ここでは、私が二度の脳出血から生還した体験を公開するとともに、質問にお答えしています。なお、脳卒中(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞など)は同じように見える場合ても、人により病状も後遺症も違いますので、詳しくは医師にご相談ください。
○ はじめに 1 2 3 発病の時はどんなだったの、頭痛がするの? 4 5 ☆ その後の状況(倒れてから12年後) 6 7 8 9 10 11 12 13 14 脳出血で倒れてから10年経過した今の心境は?
※ 上の項目の他に質問のある方は次のアドレスへメールでご質問下さい。
私がお答えできることはメールでお答えします。
「脳出血」・・・なりたくない病気ですね!
私は二度「脳出血」で倒れて後遺症のため車椅子生活になりつくづくそう思います。
この頃では「脳出血」による死亡が、「がん」「心疾患」に次いで第三位に下がっているとはいいながら、相変わらず恐い病気であることには変わりありません。この病気が恐いのは、、突然やってきて命を奪ったり、悲惨な後遺症を残すからではないでしょうか? 私の場合も「ある日突然」にやってきました。予想もしないときにやってきたので、家族にも、職場にも大変迷惑をかけてしまいました。
特に、二度目の「脳出血」の時には、ICU(集中治療室 intensive care unit)に入院しているときに、医師から「助かったのは奇跡的で本当に運が良かった、出血の場所がもう針の先ほどそれていたらおそらく即死だったでしょう。今後、命を取り留めることができたとしても、寝たきりになるか、植物人間のようになる可能性が大きいですよ。」「もし最大限良くなったとしても、自力で車椅子に乗ることは難しいでしょう」と妻が言われたそうです。妻はそのとき目の前が真っ暗になったと言います。
しかし、奇跡はおきました。幸運に恵まれたのです。その後の治療、リハビリテーションなどのお陰で、車椅子を使って復職できるまでに快復したのです。これも病院の医師、看護婦、理学療法士、作業療法士、言語療法士などの医療スタッフや、職場の先輩や同僚、そして家族の暖かい応援があったからだと思います。
「皆さん 本当にありがとうございました」
この体験を、大勢の人に知ってもらおうとホーム・ページを作りました。自分一人で、本を見ながら不自由な右手だけでパソコンを操作して作ったホーム・ページです。時間がかかったわりには出来栄えは「いまいち」かもしれません。それでもいいんです。「今の自分にもこんな事が出来る!」ことを確認できただけでも満足しています。
これからも「急がず、あわてず、のんびり」しかし「あきらめず」に頑張りたいと思いますので、応援よろしくお願いします。
(1997年12月記)
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【答え】
■ 脳出血
脳出血は脳の血管が破れて出血を起こすもので、多くの場合深い昏睡とともに、半身マヒがおこる。脳出血の誘因として過労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中におこることが多い。
※ 参考
○ 脳卒中ってどんな病気?
脳内の血管が詰まる脳梗塞、脳内で出血する脳内出血、くも膜下出血、高血圧性脳症(これはまれ)の総称。脳卒中は、日本の3大死因の一つ。かつては脳出血による死亡が多かったが、1975(昭和50)年を境に脳梗塞が逆転。現在は、年間170万人と推計される脳卒中患者のおよそ70%を脳梗塞患者が占める。
・・・現代用語の基礎知識より引用・・・
○ 脳卒中ってどんな病気?
・・・厚生労働省のサイトには上のように載っている・・・
なお、 〔医学大辞典 南山堂〕には次のようにでている。
★ 脳出血(cerebral hemorrhage)
脳内の血管が破綻して脳実質が圧迫、浸潤、破壊されることによって発症する。
〔病因〕
脳動脈の破綻によるもの、とくに高血圧症を伴った動脈硬化症に続発して生ずるものがもっとも多い。このほか、動脈瘤または血管腫のような血管形成異常、白血病あるいは血小板減少性紫斑病などの出血性疾患、中毒、急性脳炎などの感染症などが原因となる。また、原発性あるいは転移性脳腫瘍内に出血をきたすこともある。中年以後の男性に多い。
〔症状ならびに診断〕
前駆症状を伴わず、多くの場合突発発作が始まり急速に進行する。激しい頭痛、悪心、嘔吐、痙攣をもってはじまり、運動障害、知覚障害、失禁、言語障害、視力障害を起こしながら意識障害があらわれる。一般に昏睡時には四肢が弛緩し、深部反射、表在反射、病的反射が消失して、病側の判定、麻痺の有無が明らかでないことが多いが、時間が経過するとともに症状が病巣のある部位に限局し、巣症状が明らかとなる。内包部に出血することが多いため、通常反対側に片麻痺を起こす。髄液は圧亢進し、血性で蛋白量が軽度増加する。診断は上記症状がそろえば比較的容易であるが、ときに脳血栓、脳塞栓、くも膜科出血と鑑別を要することがある。
〔予後〕
出血の部位、大きさおよびその原因によって異なる。脳幹部または脳室内出血の予後は悪い。発作後生存した場合には神経の脱落症状を伴うが、徐々に回復する。運動麻痺の回復は上肢よりも下肢が良い。6〜8ヶ月後に残存している脱落症状は改善しがたい。
〔治療〕
