車椅子の視線から「随想」 


(2001年 7月 〜 12月)


 目次

◇ 外にでたい!! 2001.12.17 

◇ テロの犠牲になった障害者  2001.11.16

◇ 秩父ドライブの旅  2001.10.31 

◇ 久しぶりの浅草  2001.10.16 

◇ 2001東北旅行  2001.9.26 

◇ 同時多発テロ  2001.9.15 

◇ 娘の結婚  2001.8.22 

◇ 四肢マヒ者の参議院選投票  2001.8.1 

◇ 欠格条項の見直し  2001.7.18 

◇ 卒業祝いの会  2001.7.16 

 100日経ちました  2001.7.10 

 「クローズアップ現代」をみて 2001.7.5 

 どう思いますか? 2001.7.5 


◇ 外にでたい!! 2001.12.17(月)

3月末に東京から埼玉の家に戻ってきて、一人でいる機会が多くなりました。

家は、バリアフリーに配慮して建てていないため、2週間も、3週間も、

家の中から全く外に出ない日が続くことも少なくありません。

金さんも晴れた日には外にでたいのです。

鍵をかけて何日も一日中家の中にいるのは、健康にも良くありません。

そこで、思い切って車椅子でも庭に出られるスロープを付けることにしました。

工務店に相談して、廊下から出られるウッドデッキを先ず作り、

そこからスロープを付けることにしたのです。

同時に、部屋と廊下の間の段差も無くして、車椅子の移動が楽にできるように

床を張り替えて平らにする工事も一緒にやってもらうことにしました。

これで、わが家のバリアフリー化も一歩前進すると思います。

 

師走で忙しい時期なのに、今週から工事がはじまります。

このところの週末は、部屋と廊下の書棚を片づけるのに、妻が孤軍奮闘してくれました。

金さんは車椅子なので、掃除とか、片づけをするときに側にいると、かえって邪魔になります。

でも、お茶を飲むときには、ちゃっかり一緒に飲みました。(笑)

 

工事が全部終わるのは来年になりますが、

できあがりが楽しみです。

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◇ テロの犠牲になった障害者 
 
     ・・・障害者の避難・・・     2001.11.16(金)

テロの犠牲になりました。その人たちの中には障害者も大勢いただろうと思われます。

炎上しているビルから、倒壊するまでの僅かな時間(1時間位)に避難して助かった人も多いといいます。

しかし、助かった人の中に車椅子の障害者はいたでしょうか? 

健常者でさえ避難が間に合わなかった人が大勢いたのですから、車椅子の障害者は多分いないのではないかと思います。

 エレベーターが止まってしまうと、車椅子の障害者は自力で階段を使えません。

避難するのには何人もの助勢をお願いしなければならないので、足手まといになるのを遠慮して

救助の人を待つ人が多いようです。今度の場合、救助を待っていた障害者は全員犠牲になったと思われます。

同時に救助に向かった消防や救急の人もたくさん犠牲になりました。

 

 金さんが勤めていた研修センターのビルは10階建てで、金さんは6階の事務室に勤務していました。

毎年やっている防災訓練には、避難訓練もありましたが、

車椅子の金さんはいつも避難者のメンバーからはずされていました。

訓練だし大変だから(?)という理由のようでしたが

「火災などの本番だったらどうなるのだろう?」と内心は、いつも心配していました。

 

 金さんの友人で、災害対策部の課長だったSさんが

ニューヨークワールドトレードセンターでの障害者の避難」というWebサイトがあることを教えてくれました。

これは、1993年にワールドトレードセンターで実際にあったテロリストによる爆破事件のときのものです。  

同サイトに載っている文章から「避難時間はどれだけかかったか」の所だけ下に抜粋しておきます。

興味のある方は http://homepage2.nifty.com/skose/WTC1993.htm で全文を読んでみて下さい。 

    

 

 ニューヨークワールドトレードセンターでの障害者の避難 

 

