようなものが出て痒いことがあったのでH先生に相談して
薬を減らして様子を見ることにしました。
ここの病院は院外処方なので、妻が会計を済ませてから病院の近くにある薬局に処方箋をもって
薬をもらいに行きます。
すべて済ませてからマンションに寄り背広に着替えをして出勤しました。
妻はこの日そのまま車で埼玉の家に戻りました。
今日は一日勤めをお休みするそうです。(後日聞いたところ帰宅後風邪薬を飲んで寝ていたそうです。)
幸い今日は妻が病院に一緒に来てくれましたが、もしも妻が病気にでもなったら、
一人で病院にくる方法を考えなければなりません。
「妻がいなければ私は何処にも行けないんだ!」という気持ちから
妻に「あまり無理をさせないようにしょう!」と心の中で思うのでした。
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今週は実に寒かった。身体の芯から寒かった。
2度の脳出血で手足が不自由になってから体中の血の巡りが悪くなったようである。
特に四六時中しびれて痛い左手がきつい。
寒いので肘から先がいつもより余計痛い。
背中に張ったホカロンがわずかに救いで身体を暖めてくれる。
午後6時、娘が迎えにきた。
車椅子生活になったのは苦にしていないが、エレベーターや手で開けるドアの
ために娘の送り迎えが日課になってしまったのが気がかりである。。
今日は金曜日の夕方である。
「ああ!今週も終わった」という何ともいえない安堵感が胸に迫る。
春日通りを走ってきた車がウインカーを出して左折の合図をしている。
歩道を車道が横切るところが、車椅子には一番危険だ。
電動車椅子のレバーを操作して車が通り過ぎるのを待っていると
「どうもすみません!」
黒猫ヤマトの宅急便の運転手さんが、窓から声をかけていった。
寒い一日だったが運転席の温もりを分けてもらったようで嬉しかった。
来週も頑張っていこう。
昨日の大相撲初場所の千秋楽の相撲で忘れられない光景があった。
それは関脇貴ノ浪が千代天山に勝ったその勝負のついた直後の光景である。
この一番に勝てば大関に復帰できると渾身の力を使い果たしたのか勝った貴ノ浪も一瞬立ち上がれないでいる。
やがて「フ〜!」と頬を大きく膨らまて一息つくとやっと立ち上がった。
それは「長い15日間がようやく終わった。これで“大関”に復帰して来場所の相撲が取れる。」という安堵感だったのか?
それとも「大関陥落場所の15日間のストレスのすべてを吐き出した」のか? それはわからない。
万感のこもった貴ノ浪のため息(「フ〜!」)であった。
“道”について改めて考えてみた。
車椅子で通勤していると時々 「“道”は誰のものか?」 と考えてはいたが辞書を開いて考えたのははじめてである。
と出ている、“道”とは、人だけでなく動物が往来するものだったらしい。
この「動物」の中には馬や牛などがいたのだろうか?
それがいつの頃からか“道”から動物の姿が見えなくなり「土」が「コンクリート」や「アスファルト」に変わった。
これは自動車の発明によるところが大きいように思われる。
文明の進歩は“道”から動物を駆逐した。
その人間が、今度は人間が発明した「自動車」の奴隷(?)になって、“道”から人間を追い飛ばしている。
その昔(といってもそんなに古いことではない。)“道”を往来する人に気兼ねして走りだした自動車が、
いつの間にか“道”を占領して人間を駆逐したように思える。
いま“道”の真ん中を自動車が快適に走り、人は“道”の端っこを申し訳なさそうに恐る恐る歩く始末である。
それが、この頃やっとこの現状を改めようという兆しも見え始め、「福祉のまちづくり」計画を
条例(都道府県や市町村などの地方公共団体が、議会の議決などにより自主的に制定する法規。)を制定して
・ ノーマライゼーションを基本とした福祉のまちづくり
・ バリアフリーを推進する福祉のまちづくり
・ 生活者の視点に立った福祉のまちづくり
・・・・・・など、など
具体化しようとする動きがではじめた。
いろいろなところで“道”には歩道を付けるようになってきた。
だが、どうしてだろう。
まだまだこの動きは始まったばかりであり理想にはほど遠い。
私が住んでいるマンションの前も歩道の整備が一年前に終わったばかりだというのに、
自動車に気兼ねさせられているのは人間である。
歩道を横切る車道は平らな“道”に整備されて自動車が快適に走っているのに
歩道を往来する車椅子や乳母車や自転車は歩道を横切る車道との段差を毎回苦労して上り下りしている。
昔 “手をあげて横断歩道を渡ろうよ”と歩行者の人に呼びかけていた。
本来は、こういう交通標語も歩行者の人にではなく“歩行者が渡りきるまで動かない” というように
車の運転者に注意を呼びかける方向へ変わらなければいけないのに、
まだまだ人は「自動車の奴隷」から抜けきれないでいる。
悲しいことである。
私のような四肢麻痺の障害者にとってはインターネットは便利なツール(道具)である。
「言語障害があり思うようにしゃべれない」
「上肢障害があり文字が書けない」
「下肢障害があり車椅子を使わなければ外に出られない」
という、考えてみれば悲惨な状況をそれほど深刻になることもなく明るく暮らしていけるのも、インターネットのお陰である。
家に居ながらにして世界のあらゆる分野の欲しい情報を集めることができるだけでなく、
電子メールや自分のホーム・ページの掲示板を通じて友人からの毎日情報も入ってくる。
まるで、夢のような電脳世界がいま自分の日常になっている。
それだけではない。
少しばかりパソコンやインターネットに早く取り組んだお陰で、これからパソコンやインターネットに
取り組もうという初心者の方に相談に乗ることも多くなった。
一種のボランティア活動が私にもできるのである。
いまボランティアでやっている「金さんのホーム・ページ学院」にも
自分のホーム・ページを持ちたいという人が数名全国各地から入学して自分のホーム・ページづくりに挑戦している。
そのお手伝いもできるのである。
障害者(自分)による障害者(健常者も希にいます)へのボランティアだから
自分の日常生活の負担にならないように「できることを できる範囲内で」という軽い気持ちでやっているのが良いのかも知れない。
「負担にならないように応援してもらったら」という意見はTさんからいただいた。いまこれが気持ちの上でも随分楽になっている。
Tさんどうもありがとう。
嬉しいことにこの主旨に賛同してくれる人もハックさん、みっちょマンさん、好日庵さんと増えてきた。
インターネットは健常者だけのものじゃない! いや、障害のある人にこそより必要なものなのだ!