発作時に肺炎、褥瘡を予防するためにときどき体位を変換する。感染予防のために抗生物質を投与する。後遺症に対しては2週間後から血管拡張薬と脳代謝賦活薬を使用し、運動麻痺に対してはリハビリテーションを行う。〔医学大辞典 南山堂〕による
【答え】
私の場合、「高血圧性脳症」1回、「脳出血」を2回経験したが、3回とも発病前「これは危ないな」と自分で自覚できるような、特別の兆候はなかった。
しかし、2回目の脳出血の4,5日前の夜、異動者の研修の打ち上げをして帰るとき、新宿駅の階段をのぼりきった所でつまずいて足を取られ転倒した。その時眼鏡で顔の皮を切り15針縫うけがをしている。アルコールが入っていたとはいいながら、何かのサインだったのかもしれない。
【答え】
★ 「高血圧性脳症」と診断されたとき(1973年:31歳のとき)
9月のある朝出勤してまもなく、突然左手の腕時計のあたりに「ぴりぴりー!」ときた。驚いて腕時計をはずして右手でさすってみたが治らない。「診療所に行こう」と立ち上がろうとしたが足に力が入らず立ち上がれなかった。同僚が異変に気がついて別室に運び医師を呼んでくれた。医師の指示で救急車が呼ばれ入院した。頭痛は全然しなかった。
★ 一回目の「脳出血」のとき(1985年:43歳のとき)
昼休みに厚生室で囲碁をやっているとき、突然急激な貧血になったような感じになり(何十階もある高いビルのエレベーターで急降下したような感じ)起きていられなくなった。
頭痛、意識障害、言語障害、嘔吐はなかった。
気持ちが悪いので囲碁の相手に声をかけて横になった。側にいた人は囲碁の相手も含めて「脳出血」だとは誰も直ぐには気がつかなかった。
出血の場所が脳の右側だったらしく、言語障害はなく、近くの人に救急車を呼んでくれるように頼んだり、病院に持っていく手帳などを持ってきてくれるように頼んだりできた。これが幸運だったと思う。何組かの囲碁は続いていたが、途中から異変に気がついたようだった。
職場にいた医師に「脳出血かもしれない!!」といわれてから、「脳出血」が非常に死亡率の高い病気のため、「死ぬかもしれない」と急激に不安になった。そのため救急車で病院に運ばれる間も少しでも出血が少なくなるようにと「まな板の上の鯉」のようにじっとしていた。
★ 二回目の「脳出血」のとき(1994年:52歳のとき)
超多忙な職場から異動して研修中であった。10時頃帰宅し、入浴後夕食時にビールを1本飲んだ。それから床に入って直ぐに気持ちが悪くなった。妻に「こりゃ、なんかおかしいぞ!!」と、声をかけてそのまま「意識」を失った。
この時も頭痛はしなかった。
【答え】
★ 「高血圧性脳症」と診断されたとき(1973年:31歳のとき) 左手に、かすかな痺れ感が残ったが、日常生活には全く支障がなかった。
★ 一回目の「脳出血」のとき(1985年:43歳のとき)
★ 二回目の「脳出血」のとき(1994年:52歳のとき)
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5, 後遺症は治ったの?リハビリテーションが良いって聞くけど?
【答え】
★ 「高血圧性脳症」と診断されたとき(1973年:31歳のとき) >左手に、かすかな痺れ感が残ったが、日常生活には全く支障がなかった。 このため、病院での特別なリハビリテーション訓練はやらなかった。
★ 一回目の「脳出血」のとき(1985年:43歳のとき) > 左手が麻痺し、疼痛が残った。このため左手で物を持つこと、着替えなどの左手の作業ができなくなった。 都立養育院付属病院(現在の老人医療センター)(脳外科病棟)に病気の治療、リハビリテーション訓練のため4ヶ月半入院した。手の機能回復のために、OT(作業療法士)の指導で手の訓練を中心にしてやった。その結果、右手だけで靴下をはくこと、ボタンを止めることができるようになった。 > 左足が麻痺して歩けなくなった。 同病院のPT(理学療法士)の指導で、運動訓練(足の訓練を中心にして)をやった。
結果
★ 二回目の「脳出血」のとき(1994年:52歳のとき) > 左右の手が麻痺し、左手には疼痛が残った。(1回目の疼痛の場所と同じ場所)このため手で物を持つこと、食べることなどの、手の作業ができなくなった。 > 左右の足が麻痺して歩けなくなった。左足にはわずかに疼痛が残った。 > 言語障害が生じ言葉をしゃべれなくなった。
□ 都立大久保病院(ICU、脳外科病棟)に入院し、「脳出血」の治療、リハビリテーションのため、約10ヶ月入院した。 OT(作業療法士)の指導で手の訓練、PT(理学療法士)の指導で足の訓練、ST(言語療法士)の指導で言語訓練をやった。 結果
□ 都立大久保病院を退院後自宅で療養していたが、その後東京都リハビリテーション病院に4ヶ月半入院した。 この病院は、原疾患が安定期に入ったもので、かつ、リハビリテーション医療を集中的に行って効果が期待できる者を対象とする病院である。 そのような人に対して理学療法、作業療法、言語療法を集中的に行うことにより、ADL(日常生活動作)の自立、家庭・職業的復帰、職業訓練への移行を目標とする病院であり、平成5年2月に東京都が開設し東京都医師会へ運営委託している。 OT(作業療法士)の指導で日常生活動作の訓練(手の訓練を中心にして)、PT(理学療法士)の指導で運動訓練(足の訓練を中心にして)、ST(言語療法士)の指導で言語訓練、臨床心理士の指導で心理療法の指導を受けた。 結果