・・・略 ・・・ 

 避難時間はどれだけかかったか 

インタビュー対象となった障害者は、平均すると3時間20分ほど避難に要している。しかし、個々の実避難時間は、1時間以下の人から9時間以上かかった人まで、さまざまである。19階にいた人は、左片麻痺で脚に添え具をつけて杖を使っているが、1時間かからずに避難している。彼がインタビューに応じて答えたところでは、5階まで自力で階段を降りたが、そこで脚がけいれんし、また、めまいを感じたので、そこから後は人に抱えられて降りている。インタビュー対象者のうち5人が、40分から90分くらいという比較的短時間で避難を完了している。

71階にいた聴覚障害者は、最初に異常に気がついたのはコンピューターの電源が止まったときだという。爆発の音も衝撃も気がつかなかったが、同僚たちがざわつきだしたのはわかった。彼自身は、同じく聴覚に障害のある同僚に、煙が来ていると教えられ、階段で避難した。両膝で脚を切断して車いすにのっている障害者が、最も長かった避難時間を経験している。彼は、70階から避難するのに9時間以上もかかった。彼によると、足手まといになるだろうということ、そしてこういった状況に同僚が慣れていないことから、当初は避難せずに救助者が来るまで待つことにした。彼の上司と何人かの同僚がいっしょに残った。煙が次第に濃くなったので、オフィスの奥のほうに下がったという。1時間ほど待って、港湾公団警察に連絡しようとしたが、電話がお話中でつながらなかった。午後4時半ごろスカウトパトロールが到着し、無線で手助けを要請した。最初の警官が来たのは、2時間後だった。8時半頃になって、警察と救助が到着し、中間避難階である43階まで彼を抱えて降ろした。そこでいったん休息した後、下まで降りた。途中から救助スタッフの一人が車いすを別に抱えて降りてしまったので、下に降りて自分の車いすに戻ってやっと、彼は「移動の自由を取り戻した、」と表現している。

インタビューされた人のうち4人が、避難に5時間から9時間かかっている。69階にいた四肢麻痺で車いすを使っている障害者は、6時間ちょっとかかったと推定している。彼の経験はこうである。「私の上司と火災管理責任者以外は、みな避難した。われわれは、煙で汚染されていない管理職のオフィスにいって45分ほど待った。それから階段にいき、降りてきた3人に頼んで、私と車いす(総重量は160キロ近い)を抱えて降ろしてもらい、48階か49階までいった。降りるにつれて煙がひどくなり、気温が高くなった。途中で突然照明が消えて、それっきりになった。階段の踊り場はひどく狭く、おまけに、階段をこちらからあちらへとひきずり回された。43階まで降りたところで担架に移され、下まで降ろされた。私を降ろすのにたぶん15人くらいの人が関わったと思う。ひどく時間がかかる避難になったが、私のおかげで避難が遅れたという文句は聞かなかった。」

・・・ 略 ・・・

 

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◇ 秩父ドライブの旅  2001.10.31(水)

10月27日(土)、10月28日(日)妻の運転で奥秩父の三峯山までドライブ旅行してきました。

今回も息子が一緒に行ってくれました。2交替制の勤務なので土日連休になることはまれで

うまい具合に休みになったようです。

12月の秩父夜祭りなど市内には何回も来ているのですが三峯山は初めてです。

紅葉が盛りでした。週末なのに人があまり多くないのは意外な感じがしました。

妻が撮ってくれたデジタルカメラの写真などの情報はこちらにあります。

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◇ 久しぶりの浅草  2001.10.16(火)

昨日15日の午後浅草の仲見世「マサモト」にてるみさんを訪ねました。

お店を開いている時間だったのでゆっくり話はできませんでしたが

店内を見せてもらいました。 

仲見世のお店って一軒一軒はそう広くないのですね!

狭いお店を広く使えるようにてるみさんは品物のレイアウトに気を遣っています。

浅草は年中お祭りのように賑わっている町なので仲見世には観光客が

全国どころか世界中から訪れます。 

 

 

・・・てるみさん、妻と「マサモト」店内で(博苦さん撮影)・・・

お土産のレイアウトも高齢者や車椅子のお客さんに気を遣っている様子で入りやすいお店ですね!