多くの人に是非それを知って欲しいと思っている。
自分もそのためにささやかなボランティア活動を続けていこうと思う。
これを書きながら、好き勝手なインターネットの生活を文句一ついわないで許してくれている妻の顔を思い出した。
妻には心から感謝したい。
そして、5年前の2回目の脳出血で自分が車椅子の障害者になった運命にも感謝したいと思う。
(もし、元気だったら、多分インターネットも知らず、家族も顧みることもなく、毎日夜遅くまで働いていただろうと思う??)
1999年の年末(29,30,31)家族揃って伊豆下田に旅行した。
3人の子供たちと家族そろっての旅行は12年ぶりである。
12月29日は快晴、マンションで長女夫婦と埼玉の家から長男と二人オデッセイに乗ってくる妻を待つ。
首都高も東名も思ったよりすいている。富士山がまぶしかった。
沼津で東名を降りて国道を少し戻り天城峠に向かう。
途中「イノシシ村」に寄ってお昼を食べた。
「イノシシ村」にも車椅子で入れるトイレがあったのが嬉しかった。
天城峠を越えるとループ橋がありグルグル回るようにして一気に降りていく。
昔の踊り子たちが苦労して峠を越えたのが思い出される。
ループ橋を過ぎて川沿いの道を河津町まで降りてくると海が見えた。
太平洋である。 沖合に大島が霞んで見えた。
(東名から富士を見る)
何年かぶりの下田の街は私の目には変わりないように思えた。
明るい陽ざし受けて歴史が静かに流れている。
私も1回目の脳出血で倒れた後、家族旅行のために会員制のクラブの会員になっていたが
何年も利用していなかったので下田の海が見たかった。
ホテルに着くと息子が言った。
「あれ! なんだか小さくなったようだなあ?」
無理もない。この前に来たときはまだ小学生だったのだから。
ホテルは変わらないけれど自分が大きくなって相対的に相手が小さくなった
ように感じたのだろう。
(下田のホテル=絵はがきより)
部屋は7Fだった。
車椅子のまま私が利用できるように妻がセミスイートルームを予約してくれた部屋である。
優に12畳はある洋間にベット2つとテーブル、それに8畳(?)の和室がついている。
次女と長男が和室に、洋間を私たちがつかうことにした。
セミスイートルームの隣に長女夫婦の部屋を予約していた。
前日夜勤の次女が伊豆急の“踊り子号”で少し遅れてホテルに着いた。
疲れているようだった。
(ホテルの部屋で妻と)
部屋の風呂は檜風呂で冬でも手触りが暖かいのが気に入ったが、このホテルはバリアフリーのホテルではなく
トイレには車椅子で入れないために妻や次女に手を引いてもらわなければならなかった。
これから作るリゾートホテルは、例え一部屋でもバリアフリーの部屋と、ホテル内の施設のバリアフリー化に努めてほしいと思った。
妻と子供達は大ブロ、洞窟風呂などで楽しんだようだ。
私は妻と図書室やトレイニングルームへ行ってみた。
食事は和食と洋食があり1日目は和食、2日目は洋食にした。
どちらも料理は美味しかった。
朝食は和食、洋食の料理から自分で選べるバイキング方式でこれも結構美味しい。
(ホテルで長女夫婦、次女と)
夕方部屋から見る海はおだやかだった。
あれは利島だろうか?遠くに伊豆七島の島影が見える。
30日はフリーの日にしていた。
長女夫婦は下田の市内へ
私たち夫婦と次女と息子は石廊崎のジャングルパークに行ってみた。
伊豆半島の最南端にる石廊崎のジャングルパークは車椅子でも途中まで行けたが
寒かったので妻と二人引き返して入口近くの土産物屋 のおばあさんの所で甘酒を
飲みながら待っていた。
31日は、天気も良いし道路もあまり混んでいないので途中まで東海岸を行き伊豆スカイラインを通り、箱根にでて帰ることになった。
海を見ながら快調に走っていたが熱川を過ぎると渋滞してきた。
伊豆スカイラインに入った頃から後部座席の長女が気持ちが悪いと言いだし、真ん中の席の次女と助手席の長男が長女夫婦に席を
替わってあげた。少し休んで十国峠を通り芦ノ湖畔から箱根駅伝のコースを下ってくると、
カーブの多いコースで今度は次女が気持ち悪くなった。寝不足と温泉に入りすぎもあったらしい。
ゆっくりと小田原に出て厚木街道から東名に入りサービスエリアで休憩しながら帰った。
結局東京のマンション着いたのは6時頃であった。
1999年の年末家族旅行、楽しいことも苦しいことも経験する旅行になった。
いろいろ反省することも多い。
しかし、子供達と一緒の旅行がこれで最後かも知れないと思うと、ただ、楽しいだけの旅行より良かったのかも知れない。