□ 東京都リハビリテーション病院退院後復職(1996.7)した。復職後約1年後の状況。
□ 復職(1996.7)後約2年の現在(1998.6)の状況。
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退職後は介護保険の「訪問リハビリ」をを利用している。この訪問リハビリと自主リハビリで、老化による体力低下に抵抗している。 □ 退職(2001.3)後、約5年経った現在(2006.6)の状況。
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【答え】 ★ 「リハビリテーション」とは 病気や外傷で障害が残った場合に、それを克服して再び社会生活に復帰するという意味に用いられることが多い。リハビリテーション(rehabilitation)の語源は、ラテン語の適合させるという意味を持つ habilitareからきた habiltation と、「再び」の意味を持つ re- という接頭辞が結合してできたもので、再適合という意味を持っている。 この言葉は医学で用いられるより以前に、社会学や犯罪学の領域で用いられ、名誉を回復する、一度失った地位を取り戻す等の意味に用いられていた。 (「リハビリテーションの理論と実際」 全国社会福祉協議会発行)による ★ 「リハビリテーション」の定義 「医学的、社会的、教育的、職業的手段を組み合わせ、かつ相互に調整して訓練あるいは再訓練することによって、障害者の機能的能力を可能な最高レベルに達せしめること」 (WHO、1969年)
★ 「リハビリテーション」の本来の意味 日本では「機能回復訓練」とか「社会復帰」という意味で理解されているにすぎないが、本来の意味は「人間の権利・資格・名誉の回復」という、全人格にかかわるものであり、・・・障害をもった人が人間らしく生きる権利の回復、すなわち「全人間的復権」である。 (リハビリテーションー上田敏)(講談社)による ★ 「早期リハビリテーション医療」とは」 機能障害(後遺症)を残す恐れのあるものに対して、急性期から内科的、外科的治療と平行して実施する医療であり、障害の予防と軽減、ADL(日常生活動作)の自立を目標としている。 ★ 「専門リハビリテーション医療」とは 原疾患が安定期に入ったもので、かつ、リハビリテーション医療を集中的に行って効果が待できる者に対して理学療法、作業療法、言語療法を集中的に行う医療であり、ADLの家庭職業的復帰、職業訓練への移行を目標としている。 ★ 「理学療法」とは 理学療法(physical therapy)とは、身体に障害のある者に対し、主としてその基本的動作能力の回復を図るため、治療体操その他の運動を行わせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加えることをいう。(理学療法士及び作業療法士法第2条第1項) 理学療法士(physical therapist:PT)とは、医師の指示の下に、理学療法を行うことを業とする者をいう。(理学療法士及び作業療法士法第2条第3項) ★ 「作業療法」とは 作業療法(occupatiocal therapy)とは、身体又は精神に障害のある者に対し、主としてその応用的動作能力又は社会的適応能力の回復を図るため、手芸、工作その他の作業を行わせることをいう(理学療法士及び作業療法士法第2条第2項)。 作業療法士(occupatiocal therapist:OT)とは、医師の指示の下に、作業療法を行うことを業とする者をいう(理学療法士及び作業療法士法第2条第4項)。 言語療法とは、聴覚・言語・音声の障害を持つ者に対し、コミュニケーション能力等の回復・障害の軽減などを目指して、相談・援助・指導・訓練・評価を行うことをいう(言語聴覚士法第2条)。 言語聴覚士(speach therapist)とは、音声機能、言語機能又は聴覚に障害のある者についてその機能の維持向上を図るため言語訓練その他の訓練、これに必要な検査及び助言、指導その他の援助を行うを行うことを業とする者をいう(言語聴覚士法第2条)。 ※ 日本では法制化が遅れていたが、1997(平成9)年にようやく言語聴覚士法が成立した。(1998年9月1日施行)年一回国家試験が行われる。いれまでは言語療法士、聴能言語士とよばれてきたが、この法律によってようやく医師の指示によらない教育や福祉の現場での活動実績をもつスピーチセラピストの立場が認められた。しかし、まだスピーチセラピストの人数が少ないため、十分な訓練を受けられない患者が多い。このため、国家資格制度の発足を契機に、各病院、福祉施設、教育分野での充実が望まれている。 脳出血後の片麻痺(特に右片麻痺)では言語障害を伴うことが多く、リハビリテーションにおいて言語聴覚士の役割は重要である。言語障害は、失語症の外に構音障害(麻痺性、失調症)があり、また知能障害とも関係があるので、言語聴覚士には言語学、障害学、心理学、教育学などの広い知識が要求される。 言語療法による、摂食・嚥下能力の向上が、QOLの向上とともに全身症状への効果が大きいともいわれている。
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7, 「リハビリテーション」で具体的にはどんなことをしたの? 大変なの?