「マサモト」はお店の中まで車椅子でも楽に入れました。

日頃からボランティア精神豊かな若女将のてるみさんが頑張っているお店だな!と感心しました。

 

仲見世では博苦さんに車椅子を押してもらいながら

「このお店は車椅子は無理だな」

「このお店は車椅子でも入れるな」

という視点で見てきました。

広いお店でも奥まで入りにくいお店もありました。

広いのにお客さんが奥まで入れないのはもったいないと思いました。

 

 

 

 

・・博苦さんと・・

 

てるみさんが手配してくれてお休み中だった人力車の

「松風」さんが3時半頃わざわざ出てきてくれました。

初めて人力車に乗りましたがかっこいい「松風」さんが

浅草の案内をしてくれたおかげで、表通りからは見えない浅草の見物ができました。

「マサモト」、「松風」さんの詳しい案内は

ホーム・ページ「照美の個展」でご覧下さい。

 

 
 ・・・妻と三社さまで・・・

昨日もう一つ嬉しいことがありました。

船橋の博苦さんがわざわざ浅草まで金さん夫妻の浅草見物のお手伝いに

来てくれたのです。

博苦さんは「HACK PRIVATE ROOM」というホーム・ページを持っている粋人で

ボランティア精神のある人です。

去年みっちょマンが来たときにも車椅子を押して手伝ってくれました。

 

てるみさん、博苦さんいろいろありがとうございました。

久しぶりの浅草は楽しかったです。

 

    ・・・博苦さん、松風さんと雷門駐車場のエレベーター前で・・・

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◇ 2001東北旅行  2001.9.26(水)

遅くなりましたが9/2から行ってきた東北旅行を「東北旅行・・・バリアフリー見聞録・・・」にまとめてアップしました。

旅行の楽しい情報と一緒にバリアフリーに関連する情報もたくさん載せました。

金さんにとって今年の東北旅行の一番の収穫は温泉にに入れたことです。

介護風呂という家族風呂風の温泉でしたが身も心も温まってきました。

2回目の脳出血以来、金さんが温泉に行って「温泉」に入るのは8年ぶりなので大感激でした。

今まではバリアフリーの部屋の浴槽に入っていたのです。

日本には温泉が多いのでこれからもいろいろなところで温泉を楽しみたいです。

 

「2001東北旅行」・・バリアフリー見聞録・・のページは

下のURLからです。

 

http://www.ne.jp/asahi/kinsan/kaneko/tabi-2001-touhoku/2001touhoku-tabi.htm

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◇ 同時多発テロ  2001.9.15(土)

悲しい出来事が起こった!!

2001年 9月11日朝(日本時間同日夜)米経済の象徴ともいわれているニューヨークの

世界貿易センタービル(110階建て)に乗っ取られた航空機二機が相次いで突っ込みビルは炎上した。

二つの超高層ビルは二時間も経たないうちに倒壊してしまった。

この夜、半分眠りながらベッドでテレビをみていたが、

画面に航空機がビルに突っ込み炎上する光景、

ビルが崩れ落ちる光景が写るのを見て、すっかり目が覚めてしまった。

テロはそれだけではなかった。国防総省など政府関係機関をねらって同時多発テロが発生し、

数千人規模の死傷者が出たという。

民間の航空機をハイジャックし、次々に建物に激突させるという事件は

事情が違うとはいえ、私に第二次世界大戦末期に見られたという特攻隊を思い出させた。

同じ地球に暮らしていながら、人間は何故殺し合いをしなければならないのか?

戦争は地球から永久に無くならないのか?