【答え】 養育院付属病院(現在の老人医療センター)に病気の治療、リハビリテーション訓練のため4ヶ月半入院した。 病院でPT(理学療法士)の指導で歩行訓練(足の訓練中心)を受けた。この結果、1本杖で歩けるようになった。手の回復のためにはOT(作業療法士)の指導で訓練を受けた。その結果、右手だけで靴下をはくこと、ボタンを止めることができるなど日常の生活動作ができるようになった。 |
☆ 理学療法士のリハビリテーションの内容 看護婦さんが広い訓練室におくってくれると、まずPT(理学療法士)の先生が、ベッドの上で手や足の関節を動かす運動をしてくれた。幾日かそうした基礎的な運動をしながら、少しずつ訓練に慣れていった。 慣れてくると、次はマットで「寝返り」と「起き上がり」の訓練になった。 マットの上での寝返りの練習は、先生が手を添えてくれてまず右にゆっくり転がり、次は反対の左側に寝返りをした。 寝返りができるようになると、次に先生に介助してもらってマットの上で座れるようにする(座位の保持)練習をし、先生の介助なしで、自分でできるようになるまで練習した。 マットの上で「寝返り」と「起き上がり」ができるようになり「座位」もできるようになると、次はマットの上で「四つばい」の訓練になった。前後左右から先生に押されても姿勢を保てるようになるまで訓練した。また、仰向けに寝て両膝を立ててお尻を上げる運動や、仰向けに寝て両膝を広げて立てて、先生の押さえる力に抵抗して開閉する運動などもやった。 四つばいが安定してとれるようになると、次は「膝立ち」ができるようにする訓練に進んだ。左半身に麻痺がきているので、最初は左側に直ぐに崩れてしまった。左側に体重をかけても安定した姿勢がとれるようになるまでには、時間がかかった。 こうした訓練が幾日か続き、次は、「膝歩き」の訓練に進んだ。先生に介助してもらいながらマットの上を膝で歩いた。 この頃、左足に「クローヌス」症状がでてきた。ちょっと先生の身体等が左足に触れたとたんに、左足が「ブルブル」震えてくるのだった。先生が両手で力を入れて膝を押さえると止まった。(この症状はその後も出ており、2回目の脳出血の後は特に強く出ている。) 次は立つ練習に進んだ。どうしても左足が弱いので、先生が両足で私の左足を挟むようにして固定した。そして体重移動をしても安定して立てるようになるまで訓練をした。 それができるようになると、次は一人で立つ練習をした。どうしても悪い方の左側に体重をかけにくいので、体重をかける練習を繰り返した。こうした訓練が幾日か続き、つかまり立ちが一人でできるようになった。 つかまり立ちが一人でできるようになると、病室でのベッドから椅子へ移る動作やベッドから車椅子へ移る動作が、少しスムーズにできるようになった。 平行棒の中を歩く訓練の後、やっと杖を使って歩けるようになり、訓練室の中を歩く訓練をした。 平らな所が歩けるようになると、PT(理学療法士)の先生の指導で、階段の上り下りの訓練に移った。まず上りから、手すりにつかまって先に健足(この時の私の場合右足)を上げる。次に患足(私の場合左足)を上げる。降りるときは、反対に患足から先に降りる。この訓練では、上るよりも降りる方が恐く難しいと感じた。 だいぶ一本杖で歩けるようになると、PTの先生と一緒に訓練用の庭を歩く訓練が始まった。砂利道や少し傾斜のあるところ等を歩いた。退院すると平らな所ばかりではないので、それらに適応できるようにするためだった。 |
☆ 作業療法士のリハビリテーションの内容 私は右利きだ。この時の1回目の脳出血では、右手に後遺症はなかったので、手の訓練としての「工作」はあまりやらなかった。 もっぱら左手のマッサージや、左手が右手を添えれば使えるようにする訓練、更衣の訓練が主だった。一番大変だったのは、右手だけで靴下をはくことだった。足の親指に靴下を引っかけてからはくのだが、はくのには時間がかった。 OTの先生の所でも、時々歩行の訓練もやった。やはり体幹全体を見ながらリハビリテーションをするのが大切なのだなと思った。 |
☆ 臨床心理士のリハビリテーションの内容 リハビリテーションが始まったある日、心理の相談室に行くと、雑談の後、簡単な質問があった。 「100から7を引くといくつですか」 「93」と答えると 「では93から7をひくといくつですか」 「86です」と答えます。 「86から7引くと?」 管理職になって2年後のまだ若手だったので、簡単な質問に腹が立った。「何で俺が、こんな簡単な計算をしなければならないんだ?」そして次の二桁の数字の足し算、引き算の式が書いてある紙をやってみるように言われたときには怒りが顔にでてくるのが、自分でもはっきりわかった。 全く大人気ないことだった。脳出血で脳にどのような影響がでているかを調べ、対策をたてるためのテストだった。それを、「馬鹿にしている」と感じたのは、病気の影響だろうか? 9年後の2回目の脳出血の後の時には、この経験が随分役立った。 「これはこういう目的で聞くのです」という心理の先生の質問に、簡単な足し算や引き算などのテストもあったが、今度は素直に答えることが出来た。 |