そんなことを考えさせられる事件だった。

◇ ああ! 世界貿易センタービル ◇

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◇ 娘の結婚  2001.8.22(水)

次女が結婚した。

ホテルのオペレーターの仕事に付いている次女の結婚相手は

お寿司の職人さんである。

彼は、寿司やの一人息子でいずれは実家に入るのだそうだが、

東京にでて他人の店で修行しているのだという。

サラリーマン家庭の生活しか知らない娘に将来お寿司やさんの女将がつとまるか

不安もあるが、自分で決めた道である。

どんな苦労があっても彼と二人乗り越えて欲しい。

5月の日曜日に彼の両親も家に来て顔合わせをし、六人で今後のことを話しあった。

二人で相談した結果は、お金が足りないので結婚式はしばらく後にして

経費節減もあるので一緒に住みたいという。

私は妻とも相談して一緒に住むのは入籍後が良いんじゃないかとアドバイスした。

彼のご両親も同じ意見だった。

 

金さん夫婦も結婚式の費用は二人でためた。

そういえば新婚旅行の小遣いに持っていくお金が足りなくなって

結婚式のご祝儀から少し借りていったっけ!

 

この間の日曜日に二人で婚姻届を出してきたと次女から電話があった。

長女との介護リレーで婚期を逃してしまうことを心配していたが

取り越し苦労だったらしい。

 

残るは社会人一年生の長男一人である。

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◇ 四肢マヒ者の参議院選投票  2001.8.1(水)

昨年(2000年6月)の衆議院選は町役場での不在者投票だったので、

今回の参議院選は投票所の小学校へ行こうと思った。

しかし、7月28日の土曜日になって急に思い立ち不在者投票に連れて行ってもらった。

やはりスロープのない投票所の小学校での投票を避けたのである。

その代わり今年は代理投票から一歩前進して

自分で投票用紙に鉛筆で書いて投票してきた。

「そんなことは当然じゃないか」と思われるかもしれないがこれが大変なのだ。

普段はすべてパソコンなので、鉛筆で字を書くことがない。

そのために、昨年の衆議院選では不在者投票の日に自分で書こうとしたが

手がブルブル震えて字が書けなかったので代理投票にした苦い経験がある。

そのために、今回は事前に少し練習してコツをつかんでいた。

はじめに不在者投票の用紙を入れる二重の封筒に自分の住所氏名を右手で書いた。

毎日パソコンでリハビリテーションをしていた成果と事前練習の成果があったのか?

鉛筆を持った手の一部を机に固定させてゆっくり書くと

下手だが何とか読めそうな字が書けた。

いつも、パソコンのキーボードを、人と違い中指一本でゆっくり押しているので

字が書けるか心配していたが投票用紙にも候補者の名前を書くことが出来た。

字は小学校一年生よりも間違いなく下手な字だったが

自信がまた一つ湧いてきて嬉しかった。

※ 記入台

 7月29日に小学校に投票に行った妻の話では、相変わらずスロープの用意はなく

 候補者名などを記入する所も、車椅子で記入できる所は用意されていなかったそうである。

 車椅子生活の人や背が低い人のために、記入する所も用意してくれると

 ありがたいのだが・・・。

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◇ 欠格条項の見直し  2001.7.18(水)

今日の読売新聞に嬉しいニュースが載っていました。

見出しは「聴覚障害者に薬剤師の免許、法改正で「夢」実現」です。

薬剤師法にあった欠格条項を見直す法改正が施行されたのに伴い、いままで聴覚障害を理由に

薬剤師免許を受けられなかった日本薬剤師会に勤める早瀬久美さんが薬剤師免許を

厚生労働省から交付されたという嬉しいニュースです。

 

早瀬さんはお母さんが薬剤師だったことから自分も薬剤師を目指して薬科大学に進学、1998年には

薬剤師国家試験にも合格していましたが、免許申請を厚生労働省から却下されていたそうです。

今までの薬剤師法には「目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者」には免許は与えない」

という障害を理由にした欠格条項があったからです。

ところが「障害者等に係る欠格事由の適正化等を図るための医師法等の一部を改正する法律」が

今年の春に国会で制定され、欠格条項が見直されたのです。

 

聴覚障害を克服してようやく薬科大学を卒業し薬剤師国家試験にも合格したのに、免許申請を却下された時の

早瀬さんは、障害者に対して存在する制度のバリアをどのように感じていたのでしょうか?