二回目の「脳出血」のとき、都立大久保病院では、まずICUで治療を受け、その後脳外科病棟に移ったが、移った直後からリハビリテーションを畜尿袋を付けたままで始めた。それが「早期リハビリテーション医療」といわれるものであろう。 毎日、看護婦さんに車椅子に乗せてもらい、病室からリハビリテーションの訓練室まで送ってもらった。訓練が終わると病棟に連絡がゆき、また看護婦さんが迎えに来る。訓練はそれぞれ約1時間半程だった。 |
☆ 理学療法士のリハビリテーションの内容 急性期から、治療と平行して、障害の予防と軽減、ADL(日常生活動作)の自立を目標として実施された。 始めのうちは来る日も来る日も訓練室のベッドの上で、PTのS先生が手足をマッサージしたり、関節の屈伸をしてくれた。左肩の痛みが続いたので、暖めてもらうこともあった。 立ち上がりの練習をするようになったのは五ヶ月以上たってからだった。 一回目の脳出血のときのリハビリテーションでは、マットの上の訓練で基本的なことをやってから、二ヶ月半ほどで歩く訓練になった。が、今度は病状が重かったので、なかなか歩く訓練に進まなかった。自分では歩けるようになって退院したいと思っていたが、PTの先生はそこまで考えていなかったのかもしれない。 ようやくベッドの上で寝返りの訓練になり、秋も深まる頃、立ち上がりの訓練に進んだ。訓練室のベッドに座り、PTの先生が私を支えて、ベッドから立ち上がる訓練である。 立ち上がり訓練の後、平行棒の中をつかまって歩く訓練をやった。まだ体幹がしっかりしないのと足もとがしっかりしていないので、長くはできなかった。 その後、四点杖を使って歩く訓練が始まった。はじめは10mほどの距離からはじめたが、それでも終わると手に汗がびっしょりになった。 年が明けて、四点杖が右と左の2本になり、歩行距離が少しずつ伸びていった。この病院は訓練室が狭いので、PTの先生と一緒に訓練室から廊下にでることもあった。 その状況で、二月の中旬に退院した。 |
☆ 作業療法士のリハビリテーションの内容 理学療法の訓練と同じ日に、作業療法(OT)の訓練が始まった。まずはじめての日は車椅子からテーブルの椅子に移ることから始めた。OTの先生の助けを借りてテーブルの前の椅子に移った。その日、評価のためにテストがあった。 作業療法の訓練では、主に手の作業が中心で、はじめのうち机にすわって乾いたタオルのような布を両手で押さえて右前方に何度も押して手を伸ばす運動をやった。終わると左に交代した。(患者は「ぞうきんがけ」と呼んでいた) わなげや、ブロック積みもやった。古新聞に定規を使って線を引くこともあった。定規をしっかり押さえないと線を引くときに動いてしまうので、なかなかうまくできなかった。 左肩が痛いので毎日訓練の前に暖めてもらった。暖めると楽になった。 新聞を丸めたり、左手で押さえて右手で手前から3,4センチ位ずつ破いてだんだんに新聞の先の方へ手を伸ばしていく訓練もやった。 OTの先生にも、復職のことを相談したが、「とてもとても」という感じでまだ真剣にとりあってもらえなかった。 右手を使って鉛筆で字を書く練習もやった。線が真っ直ぐに引けないので、読める字にはなかなかなりません。ようやく自分の名前がなんとかわかるようになったのは、そろそろ退院の話がでるころだった。 |
☆ 言語訓練の内容 言語障害がでていたので、ST(言語療法士:speech therapist)による言語訓練もやった。毎回訓練の始まりは担当のS先生と病室でのこと、自分の仕事のこと、家族のことなどが話題になった。 短い文章を読む訓練や早口言葉の練習、童話などを読む練習もやった。また、発声が比較的やさしい唱歌を歌うこともした。演歌にも挑戦してみたが、微妙な節回しが演歌にはあって、とうとう退院する頃になっても歌うことは出来なかった。 最初の頃、相当言葉の障害があると自分でも思っていたが、秋になるとSTの先生に「だいぶ回復しているので訓練は週2回に減らしましょう」と言われた。この頃には、自分でも「言葉が随分出ているな」と感じていた。 |
東京都リハビリテーション病院は「専門リハビリテーション医療」を行う病院である。原疾患が安定期に入った人で、リハビリテーション医療を集中的に行って効果が期待できる者に対して、理学療法、作業療法、言語療法を集中的に行っている。 私の場合には土曜日、日曜日、祭日を除く毎日訓練があった。言語療法の訓練だけは、週2回だった。それぞれの訓練時間はおよそ1時間半ずつだった。 そのほか、病棟で看護婦指導の訓練があり、夜は患者何人かで自主訓練をやった。
☆ 理学療法の訓練の内容 @ マット上での訓練 ベッドに寝て、両膝を立てて左右に20回ずつ倒す、お尻を20回上げる、足をお腹の前に20回上げる。・・・最初自分でやり、その後先生が身体を動かしてくれる。
A 足の懸垂=お立ち台 足の懸垂(前が高く後ろが低い俗に「お立ち台」と呼ばれる台の上に立つ。動かないようにPTの先生に固定してもらった) 5分