遅すぎた「夢」の実現でしたが、早瀬さんに「おめでとう!」と言いたいと思います。

 

現代はIT革命の時代といわれるように、耳が不自由で口がきけない人を補完するコンピューターなどの

情報技術もどんどん進んでいます。

障害のある人もそういう情報機器を活用してそれぞれの分野で貢献している人は大勢います。

もう、障害を理由に差別する時代ではないのです。

バリアフリーとは、建築物などの物理的なバリアを取り除くだけでなく、社会にある制度やそれを当然のこととして

許してきた人々の心の中に存在する障害者への差別意識をも変えていかなければいけないと思います。

 

※ 参考

   ・ 障害者に係る欠格条項の見直しについて

http://www8.cao.go.jp/whitepaper/shogai/jyoukou.html

内閣府(旧総理府)でだされた。(平成11年8月に障害者施策推進本部決定)

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◇ 卒業祝いの会  2001.7.16(月)

週末の土曜日、嬉しい会に妻と二人お招きをいただき出席しました!!

金さんが2回目の脳出血(1994年4月)で倒れる前月まで在職していた

東京都の地域保健課長時代に、東京都と東京都23区で公衆衛生行政を担当していた

公衆衛生医師の有志が東京会館で「卒業祝いの会」を開いてくれたのです。

金さんにとっても34年間の都政人生活で一番やりがいのある時代だったので

医師との思い出もたくさんありました。

会に出てびっくりしたのは金さんが課長時代に23区の課長を退職して、

今は民間の企業で産業医として活躍している人や

当時23区の保健所にいて在職中は直接お話しする機会がなかった女医さんで

関連する本の中にお名前を拝見しただけの人などが出席していたことです。

職場で一緒だった人が一人もいないという会でしたが、

話が盛り上がり時間の経つのを忘れていました。

金さん自身、都政人の初まりが保健所勤務で退職時も衛生局勤務と

公衆衛生行政には思い入れもあったので

公衆衛生医師の有志の方に卒業祝いの会をやっていただけたのは感激でした。

自由人になって新しい挑戦の始まりと思っていた

「不自由な自由人」の金さんには元気が出る嬉しい激励でした。

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 100日経ちました  2001.7.10(火)

退職して、埼玉の家にいるようになってちょうど100日経ちました。

昼間一人で留守番している日、長男といる日、妻といる日、妻と長男と3人でいる日

いろいろあるので毎日退屈しません。

一人で留守番している日は昼間一言も人間と話をしないこともあります。

でも、そういう日も朝と夜はにぎやかですし、昼間も家族、友人とメールで連絡を取ります。

また、ルーとは毎日話をしています。

ルーは、3本足で散歩できるほど元気になったので、5月からまた庭に繋いであります。

声も元通り出るようになりました。

誰か来ると玄関のアイン、裏のベル(新しい家族の一員です)と3匹で一斉に吠えます。

ルーだけ、綱を長くしてあるので、廊下のガラス戸を開けると寄ってきて廊下に片足を上げて

耳を後ろに平らにして「クー、クー」と甘えています。

治らない右前足はブラブラしたままですが「お手!」というと

その右前足を出すこともできるので 神経が全くつながっていない訳ではないようです。

でも、力は入らないらしく歩くときはブラブラさせています。

 

金さんもこの暮らしにも慣れてきました。

障害者になる以前には考えたこともある退職後の天下りも、障害者になって無縁となりましたが

代わりに「自由人」という代えがたいものを手に入れることができました。

収入は障害年金だけなので桁違いですがぜいたくをしなければそれほど困りません。

何よりも嬉しいことは誰にも気兼ねなく自由にものが言えることです。

お金のために自由を売り渡さなくてもいい生活、これは障害者になっていなければ

できなかったでしょう。 金さんは本当に幸せ者です。

 

人間にとって「コミュニケーション」の果たす役割がこんなにも重要だったのかも

自分の境遇の中で実感しています。

家族(犬、猫も含む。)とのコミュニケーション、ネットの友人とのコミュニケーション、

これがなかったら、金さんの車椅子生活もぜんぜん違う生活になっていたでしょう。

今朝のテレビのニュースで障害者への補助品目にコミュニケーションに使えるパソコンを

ワープロに変わって加えるべきだという、障害者の声をやっていました。

時代はめまぐるしく変わっています。

パソコンやインターネットも使えない管理職は国や地方自治体にどれくらいいるでしょう?