B 自転車こぎ(エルゴメーター) 固定された自転車に乗ってこぐ。・・10分
C 歩行器上の訓練 電動で動くローラーの上で歩行する。・・5〜10分
D 平行棒の中を歩く 15回
E 一本杖歩行 PT(理学療法士)の先生が付いてくれる。左足の緊張が強いため、腰が左側に引けるのを何度も矯正してもらう。 15M〜30M F その他 PT(理学療法士)の指導でいろいろ
☆ 作業療法の訓練の内容 @ ストレッチ体操 訓練日に椅子に座ってやる。
A マット上での訓練 マットの上でOT(作業療法士)の先生が身体を動かしてくれる。
B 机での訓練 ・雑巾掛け タオルを雑巾のように縫った乾いた布の上に両手を添えて、机を前方に動かす。 それを雑巾掛けと患者は呼んだ。 ・新聞丸め、新聞ちぎり、 机の上で新聞を丸める練習。 新聞を片手で押さえ、もう片方の手で端から3〜5CMくらいずつ、破いていく練習。 ・新聞への線引き 新聞へ定規を当てて直線を引く練習。左手で定規を押さえるが、動いてしまって困った。 ・書写 字を書く練習をした。始めは大きいマスのなかに、だんだん小さいマスになった。 ・ワープロの練習 台数が少なくあまりやれなかった。パソコンは古い機種しかなくて使わなかった。
☆ 言語訓練の内容 ST(言語療法士)の指導で ・ 発声練習、腹式呼吸法の練習 ・ その後は読みにくい文章を読む練習に進んだ。 ・ 続いて先生から紙に印刷したテキストの文章をもらい、先生がテープに吹き込んだ見本を聞いてその後2回ず つ復唱して練習した。 ・ 集団での発声練習 ・ 毎週1回だけ、8人前後の患者が訓練室に集まり、ST(言語療法士)の指導で発声練習をした。 |
☆ 心理療法=臨床心理士よる指導 毎週1回、復職という目標に向けて、職場での対応が可能かどうか?のテストをやった。ペーパーテスト、積み木の道具などを使う問題などいろいろあった。このテストの結果、「復職 OK」の結果がでて、気分的に随分楽になった。 1回目の脳出血のとき「馬鹿にされている」と感じたテストが、今度は素直にやれた。復職するために、「脳出血による影響がでているかどうかを調べるテスト」だと自分で良く理解できていたからだと思う。(毎回、テストの前に先生といろいろ会話をするのが楽しみだった。) |
☆ 病棟での訓練 リハビリテーションの専門病院だけに、看護婦さんたちが患者の障害の状況に応じて病棟で訓練をしてくれた。 ・ 車椅子に乗る訓練・・・病棟の廊下を回る ・ 廊下の手すりを使った立ち上がりの訓練 ・ 廊下での歩行訓練・・・四点杖を使って、看護婦さんが一緒に
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☆ 自主訓練 二回目の脳出血の後遺症は一回目の時の片麻痺と違い両麻痺だったので、リハビリテーションも非常に苦しく、自主訓練も片麻痺の人のようにはやれなかったが、少しでも回復に役立てようと、毎日次の3つを重点的にやった。
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【答え】 私は次のことを念頭において再発の予防をしています。これには、妻と娘も全面的に協力してくれます。
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【答え】 病気(脳出血だけではりません)はいつやってくるかわかりません。そのために、これだけは備えておきましょう。
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【答え】 もし不幸にしてあなたが「脳出血」になったら、これだけは覚えておきましょう。
■ 発病したとき
★ 意識が無い場合 自分ではどうしようもありません。運を天に任せましょう。(私の場合2度目の脳出血のとき)ただし、日頃から家族と話し合って健康に関する情報を共有しておくことはとても大切です。 ★ 意識がある場合 初めての人はびっくりするでしょう。しかし、ここが肝心なところです。 1 冷静になる・・・「これはただごとではないな!!」ということを自分でも必ず感じます。 私の場合(1度目の脳出血のとき)には、急激な貧血(エレベーターで何十階も高速で降りたような感じ)で起きていることができなかったので「これはきたな!」と感じました。そして、静かにその場で横になりました。ただ「脳出血」と確信したわけではありません。運良く医師がいる職場だったので医師が「これは「脳出血」かもしれない。」と、直ぐに救急車の手配をしてくれました。「脳出血」患者の救命はいかに早く救急車に来てもらうかがカギだと思います。ですから、そのとき声が出る場合は近くの人に救急車を呼んでもらいましょう。 2 じたばたしない・・・脳の中で出血が起きているのですから、動かない方が良いに決まっています。私も救急車で病院に連れて行かれるまで、とにかく動かないで「じっとして」いました。ちょうど「まな板の鯉」のような心境でしょうか。
■ 「リハビリテーション」についてひとこと 1 「どういう人が回復が早い」と感じたか? 3カ所の病院に入院し、大勢の人とリハビリテーションの訓練を一緒にやってきた「感じ」を言いますと、総じて「良くなりたい」という気持ちが強い人(例えば、仕事を持っている人、家計の中心的役割を果たしている人、人の世話をしていた人など)などで、積極的にリハビリテーションをやる人の方が、あまり積極的でない人にくらべて回復が早いように感じました。勿論気持ちだけで回復するわけではありません。また人によって病状が違いますから、あくまで私の受けた「感じ」です。私がそういうように感じたというだけの話です。 2 リハビリテーションはどれだけやればいいか? リハビリテーションのために病院に入院した場合、患者ごとに病状が評価され、リハビリテーションの到達目標が決められます。そしてリハビリテーション訓練の時間割が作成されます。患者の中にはこの時間割の通りのことだけやって後は寝ていたりテレビを見ている人がいます。 当然のことですが時間割はリハビリテーションを指導してくれる先生の勤務時間内しか組んでありません。ですから休日や祝日は休みになります。勿論夜の訓練はありません。 ですがこの時間に何もしないのはもったいないと思いませんか? 先生がいないのですから無理な訓練は危険です。危険ななことは絶対やっては行けません。「危険が無くてかつできること」それが自主訓練の限界になります。そこで私がリハビリテーション病院でやった方法を紹介しましょう。 リハビリテーションをやっている病院には廊下に必ず手すりが付いています。この手すりを使って結構訓練が出来ます。手すりにつかまっての立ち上がり訓練、手すりにつかまっての歩行訓練などです。少し「危ないな」と思ったら看護婦室に近い廊下で看護婦の目に付くところでやればいいのです。看護婦が見て「そこまでやるのは危険だ」と思ったら注意してくれます。病院では患者の何人かがこうした自主的な訓練を夕食の後などにやっていました。 3 退院を勧められているが? 予定の入院期間が近くなると、退院を勧められるのが普通です。リハビリテーションの病院の入院期間はおおむね3ヶ月のところが多いと思います。ただし、これも患者の病状によって多少延びることがあります。 入院している病院が家から通える所の場合は退院して通院にきりかえましょう。通院できる人はその方が家の様子がいつも見られるなど刺激も多くリハビリテーションの効果は上がります。(入院している間も外泊を進められます。土曜日や日曜日は訓練もないですから出来るだけ外泊するようにしましょう。私はリハビリテーション病院では毎週末家に帰っていました。) 4 退院後はリハビリテーションをやれないが? 全快して退院する場合以外は(殆どの人の場合)、家に帰ってもリハビリテーションを止めては行けません。着替え、洗面、食事、歯磨き、ベットから車椅子へ移動、車椅子からベッドへの移動、トイレ、入浴、食事の準備(必要な人で自分でできる人)など家でもやれることはいっぱいあります。私はこのほかに妻に頼んで廊下に手すりをつけてもらいました。みてくれよりも安全を考えて頑丈につけてもらいました。廊下に置く自転車(エルゴメーター)も結構安い値段で買ってきてくれたので誰か人がいるときに乗るようにしています。 家の近くに通いで訓練をしてくれるところがある場合(家の近くの市町村保健センターや保健所が場所などの相談に乗ってくれます)は、できるだけそこへ通いましょう。 5 「発病から1年過ぎたらリハビリテーションをやってももう効果がない」というのは本当か? 絶対にそんなことはありません。私は98年4月で発病後4年になりますが、手の指や足などまだまだ回復しています。(自分でそう思っている)中でも言語障害などは、自分でも1年前よりだいぶ良くなっていると感じています。勿論リハビリテーションの効果が必ずあるわけではなく回復しないものもあります。それはそれでも良いではありませんか。何もしないで後悔するのはやめましょう。精一杯やれば、たとえそれ以上回復しなくとも自分が納得できるではありませんか。 とにかく「あきらめない」ことが大事です。退院したら通院、そしてその後は家での自主訓練をやりましょう。復職後の日常生活の中にも訓練材料はいっぱいあります。 |
【答え】 病気との闘いは患者だけがやるわけではありません。家族の支えが患者の闘病心を高める上で欠かせないものだと思います。 私の場合もそうでした。妻は私が倒れてから、都立大久保病院を退院するまでの約10ヶ月の間毎日顔を見せました。意識不明でICUにいる間は勿論のこと、脳外科の病棟に移ってからも、1日も欠かさずきてくれました。勤務を持っていたので、平日は昼休みにきて家の様子を話したり、私の快復状況などについて話をして30分程であわただしく職場へ戻りましたが、それだけで随分元気づけられました。何よりも妻の明るい性格が救いでした。 「よーし 頑張るぞ!」という社会復帰への強い思いは、妻の応援がなければ高いステージのまま維持できなかったのではないかと思っています。 |
12, 復職は難しいって聞くけどどんなことに気をつけたの ?