また、ワープロの生産中止を決めたメーカーも一社だけではないことを

知っているひとはどれくらいでしょうか。

変わる世相に政策も遅れないようにするために、公務員もしっかり勉強して欲しいものです。

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 「クローズアップ現代」をみて  2001.7.5(木)

昨日の「クローズアップ現代」で「出会い系サイト」の問題をやっていました。

先日も書いたのですが、実態は金さんが思っていたよりも、もっと、もっと凄いようです。

警察に届けられた事件だけでも、今年になって急増していました。

携帯電話で「出会い系サイト」を利用している女子高生が「出会い系サイト」にプロフィールを登録すると、

すぐに携帯電話が鳴る状況は、良く釣れる釣り堀で釣り糸を入れているようでした。

男が女になりすまして、えさに食いつく男どもを楽しんでいる様子もやっていました。

インターネットは匿名性が良い点でもあるし、恐い点でもあります。

風俗の経営者が小遣い稼ぎに「出会い系サイト」をやっている様子もやっていました。

「出会い系サイト」を作ったら、ネットの中にマチができたといっているSE(システム・エンジニア)もいました。

女子高生が援助交際という、名前だけ今風に変えた売春を、携帯電話を使って平気でやっている様子を

見せつけられて、インターネットもこんな使われかたをしているんだと、悲しくなりました。

「出会い系サイト」がすべて問題だとは番組でも言いませんでしたが、

本気で友人をみつけようと思っている人は近づかないほうが、無難なようです。

ごくまれに、「出会い系サイト」で知り合って結婚するというような、幸運な人もいるようですが

これはもう、砂浜で砂金を見つけるぐらい難しいだろうな? と番組を見ていても感じました。

金さんのところにも、「出会い系サイト」からの案内メールがよくきます。

これも、番組を見て知りましたが、メールアドレスのわかる人に自動的に

数百万通も送信できるようになっていました。

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 どう思いますか? 2001.7.5(木)

先日、東京都衛生局から小包が送られてきました。

何だろうと明けてみると「感謝状」と「記念品」でした。

そういえば、6/11号の「週間とちょう」に、「平成13年度「東京都退職者感謝状贈呈式」開催」の

ニュースがでているのを読んだときに「あれ、自分には何で連絡がこなかったのだろう?」

と思ったのはこれだったのかと納得しました。

 

しかし、やはりちょっと納得できないのは、6/1の前に何の連絡もこなかったことです。

善意に解釈すれば、私が車椅子生活の障害者で埼玉の家から新宿の都庁までは遠いので

「連絡しても多分こられないだろう、だったら、連絡しないで式が終わってから自宅に送ってあげよう」

と、担当者が考えたのかも知れません。

でも、この善意(?)は健常者のとんでもない間違いであろことに気が付いて欲しいと思います。

自分の経験では、障害者は「差別」という言葉や実際の「差別」にとても敏感です。

健常者の善意も時には「差別」と感じます。

今度のことも、自分だけ連絡がこないのは、式場に車椅子の障害者が

うろちょろされたら困るという「差別」としか感じませんでした。

障害のある人にも障害のない人にも、対象者には全員に案内状を出して欲しいのです。

 

もし、贈呈式の前に案内をもらっていたら、実際は出席したかどうかはわかりません。

石原知事の顔を見に無理をして連れていってもらったかも知れません。

執筆に忙しい時期だったので、やはり欠席していたかも知れません。

ただ、ちょっとした連絡ミス(?)で、私に「障害者差別」の疑念を持たせたことは事実です。

3月まで衛生局の「障害者差別」についての職員研修もやっていた研修センターに

いたものとして、このことは残念でなりません。

 

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