【答え】 確かに楽ではないでしょう。何しろリハビリテーションに長い年月かかる病気ですし、また完全に元に戻らない場合がむしろ多いのですから。後遺症が重い場合の復職は特に難しいと思われます。私も入院している間に何人も失職していくお気の毒な人を見てきました。特に技術職の人でお勤めしている場合には元の職場への復帰が難しいようです。そういう人の場合に会社の中で他の部署へ異動して復帰できる人とやむを得ず退職する人に分かれるようです。これはリハビリテーション後の本人の身体の状況や会社のいろいろな状況によって違うと思われます。 私の場合には事務職の公務員でしたのでその点少し恵まれていたようです。病気で仕事を休職したのですが規定の2年間の休職期間をほぼいっぱい使ってリハビリテーションに取り組みました。その後復職したのですが当然のことながら病気の前のポストには戻れませんでした。管理職をしていたので仕事の滞りは許されません。入院している間に後任が発令されて仕事は継続していました。こういう場合公務員も会社でも同じだと思いますが「組織」が休みなく継続していくためには当然やむを得ないことです。 また、私の場合には車椅子を使っての復職になったので人事担当者にその点に特に配慮していただきました。その結果今の車椅子で勤務できる所に復職できたのは幸運だったと思います。勤務場所がきまり復職後の住まいとなるマンションを近くに借りて今の生活が始まりました。 身体障害者になっての復職は勿論本人にも大変なストレスがあります。しかし、いろいろ考えてくれる人事担当者も受け入れる職場の人たちも「大丈夫だろうか?」と本人が気が付かないだけでいろいろと気を使っています。そこを十分心得ておくことが大事だと思います。そうすれば復職した本人も「周りの人のストレスにならないようにやっていこう」ということになります。また「何か役に立ちたい」という気持ちにもなってきます。それが「前向きに生きていく姿勢になり」自然に周囲の人にもそれがわかるようになっていくことが理想ではないでしょうか? 私はその点に気をつけてやってきました。
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13, パソコンを使っていてリハビリテーションの効果があったの?
【答え】 結論からいいましょう おおいに効果がありました! 何故かと言いますと、パソコンを使うのは手だけではありません。 この頃では、毎日、車椅子からパソコンの置いてあるデスクとイスに移って、数時間はパソコンに向かって作業をしたり、インターネットを利用しています。 なぜパソコンに取り組んだかの詳しい事情は、著書『脳出血から二度生還して』に詳しく書きました。 「両手が使えない人で、筆を口にくわえて絵を描いている人もいる。僕は四肢麻痺でも右手が少し使えるのだから、パソコンが使えないはずがない。やれば必ずできる!」僕は思った。そして、あきらめないで、連日、パソコンと取り組んだ。 キーボードを押すと「ああああああああああああ・・・・・・・・・」となるのは、押した指が離せないからだ。離せないなら離せるようになるまで練習しよう。そう思った。キーボードを「押して、離す」それだけの練習を、毎日、毎日、繰り返した。 練習しているうちに「右手の人差し指で「押す」よりも、右手の中指で「押す」方がうまくいくのではないか?」と思った。そして中指でキーボードを押してみた。中指は人差し指よりも約一センチ長い。この僅か一センチの長さが、麻痺のある僕の右手の文字入力に大きく影響することを、この日自分で発見した。 おそろしく時間がかかったが、右手の人差し指をやや上げて、中指でキイを押す、僕の変則的な入力スタイルはこうしてはじまった。「これでパソコンが使えるようになる!」と思うと嬉しく涙がでた。 ・・・・・『脳出血から二度生還して』より一部引用以下略・・・・・ 健常者に較べるとパソコンの文字入力のスピードは較べものになりませんが、それでも、毎日メールを書くことやホームページの更新が楽しくできるようになりました。 いまインターネットの交流をしている相手は、脳出血などの脳血管疾患の患者さんやその家族だけではありません。障害のある人も、障害のない人もいろいろいます。女性も男性も、若い人も高齢の人もいます。専門職の医師や看護師、ケアマネージャーの人もいます。 脳出血の患者さんやその家族の皆さん、自分たちの未来に絶望しないためにも、インターネットの交流によるプラス思考で、楽しい毎日をおくるようにしませんか? (2002年12月記)
※ 「パソコンとリハビリテーション」もご覧ください。
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【答え】 2004年4月で二回目の脳出血で倒れてからおかげさまで無事10年が経過しました。一回目の脳出血で倒れてからだと19年になり感慨無量です。 二回目の脳出血で倒れてから心配していた再発もなく無事に十年過ぎたことに感謝したいと思います。 私のその後ですが、2001年3月に長年勤めた東京都を退職して自由人になりました。 今は妻と北埼玉の田舎町(妻の郷里)にバリアフリーの家を建てて、妻は野菜作りなどの菜園ライフ、 私は田園風景の見える部屋でインターネットライフと夫婦でのんびり田園生活を楽しんでいます。 後遺症の四肢マヒは相変わらずなので今も車椅子の生活ですが、左手に残る視床痛ともすっかり仲良しになり、痛みや痺れも昔ほど気にならなくなりました。 60代になると時の過ぎるのが早く感じられますね。 何もしないでいると老化のスピードに負けてしまうので、訪問リハビリなどの介護保険のサービスを利用したり、町のリハビリ教室に行ったり、日常の生活の中でも自主リハビリを工夫するなど、毎年いろいろ新しいことにも挑戦しています。 自由人になって時間の余裕もでき気持ちも元気になってきたので、毎年何回か妻の運転する車で旅行にも出かけているんですよ。 これからもできるだけ気持ちは若く元気にやっていこうと思います。 |